2023年7月30日 霊降臨後第9主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第13章31~33節、44~49a節)
私たち聖公会の伝統的な教会論(在り方)は、「風船型教会論」ではなく「鳥の巣型教会論」だそうです。これは2012年の宣教協議会で、西原廉太主教(当時司祭、現中部教区主教)が講演された際に紹介してくださったのですが、聖公会は「風船を膨らませていくように同質なものを同心円的に膨張させるのではなく、聖公会の教会はむしろ「鳥の巣」なのだ」そうです。「『鳥の巣』は、時には枝だけではなくて針金やプラスチックも混ざって、非常に醜く不格好なものですけれども、針で刺されても壊れませんし、専門家の方に伺ったのですが、鳥の巣というのは落としても壊れない、けっこう丈夫なのだそうです。そういう教会だと。その『鳥の巣』の中では、大切な <いのち> が育まれていく、そういうイメージだと思います。」と西原主教は説明されました。
鳥の巣のイメージの教会。文字通り異なる人びと、出自も年齢もジェンダーも、もちろん歩んできた道程も、考え方も、大切にしていることも、全く異なる。唯一の共通点が、主イエスをキリストと信じていること。その枝(キリストの木の枝!)である私たちは神の愛に結ばれて、複雑に折り重なる。枝ではなく針金ハンガーのような、一見風変わりな存在でも一つの巣を形作るものとして神の愛に結ばれる。それが私たち聖公会のイメージです。
そして私たちには大きな希望があります。今日の福音書の「からし種」という単語は聖書には単数形で書かれています。畑に蒔かれたのは一粒のからし種なのです。それはどんな種よりも小さい一粒の種なのだけど、蒔かれればどの野菜よりも大きくなり、鳥が枝に巣を作るほどの木になります。このからし種はキリストがもたらした福音、良い知らせのことを指すと言われます。そしてこの種は私たちにも植わっています。とても小さな種から始まったのです。主イエスの宣教はガリラヤという田舎地方から始まりました。大きな都から始まったわけではないのですね。それがこの寺田町の地まで広がった。そして私たち一人一人を通して今なお働き、広がり続けています。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑭
「結い」、「施し」、「分かち合い」
15日の土曜日、ご近所にある「結い」という里親支援施設が主催で、教会ホールを会場に沖縄フェスタが開催されました。沖縄から食材を仕入れた結果赤字だったそうですが、とても盛況でした。「結い」は髪の毛を結うなどの「ゆい」です。私は「結い」と聞いたとき「ああ、人と人とを結び合わせるという意味で『結い』なのだな」と感じました。この感想の一部は合っていたのですが、「結い」「結う」は、解ほどかれる前提で結ぶことを言うのですね。そして、「村などで田植えや屋根の葺き替えなど大量の労働が必要なとき、人間を貸し借りすることを『ゆい』と呼ぶ」のだと知りました。つまり「『結い』とは絶対に離れない接着ではなく、そのあとふたたびその場から離れる」のだと。
また、「結い」の個人版が「施し」と言えます。当初この「施し」という言葉については、お金を持っている人が持っていない人に上から目線で恵んでやる、というどちらかと言えばネガティブなイメージを持っていました。しかしこれも最近、そうではないと知りました。
雪などがはらはらと散る様子を表す「ほどろ」という言葉があります。「ほど」は何かが散ったり緩む様子を表し「ろ」は接尾辞だそうです。ですから、結び目を「解く」の「ほど」と同じ。「施す」の「ほど」も同じ意味で、施す」の本来の意味は「持っている力を、固く一人で持っていずに、ゆるめて四方の人々に分けあたえる」ことだそうです。
「ゆい」が村単位だったのに対して「施し」は個人単位。そして「施し」が互いに行われるとき、それは神の国の完成へと向かうわけです。なぜなら、私たち一人一人が持つ力というのは、神さまから施されたものだから。「分かち合えるたくさんの見えないものどんな小さなことさえも分かち合える」(聖歌576番)を思い出します。飛躍しすぎかもしれませんが、大切にしたい言葉です。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑬
「成功」と「実り」
ヘンリ・ナエウンの「弱さの中で育つ実」という一文をご紹介します。
「成功しているということと、実りが多いということは、大きく異なります。成功は、強さ、管理、世間体などによってもたらされます。成功している人は何かを創り出し、その発展を管理し、大量に利用できるようにする力を持っています。成功は多くの報酬をもたらし、しばしば名声ももたらします。しかし実りは弱さと傷つきやすさによってもたらされます。また実りは全くユニークなものです。子どもは傷つきやすさの中でみごもられた果実であり、人と人との交わりは傷を分かち合ってできる果実であり、親しさは互いの傷に触れることを通してできる果実です。私たちに真の喜びをもたらすものは、成功ではなく、実りの豊かさにあることを思い起こしましょう。」(「今日のパン、明日の糧」より)
私たちの人生での出来事、そして教会の歩みを思い返す時、成功か失敗かで見れば失敗と映ることがあるかもしれません。いえ、そのほうが多いかもしれません。多くの報酬や名声を獲得できなかった、信徒が思うように増えなかったなど。人間の価値観に照らせば失敗、そのようにわたしたちの目には映ります。
しかし、一人一人に焦点を当てたとき、一人の人間そのものに目を向けたとき、そこには神の価値観をみることができます。「あの人と思いを共有できた」「苦労を共にすることで喜びをも分かち合うことができた」であるとか、教会であれば、「心から礼拝を必要とする人が心底癒やされた」「この聖堂が癒やしの場として用いられた」など。これらはどれも、その人の豊かな実りです。一人の実りは私たちの実りです。私たちの実りは主の実りです。これこそが大きな喜び。主イエスの十字架と復活によってもたらされた実りです。私たちの人生の旅路は、この実りの発見と報告ではないでしょうか。ふとそのように思うのです。それは取りも直さず、「神ともにいます」ことを確認する旅路です。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年7月9日 霊降臨後第6主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第11章25~30節)
今日のテーマは「律法」です。律法は私たち人間が神さまの想いに沿った生き方がでるよう、神さまが直接人間に与えてくださった教えです。主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と言うように、律法を重要なものと位置づけていますし、聖パウロは「聖なるもの」と表現しやはり律法の大切さを示しています。
しかし、本日の使徒書でパウロは「神の律法」と「罪の法則(律法)」という言葉を用いています。つまり「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」というパウロの言葉からは、神の律法に従おうとする自分がいる一方で、罪の律法に従ってしまう自分に気づく葛藤が見て取れます。
神さまが与えてくださった律法は、本来私たち人間が皆で支え合いながら生きることができるようにするためのものでした。それがいつの間にか個人が守るべき掟へと変えられていきました。主イエスが人々のもとへ来られたとき、律法は一人で担ぐ側面が強かったようです。私たち人間には担いきれないものになっていたのでしょう。だからこそ、主イエスは来られました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と主イエスは言います。主イエスが来られるまでの律法が、形が歪になり背負うことができなくなっていたのに対して、主イエスの軛は私たちの体にピタッと合うのです。
実際の軛は二頭で背負います。私たちの隣には主イエスがおられます。人生の旅路を共に歩んでくださいます。そして、主イエスに繋がる兄弟姉妹がいます。だからこそ、私たちは神の律法に従って生きることができます。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)との言葉が浮かびます。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年7月2日 霊降臨後第5主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第10章34~42節)
主イエスの時代は「ローマによる平和」と言われるほど「平和」な時代でした。しかし、福音書を読むと見えてくるように、病気や障がいのため孤独に生きる人がいましたし、食べる物もなく行き倒れる人もいました。主イエスが十二人の弟子たちを派遣する決意をしたのは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人びとを見たためでしたが、まさに生きづらさを抱えている人が沢山いたわけです。それは平和な状態ではありませんでした。イエスの働きは人びとが平和だと感じている社会が、実はそうではないと人びとに気づかせるものだったでしょう。それは、神さまが本当は何を望んでおられるかを人びとに示すことでもありました。
しかしイエスの働きは「平和な社会」に暮らす多くの人にとって不快なものだったはずです。私たちが自分たちの生きる社会を批判されるとき、「聞きたくない」と思うのと同じです。他方、生きづらさを抱えて生きていた人々にとって、イエスの働きや言葉は生きる希望をもたらしたことでしょう。
「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:42)主イエスはこのように言います。主イエスと同じように「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」う活動をする弟子たち(これは指導者層から目を付けられる活動でした)に冷たい水一杯差し出す。つまり弟子たちの働きに賛同し弟子たちを支える人たち。その人々は主イエスを仲間だと言い表す人々であると言います。
私たちは「冷たい水一杯でも飲ませ」る道を歩みたいと願うのです。今の時代・社会にこそ主イエスの働きは必要でしょう。「冷たい水一杯」としての私たちの祈りと働きはとても重要な意味を持ちます。キリストの仲間として歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)