牧師の小部屋 ㉞
「わたしたちの責任」
聖歌418番は「誰もひとりだけでは 生きてはゆけない/誰もひとりだけでは 死んでもゆけない」と歌います。「パナナグータン」という題名のフィリピンの歌で「責任」を意味します。とても好きな聖歌なのですが、初めてこの聖歌を歌ったとき疑問を抱いた歌でもあります。
「誰も一人だけでは生きてはいけない」という歌詞は頷けます。私たち人間は一人だけで生きて行くことはできません。意識的・無意識的に関わらず互いに支え合いながら生きています。コロナ禍を経験した私たちはそのことを強く感じたと思います。しかし「誰も一人だけでは死んでもいけない」とはどういうことでしょう。
そういえば元の歌詞はどのように歌っているのだろうと思い、グーグル先生で調べてみると以下の訳でした。
「自分だけのために生きている人はいない/自分だけのために死ぬ人もいない」
この歌詞と聖歌を照らし合わせると、「なるほど」と感じます。人は生を受けたときから死ぬときまで関係性の中にいるということなのだなと理解できます。新しい命が生まれたとき、その赤ちゃんは人びとから祝福を受けますが、受けるだけではありません。人びとは赤ちゃんから喜びを受けとります。また、人は成長して人生を歩む過程で出会う人びとと互いに支え合います。そしてその人が天に帰るとき、その人は人生の旅路で出会った人びとに別れを惜しまれ見送られますし、見送る人びとはその人と出会えたことの喜びを寂しさと共に噛みしめるでしょう。全ての人がこのような人生の旅路を送ることができる社会/世界となりますように、切に祈ります。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉝
2019年にスペインで製作された「プラットフォーム」という映画があります。プライムビデオやNetflixで視聴することができる、SFサスペンス映画です。 とある収容施設が舞台です。その収容施設には、どのような罪で人々が収容されているのかを失念してしまったのですが、そこには地下何百階にも続く縦穴があり、各階に数名ずつ囚人がいます。そして囚人が置かれる階層は毎月ランダムに入れ替わります。
地上一階では沢山の豪勢な食事が調理されています。大勢のコックさんが料理を作り皿に盛り付け、支配人とおぼしき年配の男性が各皿に盛り付けられた料理の味見をしています。その男性がどこかのシーンでこのように言います。「この料理は各階の人々が必要な分だけ取れば全員に行き渡る」。そう言ってそれらの豪勢な料理を「プラットフォーム」と呼ばれる大きな台座に配膳し、台座を地下に降ろしていきます。各階層の人々はその台座のお皿から必要な料理を取って食事をしますが、一定時間が過ぎると自動的にプラットフォームは次の階層へと降りていきます。しかし、上層階の人々は我先にと食事を獲っていきます。そうすれば自ずと下層階の人々に食事は行き渡りません。何百階もあるわけですから、自然と食事の奪い合いが起こります。主人公はこの現状を地上階の人に伝えるためプラットフォームに乗り込みます。しかしプラットフォームは最下層まで行かないと地上階へは戻りません。主人公が最下層で見るものとは何か。というお話しです。
監督はスペイン北東部にあるビルバオ生まれのガルデル・ガステル=ウルティアさん50歳です。国際貿易を専門とする経営学の学士号を取得しています。この穴が何を表しているか、監督は明確には述べていませんが、映画の重要なメッセージとして「人類は富の公平な分配に向かって進まなければならない」と語っています。 全ての人が十分に生きていけるだけの世界を神さまは造られた。私たちが次の世代にきちんと資源を、何より世界そのものを残しているかが問われている。このようなメッセージをこの映画が発しているように、私には感じられました。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉜
今から23年前の1961年8月1日から4日まで釜ヶ崎事件(通称、第一次西成暴動)が起こりました。現在のJR新今宮駅東口すぐに位置する太子交差点で一人の日雇い労働者がタクシーにはねられました。警察がかけつけたとき、その労働者は痙攣していたそうですが、警察は救急車を呼ばずにムシロをかけたことで、騒ぎが起こりました。そして警察署から事故現場に到着した警部補が「おまえら、税金払わんと文句ぬかすな」と口にしたその言葉に労働者の怒りが爆発したと言われています。普段「アンコ」や「よごれ」と蔑称で呼ばれていた労働者たちは、「アンコも人間じゃ」と暴動(労働者の抗議)に発展、警官隊と衝突し600人が負傷1人が死亡する事件になりました。
このような釜ヶ崎事件をきっかけに一つの分校ができたことはあまり知られていません。当時の釜ヶ崎には20~30代の労働者が多く、所帯を持つ方々も多くいました。しかし労働者の子どもたちのほとんどは、「教育棄民」と言っても過言ではない状態に置かれていました。釜ヶ崎の付近には市立の小中学校がありましたが、200人ほどの不就学児童がいました。そのため釜ヶ崎事件前から先生や学生ボランティアによって不就学児童への学習支援などが行なわれていました。事件後は治安・労働・民政対策を急ピッチで始めた大阪府市の方針で市教育委員会が動いていきます。
1962年1月、地域の有志が土地を提供し、その土地に市教委がプレハブの仮設校舎を建設、同年2月に愛隣学園が発足しました。小学校は萩ノ茶屋小学校の分校、中学校は今宮中学校の分校という位置づけでした。1963年4月には大阪市立あいりん小・中学校として独立、同年8月には愛隣会館(後の市立更生相談所)の一部に間借りしていましたが、1973年12月には新校舎が萩ノ茶屋1丁目に完成し、大阪市立新今宮小・中学校となりました。1984年3月には最後となる3人の中3生が卒業し閉校、萩ノ茶屋小学校と今宮中学校にそれぞれ統合されることになりました。
(司祭ヨハネ古澤)