2018年12月25日 降誕日礼拝説教より 「人を照らす光、キリスト」
(ヨハネによる福音書 第1章1節~14節)
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」。キリストは命であり、その命は私たち人間を照らす光であると捉えられてきました。古代のクリスチャン、とくに迫害時のクリスチャンは、地下墓所でしかも夕刻に礼拝を守り続けました。暗闇の中、ロウソクにぽっと火をつける。すると暗闇がかき消され、その場に集まった人々の顔が表れる。まさにキリストの光が集まった人々を照らす瞬間です。私たちもまた、キリストの光に照らされるのです。
しかし、光は私たちの影の部分も露わにしてしまいます。隠しておきたかったこと、また光がなければ見ずにすんだであろうことをも、光は照らし出します。光は、時にわたしたち人間にとってやっかいなものともなります。光であり続けたキリストが、十字架にかけられた所以でしょう。しかし、十字架にかけられた後も、キリストは私たちに命を与え続ける光であったのです。
池や水たまりに石を投げると波紋が広がります。指でさわると水面がゆれます。神さまは私たちの世界に直接触れられたのでした。ぽん、と小石を池に落とすように、命の源であるみ子をこの世に送られました。
そのみ子は、真っ暗闇を照らされました。それは全ての存在に命を与えました。一人一人が生きるに必要な色を浮かびあがらせました。み子は光でした。私たちと常に共におられる光です。だからこそ、その象徴として聖卓にはロウソクが灯されます。私たちも常に、み子がおられることを覚えましょう。私たちの中に、ロウソクを灯し続けましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年12月23日 クリスマス礼拝説教より 「信じることの素晴らしさ」
(ルカによる福音書 第1章39節~45節)
ルカによる福音書の1章では、マリアとエリザベトが物語られています。結婚前に妊娠したマリアは苦悩の中に置かれますが、神の言葉を信じていく過程で、希望と力強さを身につけていきます。
そのマリアの姿を通して、私たちはキリストのことを「信じても良い方」なのだと学んで行きます。人は、信じられる他者がいると力強く生きられます。それは子どもを見ているとよくわかります。子どもは、自分が信頼している大人がそばにいると、大胆に多くのことにチャレンジします。「あの人は自分を見捨てない」という誰か。私たちにとってその方はキリストです。キリストが共にいてくださるからこそ、私たちは自分の人生を力強く歩んでいけます。
キリストはあなたを見捨てない、私を見捨てない。なぜでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書 第3章16節a)。私たちを愛しておられるからキリストは私たちを見捨てない。そこに理由はありません。ただ一方的に私たちを大切に思って下さっています。だからキリストは十字架に架かられたのでした。
「クリスチャンだから救われる訳ではない。皆が救われている。」と先週お伝えしました。私たちは主を信じています。それは、主が私たちを愛して下さっていると信じているということです。そして、私たちは救われているということを知っていることです。これを知ると知らないとでは大きな差です。だから私たちは、多くの人にこのことを知って欲しいと願います。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」とエリサベトは言いました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」。クリスマスのメッセージを信じる人は、なんと幸いでしょう!
(司祭ヨハネ古澤)
2018年12月16日 降臨節第3主日礼拝説教より 「独りじゃない、という喜び」
イエスさまが活動をする少し前、洗礼者ヨハネは声を張り上げました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」。自分たちはアブラハムの子孫だから救われる、と考えていたユダヤの人々は驚いたことでしょう。アブラハムの子孫であるから救われる、ということではないと言うのだから。
翻って、私たちクリスチャンは何か特別でしょうか。クリスチャンだから救われるのでしょうか。イエスも聖書もそうは言っていない。むしろ、主は全ての人を愛している。だから独り子を人間のところへ送ってくださった、と言います。もしクリスチャンに特別な点を認めるとすれば、それはクリスチャンが主の愛を知っていること、主に頼ることを知っていること、主に感謝することが許されていることを知っていること、でしょう。
そのような我々に洗礼者ヨハネは呼びかけます。「悔い改めよ」と。それは「再度神に向き直れ、神に信頼せよ、主が共におられることを想い起せ」ということでしょう。「そうすれば、それは具体的な行動として表れる」、そのようにヨハネは言います。
ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」と言いますが、それは実際そうすることが悔い改めだ、ということではありません。神に向き直れば、主の愛を感じれば、自ずと隣人を大切にする行動を起こしたくなるでしょ、ということです。主の愛によって一方的に私たちに救いが、み子が送られたように、悔い改めもやはり主がきっかけを与えてくださいます。それは喜びの到来とも言えるでしょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年12月9日 降臨節第2主日礼拝説教より 「『やぶれ』のない平和」
(ルカによる福音書 第3章1節~6節)
イエスさまの誕生を迎える備えの期節である降臨節。私たちもまた、自分自身を省みるよう促されています。祭色の紫は、今が悔い改めの時であることを表しています。悔い改めとは、自分と神さまとの関係を振り返ることと言えます。それは、自分と他者との関係を振り返ることでもあります。自分自身の粗探しをして「自分はなんて罪深いんだ」と落胆することではありません。そうではなく、自分は神さまの声が聞こえているかな、自分はイエスさまと一緒に人生を歩めているかな、イエスさまの働きに参与できているかな、と確認すること。これこそが、私たちに必要な「悔い改め」です。この社会で孤独に置かれている人に対して関心を持っている、その人を覚えて祈る。これも重要な神の働きへの参与です。
先週、私たちがいつも礼拝でかわす挨拶、「主の平和(シャローム)」とは、全く綻びの無い・破れの無い布の状態だとお伝えしました。そして破れや綻びとは、戦争や、困難、差別や、暴力、繋がりの断絶や、様々な理由から本来神さまから与えられた生命を生きられない人の存在を意味するでしょう。イエスの働きとは、その布の破れや綻びを一つずつ繕っていくようなものではないでしょうか。
今日は二本目のアドベントキャンドルに光が灯されました。二本目のキャンドルは平和を表します。シャロームの布を少しずつ繕い、平和を実現してくださるキリスト。そのキリストの誕生まであと二週間です。私たちも、平和のみ子を迎える備えを致しましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年12 月2日 降臨節第1主日礼拝説教より 「再び来られるまで」
(ルカによる福音書 第21章25節~31節)
私たちは毎週礼拝で「主の平和(シャローム)」と言ってお互いに挨拶をします。平和という言葉には「パックス・ロマーナ(ローマによる平和)」のように「パックス」という言葉がありますが、この平和は力による平和です。力による平和には、どうしても踏みつけられる人々が出てきます。それに対して、シャローム(主の平和)は、綻びの無い布の状態です。だれも欠けることがありません。そのシャロームが隅々まで行き渡った状態が神の国と言えます。今も主は神の国完成のために働いておられます。私たちは、その神の働きに参与することが求められているでしょう。
私たちが、共に祈る仲間を招くためには、「私たちが伝えたいこと」以上に、「相手が知りたいこと」を発信する必要があります。しかし、私たちが神の働きに参与するためには、「私たちが知りたいこと」以上に、「神が伝えたいこと」に耳を傾ける必要があります。それは、他者の・隣人の声に耳を傾けることに他なりません。
イエスは「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」と言います。私たちは常に、神の声に、そして人の声に敏感になる必要がありそうです。そのために、私たちは週の初めに共に祈り、日々誰かを覚えて祈ります。
(司祭ヨハネ古澤)