2020年12月27日 降臨後第1主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第1章17節~18節、ガラテヤの信徒への手紙 第3章24節)
1964年のディズニー映画に「メリー・ポピンズ」があります。この映画を小学生時代に観て、一気にメリー・ポピンズの虜になったことを憶えています。ミュージカル映画ですから、様々な音楽が流れます。メリー・ポピンズは1934 年から 88 年にかけて、パメラ・トラヴァースが著した児童文学で、舞台は 1910 年のロンドン。バンクス家の三人姉弟の養育係としてメリー・ポピンズが雇われます。ナニーと名称で知られる養育係は、カヴァネスとは違いワーキングクラスやロウアーミドルクラス出身者が就く仕事だそうで、使用人の一人と看做されていました。だからこそ、メリー・ポピンズは煙突掃除屋さんとも親しいですし、物乞いのおばあさんにも優しく接するのかもしれません。そして、小説では少々ツンとして自惚れやの一面があるメリー・ポピンズです が、常に子どもたちのことを中心に考えて、養育係の務めを果たしていきます。
私たちと主の関係もそうだと思います。パウロの時代、律法は確かに厳しいものでしたが、私たちの時代には、律法もまた主イエスから教わるものです。主イエスは、マタイ福音書において「律法の字から一点一画も消え去ることはない」と言います。なぜなら、律法は否定するものではなく、神の愛へと導くものだからです。なぜ盗んではいけないのか、なぜ神の名をみだりに唱えてはならないのか、なぜ麦の収穫の際は地面におちた穂を残しておかなければならないのか。それは、 神が私たち人間を大切にしている、愛しているように、私たちも互いに愛し合うために他なりません。私たちの社会の法律に引っかかるから盗んではいけないわけでなく(もちろん法律は守る必要がありますが)、その行為が相手を傷つける行為であるから、神の愛とは相容れない行為であるからいけないわけです。神の名をみだりに唱えてはいけないのは、自分の行為を神の名によって正当化することがないように、人が神の座に就くことのないように。落ち穂を拾ってはいけないのは、貧しい人の食料となるように。すべて、神の愛が根底にあります。
今日の特祷で私たちは「全能の神よ、あなたは驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造られ、さらに驚くべきみ業により、み子イエス・キリストによって、その似姿を回復してくださいました」と祈りました。私たちは神の似姿に、つまりコピーのように造られました。しかし、神の望む生き方から外れることが多々ありました。しかし、主イエスのご降誕によって、「似姿を回復」つまり、神の望む生き方へと導いてくださったのです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と福音記者ヨハネは 語ります。主イエスを通して私たちは神の人間への期待を知ることができます。今年最後の主日に私たちはこのメッセージを受けました。新しい年、コロナ禍が続く新年ですが、新しい年も、主イエスと共に、そして聖愛に連なる多くの兄弟姉妹と共に、主が抱いておられる私たち人間への期待に願いに耳を傾けながら、共に歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年12月20日 降臨節第4主日礼拝説教より
(ヨハネに よ る 福音書 第1章12節~14節)
「お陰さま」という言葉があります。なんだか好きな言葉 です。仏教思想の影響から生まれた言葉な のですね。「諸法無我。世の中のものはすべて単独で存在するものはなく、 お互いに関わりあって存在する」。そのような意味合いも持つ言葉のようです。 神さまの陰で休ませて頂いた、守って頂いた、支えていただいた。とても温かい言葉です。
支え合いによる生活が前提であるはずの私たちの社会ですが、一方で「自己責任」という考え方が前面に出されています。経済的に窮して生活に困っても、「それはあなたの責任でしょ」と突き放されます。その人に全ての責任があるように言われてしまいます。「それはあなたの問題でしょ。わたしを巻き込まないでよ。あなたの重荷を私に押しつけないでよ」。このような思いがこの「自己責任」という言葉に込められているように感じます。
しかし、主イエスはこのことと正反対のことを言います。私たちがこの一年間大切にしてきた聖句を覚えているでしょうか。 「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ第11章28節)という年間聖句です。「疲れた人、重荷を背負っている人」、それがどのような理由で疲れていても、どのような重荷を背負っていても、私のところにおいで、と主イエスは言います。突き放すなんて事はしないよ、と。
そう、降誕日を前に私たちは最も大切なことを思い出します。私たちは互いに支え合い生きていますが、それを望まれているのは主であることを。そして、私たちをキリストに出会わせてくださったのも主ご自 身であることを。今日の福音書に このようにありました。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。私たちは自分の思いだけでキリスト者になったのではなく、神によって導かれたのです。そして、私たちが支え合いながら生きようと努めることもまた、主の導きによるものです。
このコロナ禍にあって、私たちは大切な 様々な ことを再認識しました。主日に集まることの大切さもそうです。私た ちの小さな群れでさえ、互いに顔を合わせて集まるとき、どれほど互いの励みになるのか、ということが分かりました。
クリスマスは私たちの主がお生まれになった日です。それは、主がなぜ私たちと同じ姿で私た ちの間に来られたのか、そのことを確認する日でもあります。そして 見方を変えれば、私たちに主が何を望んでおられるのかを確認することでもあり、私たちがどれだけ大きな恵みにうちにあるかを知る日でもあります。
お陰さまで私たちは生きています。だからこそ、私たちは他者を大切にしながら、そして自分自身を大切にしながら、主と多くの兄弟姉妹と共にそれぞれの人生の旅路を歩みましょう。今年はコロナ禍にあって集まることができませんでした。しかし、それでも主は共におられます。知恵を出し合い、互いに励まし支え合い、このコロナ禍を乗り切りましょう。
( 司祭ヨハネ古澤)
2020年12月13日 降臨節第3主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第1章6節~8節、19節~28節)
福音書は様々な目的から成立しました。また必要に迫られて記された書物とも言われています。それは、主イエスが十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に復活され、天に昇られてから40年ほどが経った頃。二千年前の40年と言えば、世代交代がされる期間ですから、主イエスを直接知る人はおろか、主イエスの物語をきちんと知っている人も少なくなってきました。そのため、主イエスが何を行い、何を教えたか、十字架の出来事とは何だったのか、このような事柄をまとめる必要が出てきました。口伝と主イエスの言葉を記したメモ。これらを基にマルコ福音書がまずは成立したと言われています。主イエスの出来事を伝える、これが必要に迫られた執筆の動機でした。
しかし、福音書はそのためだけに成立はしませんでした。福音書はギリシア語で「エウアンゲリオン」、つまり「良き報せ」です。元々はローマ皇帝にもたらされた戦勝報告を指しました。メシアが来られた、神が人間を愛しておられることが告げ知らされた、死は終わりではなかった、罪人と見做されていた人は神に愛されている存在だった、神の救いは場所や時間に縛られることはなかった。様々な良き報せを福音書は記しています。福音書を通して神の栄光が示される。福音書は神の栄光を示す一つの道具とも言えます。
本日の日課は先週に引き続き、洗礼者ヨハネが登場しました。今日の日課は洗礼者ヨハネとは何者であるかに言及しています。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と冒頭で紹介されています。そしてヨハネ自身は「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」、イザヤ書を引用して自分を紹介します。自分は主イエスが来られるための備えをする者だ、と言うのです。そして今日の日課の少し先では「だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と語ります。
洗礼者ヨハネは、自分自身を前面に出すことなく、主イエスが来られる時の準備のためだけに自身を用いました。自分自身を神の栄光を示す道具の一つとしたのです。それは全ての人の「良き報せ」のため、全ての人の喜びのためでした。
今日灯されたキャンドルは「喜び」のキャンドルです。点火の祈りでこのように祈りました。「主よ、救い主の約束の成就とわたしたちが生きることの深い意味を、喜びをもってほめたたえます」。コロナ禍にあって、今まで経済的にも精神的にも追い詰められていた人がさらに押し出され、自ら命を絶っています。独り親で頑張って子育てをしている人が今まで以上に生活に窮しています。自身の生きる深い意味を私たちが知ろう、探ろうとする時、そこにはゆったりとした時間が、ある程度の余裕が必要です。私たち一人ひとりが、良き報せのため、全ての人の喜びのために生きることができるよう祈りながら、主のご降誕の日を待ちましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年12月6日 降臨節第2主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章1節~8節)
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大により、今年4月に緊急事態宣言が出され、その間は教会の公祷を休止しました。6月から公祷を再開し早くも半年が経ちました。この半年で新型コロナウイルスの特徴が少しずつ解明されてくると共に、私たちもこの感染症予防・対策を行うことができるようになってきました。しかし、クリスマスを目前にして第3波が到来し、再度の公祷休止を行うに至りました。肩を落としたくなりますが、このような時に九州の奥田知志牧師の言葉を思い出します。ヨハネ福音書第1章5節「光は暗闇の中で輝いている」についての言葉です。「よく『明けない夜はない』や『このトンネルを抜けると光が差す』というが、聖書には『光は暗闇の中で輝いている子』とある。私たちが暗闇と感じる只中にキリストはおられるのだ」。正確に記憶できていませんが、このような言葉でした。
本日の福音書には、洗礼者ヨハネによる洗礼と主イエスの洗礼について記されています。洗礼者ヨハネの行っていた洗礼は、「悔い改めの洗礼」であったと書かれています。「悔い改め」とは、方向転換や視点の移動を意味する言葉です。自分中心の視点から、他者を中心とした視点へ移ることでもあります。主イエスが来られる、その道を備える役目を担っていたのが洗礼者ヨハネですから、人々が今までとは違う視座を持つ時、主イエスが歩まれる道が見える、そのような準備を行っていたのでしょう。
洗礼者ヨハネは、主イエスが行う洗礼を「聖霊で洗礼をお授けになる」と説明しました。聖霊は命を与える存在であり、また私たちを進むべき道へと導く存在です。聖パウロはガラテヤ書第3章27節で、洗礼を「キリストを着る」と表現しています。洗礼を受け聖霊に導かれる私たちは、キリストを着る、つまりキリストと一つになって生きる存在とされているのです。
緊急事態宣言が出された前後、マスク不足が起こり皆一斉にマスクを求めました。自分の家にマスクが無い。もうすぐ無くなりそうだ。この先どうなるかわからない。様々な不安が私たちを駆り立てたのだと思います。しかし、視点を自分から少し移動させると、足腰の弱い方や仕事のため朝早くから出勤する人が見えてくるでしょう。そして、その人たちの視点からマスク不足を見ようとすれば、まだ少しマスクが残っているから、今はまだ買い求めるのは控えよう、と判断するかもしれません。
洗礼者ヨハネが行っていた「悔い改めの洗礼」は、私たちが主イエスと一つになって生きる道へと導くものでした。そして、主イエスと一つになって生きる私たちは、一人一人が暗闇の中で輝く光でもあります。互いに照らし合いながら、このコロナ禍を乗り切ってまいりましょう。
(司祭ヨハネ古澤)