2018年10月28日 聖霊降臨後第23主日 逝去者記念礼拝説教より 「信じる人と共に」
(シラ書 第44章1節~10節、13節~14節)
いわば教会は大きな家族です。一般の家族がその家庭の中で赤ちゃんの誕生から家族の死までを経験するように、教会もまた赤ちゃんの誕生から兄弟姉妹の死までを経験していきます。神さまの導きによって二人が出会い、人生を共に歩んで行く、また結婚していくように、そして赤ちゃんが生まれるとき、親も赤ちゃんもお互いが神さまの導きによって出会うように、一人一人が導かれてこの教会で出会います。教会もまた神さまの導きによって成り立っています。
何かの折に、とある教会のAさんがご自身がクリスチャンになることを決心した出来事について物語ってくださいました。ある日、大学時代の恩師と会う用事ができて、せっかくだからと恩師に誘われて礼拝から参加することになりました。当時60年ほど前は、ほぼ全ての教会では靴を脱いで礼拝堂へ入っていったそうです。Aさんも靴を脱いでスリッパに履き替えようとしていました。すると、彼の恩師がとても自然な動きでAさんの靴を下駄箱へしまったのでした。Aさんは「こんな偉い先生が自分の靴をしまってくれるのか。教会とはこういうところなのか。」と、衝撃を受けました。私はこの物語を伺って、「え、それだけのことでクリスチャンになることになったの」と正直感じました。でも、私たちの重大な事柄に関するきっかけというのは、どれも些細なことかもしれません。大切な人との出会い、思い返せば本当に小さな出来事がきっかけだったかもしれません。ボタンの掛け違いほどの差で、その人とは出会わなかったかもしれない。親子の出会いもそうです。あらゆる出会いは、出会いそのものが奇跡と言いうるものです。それを私たちは主の導きと呼んでいます。聖霊の働きを感じています。だからこそ、大切な出会いを経験した人だからこそ、毎年私たちは逝去者記念礼拝を行います。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年10月21日 聖霊降臨後第22主日礼拝説教より 「仕えるために来られた方」
聖書が語る「罪」とは、神の声に聴き従わず神から離れている状態を指します。羊使いが声をかけても彼のもとに来ない羊たち - イザヤ書では罪をこのように表現しています。そして、その神から離れている人々を、また神のもとへと集めるために、つまり罪の状態から神との正しい状態へと人々を導くためにキリストは人間の只中へと来られたのでした。
イエスは弟子たちに「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言います。「身代金」とは、もともと戦争で捕虜や奴隷となった人々を釈放させるために支払われたお金のことです。イエスは、罪に捕らわれた人々を解き放つために、命を支払いに来てくださったのでした。
イエスが人々に伝えた神のみ心、つまり「神はすべての人を愛しておられる」というみ心が、少しずつ、しかし確実に広がり、病人であるから、障がいがあるから、徴税人であるから罪人、といった認識から人々は解放されていきました。それは、罪人であると見なされていた人々が罪人というレッテルから解放されることを意味すると共に、それまで病人を罪人と見なしていた人々もまた、神の呼びかけに答える存在へと変えられたことを意味しました。こうして、羊飼いのもとに少しずつ羊は近づいて来ました。それは長い年月をかけて今も行われています。
キリストは仕えられるためではなく、私たちに仕えるために来てくださった。だからこそ、私たちが主の声に、羊飼いの声に耳を傾けるとき、私たちは自ずと誰かに仕える存在となるのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年10月14日 聖霊降臨後第21主日礼拝説教より 「自分かキリストか」
(マルコによる福音書 第10章17節~27節)
「ある人」は持っている物を売り払うことができませんでした。福音書は「たくさんの財産を持っていたからである」と理由を語ります。財産を売らずにイエスに従う道はなかったのか、と思いますが、「ある人」にとって財産を手放すことと、イエスに従うことは同じだったようです。イエスに従えば、結果として財産を手放すことになる。この「ある人」にとってはそうでした。
私たちはイエスに従うとき、何かを手放すことになる。今日の物語はこのように語っています。
漁師であるペトロとアンデレは網を捨ててイエスに従いました。これは仕事を手放したことを意味します。ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネは父と雇い人をその場に残してイエスに従いました。イエスの十字架と復活の出来事からしばらく後、キリストの啓示を受けたパウロは、ファリサイ派の中のファリサイ派という権威を捨ててキリストに従いました。
私たちもキリストに出会わなければ持っていたであろう何かを捨てているかもしれません。財産、役職・地位、時間、娯楽。色んなものが考えられます。それを捨ててキリストに従うということは、言い換えるなら、キリストを優先させるか、自分を優先させるかとなるでしょう。
キリストは自分を優先させることはありませんでした。常に神のみ心を優先させました。それは私たち人間を優先させることでもありました。「ある人」がイエスを優先させていたなら、その財産が貧しい人に用いられたように、私たちがキリストを優先させることは、誰かを優先させることに繋がります。それはイエスが私たちに与えた新しい掟、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」という掟へと通じます。キリストに従うこと、それは、私たちがキリストの愛を確認すること、そして誰かを愛することなのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年10月7日 聖霊降臨後第20主日礼拝説教より 「神の想いに目を向けて」
(マルコによる福音書 第10章2節~9節、創世記 第2章18節~24節)
ファリサイ派の人々は、律法を中心にして「自分たちには何が許されているか」「何をしても良いか」を常に考えていましたが、イエスは「神の意志は何か」を常に考えていたようです。「ここに離婚規定がある。ではなぜ、この離婚規定が出来たのか。」という視点で律法をみていました。それは、神さまが何を望んでおられるか、何を想っておられるか、ということに目を向けることでした。
「神が結び合わせてくださったものを、人は話してはならない。」とイエスは言います。これは直訳すれば「神が一つの軛に合わせられたものを、人間が離してはならない」となるようです。人間が一人で負っていた軛を二人で担うように、神さまがそのようにしてくださった。そうイエスは言います。
幸いなときだけでなく災いのときも、豊かなときだけでなく貧しいときも、健康なときだけでなく病気ときのも、人は歩みを続けます。その時々を二人で歩ませてくれる。それが神さまが人間に与えてくれた結婚。神さまの私たち人間への愛が見えますね。
全ての人間は神の似姿につくられた。そして、神が「二人で一つの軛を担うように導いてくださる」。それが結婚であり、もっと多くの人数で軛を担うのが教会でもあります。私たちがそれぞれの人生の旅路を歩み続けることができるよう、あらゆる方面から、主は心を砕いてくださっている。キリストが十字架を引きずりながら、私たち一人一人を導いてくださっている。そのような光景が浮かんできます。私たちの先頭に立ち、また私たち一人一人の傍らにいてくださるキリスト。キリストが想い、願っていることに目を向けましょう。そこには、私たち人間への溢れんばかりの愛が見えるはずです。
(司祭ヨハネ古澤)