2022年12月25日 降誕日主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第2章1~20節)
クリスマス物語を読んでいると、主イエスがお生まれになった出来事は、ある意味では日常でのことだったのだな、と感じます。もちろん、赤ちゃんが生まれるわけですし、ヨセフの故郷とはいえ旅先での出産です。身分の高い人が多く来ていたようで、ヨセフとマリアは自分たちが泊まる客間も見つけられない状況でした。二人にとって不安に満ちた出産だったと思います。しかし、そこには当時の貧しい家の一般的な出産の光景がありまし た。旅先ではあったものの、ヨセフとマリアの生活の中で主イエスは生まれたのでした。神さまの働きの痕跡などないかのような、静かな出来事でした。
一方、羊飼いたちはいつもと同じ静かな夜を過ごすことができませんでした。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と福音書が語るように、夜中に家を離れている彼らは家族を守る ことができない恥知らずと見做されていましたし、他人の土地の草を家畜に食べさせるため、羊飼いたちは強盗であると考えられていました。そのような理由から神の救いに与れないと見做されていた羊飼いたち。彼らの許に「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」のです。そして羊飼いたちは救い主が生まれたことを人々に伝えるメッセンジャーとなりました。
クリスマス物語は、救いは下から日常からやってくると伝えます。ただの一人も救いから取りこぼれないよう、心を砕き働かれる神さまの姿が見えるようです。神さまのみ心を求めながら、新しい一年をご一緒に歩みま しょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年12月18日 降臨節第4主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第1章18~25節)
本日の福音書では、神さまが私たちの世界へ働きかけられた二つのことが語られています。一つは、イエスの母マリアへの働きかけ、もう一つは、ヨセフの夢に神さまからの天使が現れた出来事でした。聖霊と天使、どちらも神さまのご意志だったことが分かります。
しかし、なぜマリアとヨセフの両者に働きかける必要があったのでしょうか。救い主の誕生だけを望むのであれば、ヨセフに働きかける必要はなかったはずです。ヨセフがマリアの妊娠を公にしてマリアが姦通の罪で石打にならないよう「ひそかに縁を切ろう」と考えていたのですから。このような疑問を持ちながら福音書を読み進めますと、一つの言葉が目に留まります。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった(22 節)」という一文です。ここで「はっ」とします。もし神の働きがヨセフに現れず、ヨセフがマリアと縁を切ってしまったら、神の約束は半分しか果たされないことになります。ヨセフとマリアが結ばれなければ、生まれた男の子はダビデの家系ではなくなるのですから。
今の時代からすれば、家系にこだわるなどおかしな話ですが、当時のユダヤ人クリスチャンからすれば、神が半世紀も前にされた約束を全て守ってくださったことは大きな喜びであり励ましだったでしょう。「インマヌエ ル=神は我々と共におられる」、この言葉は預言者の口 から単に発せられたのではありません。正に神は私たちと一緒にいてくださる。だからこそ、ヨセフは正しくもしんどい選択肢を選ぶことができました。しかしそれ は、救いの道だったのです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ③
「 どこで生まれた? イエスさま 」
少し早いですが、クリスマス物語について分かち合い たいと思います。時のローマ皇帝の勅令によって、住民登録を行なうため夫ヨセフの故郷、ベツレヘムへ辿り着いた二人。身重のマリアはそのベツレヘムで「初めての子を生み」ました。そして赤ん坊を「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」ます。福音書はその理由を「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と語ります。こ の一文から、伝統的にイエスさまは家畜小屋で生まれたとされてきました。はたしてそうなのでしょうか?
福音書には「宿屋」と訳される言葉(ギリシア語)が二つ使われています。一つは「カタリューマ」で、もう一つは「パンドケイオン」。前者は「滞在場所」や「客 間」を意味し、後者は文字通り「宿屋」で「すべてを受け入れる場所」を意味します。マリアとヨセフが泊まる場所を見つけられなかったのは、「パンドケイオン」ではなく、「カタリューマ」でした。当時の民家の客間は 「二階の広間」を指します(最後の晩餐が行なわれ た!)。つまり、客人が泊まる場所=二階の広間はどこも来客でいっぱいだったわけです。
パレスチナ地方の典型的な村家では、家族が暮らす部屋は一階のワンルームで家畜用のスペースが隣接していました。昔の日本の農家が家畜と暮らしていたようにです。そして、飼い葉桶は家族の居間と畜舎の境に置かれていたようです。つまり、母マリアが出産した場所は家族用スペースの片隅だった、という可能性があるわけです。いままで私たちが持っていたクリスマスのイメー ジとは、また違った光景があったのかもしれません。
※聖書引用箇所はルカ福音書 第2章7節
(司祭ヨハネ古澤)
2022年12月4日 降臨節第2主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第3章1~12節)
洗礼者ヨハネが荒野で宣べ伝えた「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、主イエスがガリラヤで宣教を始められた言葉と同じでした(第4章17節)。洗礼者ヨハネは正に主の道を整える存在だったわけです。「天の 国」つまり神が世を治められる状態である「神の国」が近づいてきている、と洗礼者ヨハネは言います。終末の時は近いのだ、と。だから悔い改めよと言います。「悔い改める=メタノイア」とは「方向転換」や「視座を移す・視点を移す」と訳されます。よく耳にする言葉です。では私たちが方向転換をするとは、また視座を移すとはどのようなことなのでしょうか。
今日の日課であるローマの信徒への手紙で、聖パウロは「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(第15章7節)と言います。「受け入れる (プロスランバノー)」とは「交わりに加える」とも訳されます。「先にキリストが私たちを主の交わりに加えてくださった。この事実があるのだから、あなた方も互いに相手を交わりに加えなさい」と言うのです。このことから、「私たちが方向転換をすると、キリストがわたしをすでに主の交わりに加えてくださっている、という事実が見えるのだ」と言えるでしょう。この大きな喜びに気づくとき、私たちは自分との違いを持つ相手を受け入れていくのです。
私たちが悔い改めて生きて行くその先には、神の国が拡がります。今日の洗礼者ヨハネの言葉は、私たちの生き方の指針を一言で表している、そのような言葉ではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)