2020年6月28日 聖霊降臨後第4主日 説教より
マタイによる福音書 10:34-42
40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
どちらが受ける方なのか、どちらが与える方なのか分からなくなる。そんな感覚に出会ったことないでしょうか。弟子たちの派遣のできごとは正にそのことが描かれています。
ボランティアにいったとき、相手のためと思って色々お世話をする。帰り道にさっきの一時を思い返す。すると相手に何を与えたのかすら思い出せないのに、相手からは何かたくさんの物を受けたような感覚に出会う。そのようなことが多々あります。
私たちは弱い集団です。もっと正確にいうならば、弱いこと、本来の人間の姿である弱い姿を良しとする集団です。しかし、だからこそ強いのです。それは、誰かを押しのける強さではなく、出会う相手を神さまから与えられたものによって生かす、そのような強さです。
そのような集団だからこそ、時には近しい人からも理解されないことがあります。主イエスもそうでした。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言われていたからである」とマルコ福音書に記されています。福音記者マタイの教会の人々は「人の肉を食べ、その血を飲む人々」という誤解を受け、それでもキリストの福音を優先させるあまり、家族からも離れなければならない。そのようなことも実際あったようです。しかし、彼らが他者の命を生かす道を進んだことは歴史が示す通りです。
私たちもまた、命を生かす道を進んで行きましょう。それは、共に祈り、共に赦し、共に応えあう道です。聖歌第418番「パナナグータン」の言葉を借りれば、「神に結ばれた者」の歩む道です。弱い存在であることを良しとする道です。弱い存在を良しとすることは、他者に頼り、また神に頼る必要があることを知ることです。神に頼るとき、キリストに助けてというとき、主は受け止めてくれるでしょうか。もちろん受け止めてくださるでしょう。それは次週の福音書でイエスが語っています。
私たちの生きている社会は、「愛することへの恐れ/愛されることへの恐れ」を持っています。一杯の水を差し出すことへの恐れ、そしてそれを受け取ることへの恐れです。しかし、イエスは言います、「働くものが食べ物を受けるのは当然である」そして、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人には、必ずその報いを受ける」と。大いに愛し、そして愛されましょう。(司祭古澤)
2020年6月21日 聖霊降臨後第3主日 説教より
マタイによる福音書 10:24-33
32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
「迫害」とは、力で弾圧や排斥する行為を指します。主イエスは弟子たちに、主イエスの名のために迫害されることを予告しました。そして二つのことを告げました。一つは、ある町で迫害に遭ったら違う町へ逃げること。もう一つは、迫害に遭っても恐れることはないということです。一見すると正反対のことを言っているように感じます。しかし、実はどちらも主イエスが弟子たちを励ましている言葉です。
「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と主イエスは言います。主イエスの名によって福音を宣べ伝えた結果、迫害を受けた。自分の命を守るために他の町へ逃げようと、そのことによって責められることはなく、終わりの日に主イエスは「この人は仲間である」と父なる神に証言してくださる。また逃れる事の出来ない暴力を耐え忍ぶとき、たった独りで暴力と対峙していると感じるときも、主イエスはその人が「わたしは主イエスの仲間である」と言い表していることを知っておられる。
主イエスが福音を告げ知らせ、人々に教え、人々の病を癒やす中で迫害に遭ったように、聖霊降臨の出来事の後、力強く福音を宣べ伝える弟子たちも迫害に遭っていきました。その弟子たちに対して「あなたはどのような時も、独りではないのだ」という励ましの言葉です。
そしてこれは、私たちに対する励ましの言葉でもあると同時に、いま命の危機にある人々、居場所のない人々への励ましの言葉です。私たちが勇気を出して命の危機・居場所のない人々の隣人となれるように、そして居場所のない人々に「あなたは独りではないよ、私の仲間が来るよ」という励ましの言葉です。
昨日は世界難民の日でした。難民の保護と難民への関心を高め、支援活動等の働きに理解を深めることを目的とした日です。難民とされた人々を始め、居場所を奪われた・失った様々な人々を憶えましょう。そして、どのような時も主イエスがともにおられることを想い起こしましょう。 (司祭古澤)
2020年6月14日 聖霊降臨後第2主日 説教より
マタイによる福音書 9:35-10:8
今日の福音書では、主イエスが12人の弟子たちを派遣する場面が描かれています。所謂、使徒の派遣です。派遣される12人の弟子たちに主イエスは「汚れた霊に対する権能をお授けになった」のでした。そして主イエスは、派遣された後に弟子たちが何をすべきか直接伝えます。12人の選ばれた弟子たちは、こうして全ての点で師である主イエスと同じ働きをする者とされました。
さて、主イエスがご自分の弟子を使徒として遣わすことにされた理由が、本日の福音書日課の最初に記されていました。それは主イエスが関わった人々の姿をご覧になったからでした。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。ご自分が訪れた町や村の人々、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」人々が飼い主のいない羊のようになっている様を見て、弟子たちを派遣されたのでした。
主イエスの時代、羊飼い一頭の羊に心を砕いて世話をしていたようです。10頭ほどの羊であれば子どもであっても世話ができたようですが、数が多くなると熟練の技を必要としました。そして群れで移動する途中、群れからはぐれ出て犬が連れ戻せないほど遠くへ迷い出てしまう羊が常に何頭かいたようです。迷い出た羊には野獣が襲いかかります。羊飼いは自らその羊を探しに行き、見つければ肩に抱えて群れへと連れ戻すのでした。
主イエスは度々、羊と羊飼いの譬えを語ります。それは正に羊と羊飼いの関係を言い表していました。羊飼いは一頭一頭の顔を覚えており、羊も羊飼いの声を聞き分けます。羊と羊飼いは、常に一緒にました。
主イエスが12人の弟子たちを派遣してから二千年が経ちました。主イエスが目にした「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆には、私たちの姿もあることでしょう。主イエスは言葉通り、時間も場所も越えた「全ての人」をご覧になって深く憐れまれました。腸がかき回されるほどの痛切な想いを抱かれたのです。そして、使徒としての働きを担った弟子たちは、そのバトンを絶えることなく繋いでいきました。それは主イエスの導き、聖霊の働きにより、主イエスが目にされた私たちにまで届いています。
主イエスの目を通して私たちの周りを見るとき、どこに「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿を見いだすでしょうか。私たちの家にその人はいるかもしれません。私たちが生活する地域内にいるかもしれませんし、ニュースを通して目にするかもしれません。良い羊飼いである主イエスに導かれる羊としての私たちは、同時に主と共に福音を宣べ伝える者として歩みましょう。(司祭古澤)
2020年6月7日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 説教より
マタイによる福音書 28:16-20
先週の聖霊降臨日を経て教会の暦は「聖霊降臨後」の期節に入りました。主イエスの昇天そして聖霊降臨の出来事以降は「神の国」の完成に向かう時です。その時が1世紀の聖霊降臨の出来事以降ずっと続いています。つまり私たちも今、神の国の完成に向かう時間を歩んでいるのです。
主イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言いました。父なる神から全ての権能を授かっている主イエスは、その権能を用いて強引に人類を弟子にはされません。あくまでも、ご自身がされたように一人ひとりに向き合い、ひとり一人に出会って福音を手渡すよう弟子たちに要請します。
そのような要請を受けるため、弟子たちは主イエスから指定された山に登りました。その山で弟子たちは復活された主イエスに出会いますが、「(弟子たちは)イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)とあります。しかも原文を見ると、この「疑う者」は特定の誰かではなく11人の弟子全てがそうだった可能性があるのです。そう言えば、他の福音書にある主イエスの復活後の記事には、最初は目の前にいるのが誰か分からず、しばらく話をする中で目の前の人物が復活された主イエスであることがわかる。そのような記事がほとんどでした。
私たちは多くの場合、目に映るものに対して先入観を持って見てしまいます。「あの人は身なりが良くない。だらしない人ではないだろうか」など、自分の持つ基準に照らして相手を判断することがあります。しかし、今日の福音書は言います。「目に映るものではなく、主イエスの姿によってではなく、言葉によって判断せよ」と。
私たちは主イエス変容の記事を思い出します。主イエスの姿が光輝き、雲から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17:5)。やはり、父なる神も主イエスの言葉に耳を傾けるよう弟子たちに告げていました。
主イエスは神の国の完成をただ待っているのではなく、能動的に働いておられます。権能を用いて弟子たちを派遣されます。主イエスはご自身に信頼をおく人々に語りかけ、派遣された人々は主のメッセンジャーとして、また主イエスの代理人として「全ての人」に福音を告げ、癒やしの働きを行うのです。私たちは主イエスの言葉に耳を傾けましょう。それは神さまが人間に何を願っておられるかを知ろうとすることであり、主イエスがされた働きを思い返すことなのです。これからの聖霊降臨後の期節、私たちは主イエスがなさったことを想い起こす旅に出ます。主と共に、宣教の旅路を歩みましょう。主日の福音書の中で、そしてそれぞれの人生の歩みの中で。
(司祭古澤)