2018年9月23日 聖霊降臨後第18主日礼拝説教より 「子どもと十字架」
(マルコによる福音書 第9章30節~37節、知恵の書 第1章16節~2章22節)
「彼らはこう言い合うが、その考えは誤っている。『我々の一生は短く、苦労に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知る限り、陰府から戻って来た人はいない。』」
この言葉は確かに間違っています。なるほど、私たちの一生は短いかもしれないし、苦労に満ちているかもしれません。しかし、私たちは死に打ち勝つすべを知っています。そして私たちは、陰府から戻ってきた方を知っています。だからこそ、私たちは、「目の前にある良いものを楽しみ、この世のものをむさぼる」ことで神から顔を背ける必要もありませんし、「力こそ、義の尺度」とする必要もありません。そして、「弱さ」の中に強さがあることを知っていますから、弱い立場に置かれている人を切り捨てる必要もないわけです。
しかし、イエスの弟子たちはまだこれらのことを知りませんでした。イエスの教えを聴き、癒しの業や奇跡を目の当たりにしていましたが、まだ真の救い主について、そして神のみ心については分かりませんでした。それらのことを知るためには、イエスが「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」というように、イエスをそのまま受け入れる必要がありました。それは取りも直さず、十字架を受け入れることでした。世の常識からキリストの常識へと目線を移すことでした。
(司祭ヨハネ古澤)
2081年9月16日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教より 「十字架と私」
(マルコによる福音書 第8章2節~38節、ヤコブの手紙 第2章1節~18節)
「もし、兄弟あるいは姉妹が着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい。」と言うだけで、体に必要な物を何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」とヤコブの手紙は私たちに問いかけます。
ペトロの「あなたはメシアです。」という告白も、体に必要な物を何一つ与えない「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい。」という言葉も、どちらも自分の十字架を脇に置いた虚しい言葉です。神は、愚かさと恐怖の象徴であった十字架に、つまり、それを担ぐことすら忌避される十字架に救いを、真の命を忍ばせました。私たちがその十字架を手にするとき、私たちの言葉は真に生きるものと、いえ、私自身をそして隣人を生かすものとなるのでしょう。
「あなたがたはわたしを何者だというのか。」というイエスの問いかけは、常に私たち一人一人に発せられています。「あなたはどう思うか」、「あなたはどうするか」。イエスの真っ直ぐな目が私に迫ってきます。イエスが指摘する通り、ペトロの告白は虚しいものでした。イエスが捕らえられ、裁判にかけられているとき、「お前もあいつの仲間だろう。」と問い詰められたペトロは「あいつのことなど知らない。」と三度もイエスとの関係を否定しました。しかし、神のみ心を知りキリストに立ち返ったペトロを主は断罪するどころか迎え入れ、弟子たちのリーダーとして用いたのでした。
キリストに従う道は歩くのに心地よい道とは言えないでしょう。クリスチャンになったから人生の困難が取り除かれるわけでもありません。しかし、キリストの十字架を知る人は、神の愛を知る人です。キリストが共にいてくださることを知る人です。十字架を背負う私を、背負おうとする私を、両手を広げてキリストは迎え入れ、人生を共に歩んでくださいます。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年9月9日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教より 「み言葉を行う人」
(ヤコブの手紙 第1章17節~27節、マルコによる福音書 第7章31節~37節)
今日読んだヤコブの手紙の中に「み言葉を行う人になりなさい。」とあります。「み言葉」は神さまの言葉、ですから神さまの想い・願いとも言えます。それは、み言葉が人となられたイエスの言葉であり、行いと言えるでしょう。ヤコブの手紙では、「イエスの言葉や行いに触れたら、それだけで終わってはだめだよ。」といいます。
福音書に目を向けてみると、耳が聞こえず舌の回らない人がイエスによって耳が聞こえ話ができるようになった、とあります。これはヘブライ語聖書(旧約聖書)で語られている神の恵みの形です。耳と舌を癒されたその場面を目撃した人々は、イエスが「誰にも話さないように。」と口止めすればするほど、そのことを言い広めたようです。神の恵みに触れた人々は、言い広めずにはいられなかったのでしょう。神さまの恵みに触れた人々は、喜びに溢れて何か行わずにはいられなくなるのでしょう。
今年の二月、福井では豪雪で多くの車が動けなくなったことがありました。ある料理屋さんの副店長が500人分の料理を配りました。それは、阪神淡路大震災の時、アルバイト先の店長が店を開けて被災者に食事を配った、その時のお客さんの顔が忘れられなかったからだそうです。これも、店長を通して示された神の働きに触れた人の姿ではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年9月2日 聖霊降臨後第15主日礼拝説教より 「神の掟と愛」
(マルコによる福音書 第7章1節~23節)
私たちの社会には「穢れ(けがれ)」の感覚が残っているように感じます。そして今はその感覚が「ヘイト」へと形を変えているのではないでしょうか。その「ヘイト」は特定の人々へと向けられます。もちろんその人が本当に汚れているわけではなく、人の思いが相手を汚しているのだと言えるでしょう。
相手を貶めるとき、相手に「穢れ」「ヘイト」をみるときはまた、自分の心が汚れていくことでもあります。私たちの心が清ければ、相手も清く映るでしょうし、私たちの心が汚れていれば、相手は汚れて映るでしょう。
しかしふと思います。私たちはキリストから愛の眼差しを向けられています。私たちは本来、愛されるべき清い存在ですし、全ての人がそうであるはずです。私たちは神の似姿に作られた存在ですし、何より、キリストは全ての人のために十字架に架かってくださったのですから。
嵐の日、納骨堂の窓が少し開いていました。次の日見てみると、窓の近くに小さな羽毛が落ちており、「鳥が雨宿りをしたのかな」と想像しました。人生の嵐のとき、ちょっと雨宿りできる教会はとても素敵だなと思います。文字通り「誰でも来ることができる教会」とは、実際にはとても難しく困難を伴うでしょう。しかし、できるだけそのような教会に近づこうと努めることは、無駄ではないはずです。キリストの愛に溢れた眼差しに応えるために、そして神の掟の本来の姿へと近づくために。
(司祭ヨハネ古澤)