2019年12月29日 降臨後第1主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第1章16節~18節)
福音記者ヨハネはイエスについて、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と証しをしています。恵みの上にさらに恵みを頂いたのですね。
主イエス誕生までは、モーセが神から受けた律法という恵みがありました。その恵みに加えて、私たちは更に恵みを受けた。それがイエスのご降誕であると。
出エジプト記をみますと、モーセという名は、ナイル川に流されていた赤ん坊を引き上げた王女によって付けられました。「わたしがこの子を引き上げた(マーシャー)から、モーセと付けよう」と王女は言います。そのモーセは神の導きに従うことで、奴隷とされていたイスラエルの人々をその苦しみから引き上げました。そして神から示された律法によって、何が罪で何が義となるかを人々に教えた。他者を大切にすることを主が望んでおられると教えたのでした。
主イエスの名は「ヤーウェ(主)は救い」です。これは日本で言えば「太郎」くらい平凡な名前ですが、確かに主イエスは主が救いであることを示す存在です。しかしそれ以上に、イエスの父ヨセフが夢で天使から「その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げられた名前は主イエスを表しています。「神は、我々と共におられる」という名前は、主イエスの体を表しました。
さて、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」との一文があります。神はご自分を信じる人、信頼する人を「神の子」としてくださる、と言うのです。「神の子」つまり主イエスと同じ立場ですね。ここに、先ほどの福音記者ヨハネの証しがピタリとはまります。「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」のです。
今日は、2019年最後の主日です。神の子という名を示す生き方へと導かれよう、という思いを抱きつつ、新しい年を迎えましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年12月22日 降臨節第4主日礼拝(クリスマス礼拝)説教より
ヨハネ福音書のクリスマス物語は神さまに焦点を合わせているため、少し分かりづらいですね。でも、私たちがよく知っているクリスマス物語と内容は同じ。私たち人間を救うために、人となって二千年前のパレスチナに来てくださった。でも、そこには神さまの居場所はなかった。何とかテントを張って人として生まれてきた。それがベツレヘムの家畜小屋だった。「宿る」には「テントを張る」と「いう意味があります。
しかし、その出来事には大きな希望と喜びが込められていました。このようにあります。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と。平たく言えば、「神さまは、ご自分を信頼する人々をイエスさまと同じくして下さる」。イエスさまのようにしてくださる、と言うんですね。
「いやいや、僕はイエスさまみたいにはなれないよ」ではないんです。神さまがそうされるんですから。神さまを信頼するとは、イエスさまのようになることなのだよ、と神さまはクリスマス物語の中で言ってるんです。でも、私が自分の力で努力してイエスさまのようになるのでしょうか。それはとても不安です。心細いですよね。迷子になった子どものような心境でしょう。
だからこそ、私たちがそうならないよう、神さまはテントを張ってくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです。
聖書は旧約から新約までずっと一つのことについて書いています。神はずっとあなた方と一緒におられるよ。あなた方を愛しておられるよ。神は人を愛する存在です。イエスさまもそうでした。神の子に変えられるとは、多くの人を大切にできる人になることができるように、ということでしょう。神さまは、私たちが想像できないほどのプレゼントをもって、私たちの間に宿ってくださいました。この喜びを共に分かち合い、今日のクリスマス礼拝をご一緒に献げましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年12月15日 降臨節第3主日礼拝説教より
(イザヤ書 第35章4節~6節、マタイによる福音書 第11章4節)
今日の旧約日課は、その人の人生を180度変えるような喜びについて述べています。平穏な日常の上に成り立っている不安定な喜びではなく、覆いつくされることのない、絶対的な喜びについてです。
それは神の救いについてです。主の平和の到来についてです。預言者イザヤは神からの言葉を告げます。「心おののく人々に言え」と。「神は来て、あなたたちを救われる」と。その救いとは、「見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う」ものです。見えない人も、聞こえない人も、歩けない人も、喋ることが出来ない人も、当時は罪人とされていました。神の救いから締め出された人と見なされ、コミュニティから排除された人々でした。その人々が見えるように、聞こえるように、歩けるように、喋られるようにされるのです。それは「あなたたちは救われる存在だ」と告げられることです。自分たちのコミュニティに戻ることができる。交わりの回復であり、その人自身が「その人」として回復することを意味します。
さて、イザヤが予言した喜びの出来事を、違う形で経験した人物がいます。使徒聖パウロです。使徒言行録には、パウロがまだサウロと名乗っていたときの出来事が記されています(使徒言行録 第9章1節~9節、17節~19節)。パウロはその時まで聞くことが出来なかった神の声を聞きました。そして今まで語ることが出来なったキリストの福音を語るようになりました。今まで歩くことのなかった信仰の道を歩くようになりました。パウロは自身が記した手紙で、この出来事を大きな喜びとして、人々に紹介しています。
しかし、パウロにとって、この出来事は生みの苦しみでもあったはずです。今まで信じていたものを捨てる苦しみであり、今までの自分を脱ぎ捨てる苦しみもありました。
私たちにとって、絶対的な喜びは、主を信じる者へと変えられることです。それは、今までとは違ったものの見方をするように導かれることでもあります。今まで喜びでなかったものに喜びを感じるようになります。自分自身が、キリストと一つになって生きて行くようになります。その喜びの始まりが、クリスマスの出来事です。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年12月8日 降臨節第2主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(イザヤ書 第11章1節~2a節、マタイによる福音書 第3章1節~2節)
先ほど読まれましたイザヤ書の箇所は、聖書を見てみますと「平和の王」という小さなタイトルが付けられています。私たちの信仰からすれば、それは主イエスのことであり、そして6節から10節には主イエスが告げる、そして主イエスから始まる「平和」のイメージが記されています。それはとても温もりに満ちている描写であり、同時に私たちが知る自然の秩序では考えられない光景です。
そこには、狼と羊が一緒に暮らす姿、豹と子ヤギが共にいる姿、仔牛と若いライオンが共に育っていく姿、そして小さい子供がその群れを導く姿が描かれています。全く異なる存在が共に生きることができる状態。それが主イエスの平和を表す一つのイメージなのです。
換言すれば、それは誰も傷つけられない、誰も自分と異なる存在を排除しない状態であり、それぞれの存在が自分の命を生きることができる状態です。それが、主イエスの誕生によって始められました。
さて、今日の福音書に目を移しますと、主イエスより数ヶ月早く生まれた、洗礼者ヨハネが主イエスの活動開始を告げています。『悔い改めよ。天の国は近づいた。』と言います。「天の国」とは、「神の国」の福音記者マタイの表現です。ヨハネの言葉から察するに、神の国、キリストの平和の状態は、確かに近づいてはいるが、そこに至る道は決して平坦ではないことが分かります。
キリストの平和には、赤ちゃんイエスを胸に抱くマリアさまのような、絵画的な暖かさだけではなく、主イエスが十字架を担いで歩まれたような厳しさが伴います。新しい命が生まれるときには産みの苦しみが伴います。しかし、イザヤの予言が五百年後に成就したように、決して私たちのことを忘れない主の愛が、希望があることを私たちは知り、そして信じています。
今日の箇所は、教会の現状に当てはめることも、いつも祈りに覚えている困難な状況に置かれている人に当てはめることも、地球環境や紛争、外交状況に当てはめることもできるでしょう。何れの場合も、諦める方が楽になるものです。「あとは知らない」と投げる方が、余計な苦労を使わなくて済みます。しかし、主イエスは時に困難に立ち向かうよう私たちを促します。「あなたは一人ではない。私がいる。そして私に連なる人々がいる。」と私たちを激励します。それは多くの命を生かす道でもあります。だからこそ、私たちは微力な者同士が支え合い、祈り合います。一歩でも十分の一歩でも主の平和に近づくように。希望のキャンドルはまだま消えていません。平和の王が常に私たちと共に居られます。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年12月1日 降臨節第1主日礼拝説教より
(イザヤ書 第2章4節)
今日から降臨節(待降節)に入りました。それに伴って、アドヴェントのろうそく 点火の祈りを行いました。第1のろうそくは「希望」のろうそくです。
降臨節の一回目の日曜日、希望の日に三つの聖書日課はどれもが終末について語っています。終末、つまり神の国の完成が私たちの希望であるということ、そして救いの始まりである主イエスの誕生が神の国の始まりであるということです。
その神の国がどのような状態であるかが、イザヤ書に描かれていました。人々は、命を奪う道具である剣や槍を、命を育む道具に打ち直すというのです。それは神さまが強制的に行うというのではありません。人々がそのような状態になるのだとイザヤは語ります。
パウロはコリントの人々に宛てた手紙において、「キリストが私たちを用いてお書きになった手紙」は「石の板ではなく人の心の板に書きつけられた」と記しています。人の命を生かす存在とされるのに必要な物は、私たちはすでに与えられているのです。換言すれば、救いはすでに与えられています。
今日のイザヤ書では、命を奪う事柄として争いがあげられています。しかし、人の命を奪うのは争いだけではありません。剣のように悪意ある言葉が人を殺すこともあれば、困難を抱え過ぎて命が失われたような状態になることも多々あります。
このような時、剣が鋤へと変えられることの一つは「分かち合う」ことでしょう。「自分を愛するように人を愛しなさい」という主イエスの言葉を思い出します。
私たちはすでに、剣が鋤とされた出来事を知っています。そう、十字架です。処刑の道具であり死の象徴であった十字架は、主イエスの死と復活を通して人を生かす命の象徴へと変えられました。私たちは主イエスを通して命を分かち合う出来事に出合っています。大きな希望です。
(司祭ヨハネ古澤)