牧師の小部屋 52
先週の月・火曜日と三重県の青山にある愛農高校を訪れる機会を頂きました。愛農高校は1945 年和歌山で小谷純一が開設した愛農塾が始まりです。現在は高校1〜3 年生まで各学年30 人ほどの生徒が在籍しており、寮生活と農業、そして聖書を通して「生き続けられる世界とは何か、隣人を愛するとは何か、そして平和とは何か」を考え学んでいます。
生徒が入学して最初に経験することは鶏をしめることだそうです。鶏の頚動脈を切って血抜きをし、湯がいて羽をとってからさばきます。中には鶏肉をしばらく食べられなくなる生徒もでるそうですが、しかし自分は他の生き物のいのちによって生かされているということを実感し、今まで以上に食事を大切にしていくそうです。
日常、加工された食材を手にしている私にとっては新鮮なエピソードでしたし、永六輔さんが食前の「いただきます」とは「あなたのいのちを、わたしのいのちにさせていただきます」という意味だ、と記されていたことを思い出しました。
愛農学園の「建学の精神」の書き出しは次のようなものです。「神を忘れた良心は麻痺し、土を離れた生命は枯死する。本校建学の根本精神は、神を愛し、人を愛し、土を愛する人格形成である」。「土を離れた生命は枯死する」とはとても興味深い一文です。この一文から、私たちは土の塵から作られた存在であることを想起しますし、私たちは限界をもった存在であることを思い出します。
愛農学園の訪問は、大きな力によって私たちは生かされているのだ、との「当たり前」のことを改めて見つめ直す良い機会でありました。
(司祭ヨハネ古澤)
2025年9月14日 聖霊降臨後第14主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 15章1節~10節)
イエスさまはなぜ様々な人と食卓を囲むのかとの理由を、譬えによって説明することで説明します。それは、見失った1匹の羊を「見つけ出すまで」捜す人の姿のようなものだと言います。残された99 匹は囲いの中にいるのではありません。荒れ野に置いていかれます。しかし、それでも見失った1匹の羊を捜しにいくのだとイエスさまは言います。この残された99 匹の羊の心境は、今日は読まれませんでしたが、続く「放蕩息子のたとえと」と題された11 節からの譬え話に登場する兄が代弁しています。残された羊として不満を口にします。しかし、それでも見失った1 匹を見つけ出すことはその人にとって必要なことであり、「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と」喜びを分かち合うのでした。
もう一つの譬えも同じです。無くした1枚の銀貨を一生懸命に捜す女性の姿が譬えとして語られます。銀貨は1ドラクメだといいます。労働者の10 日分の給料にあたります。それが10 枚あったはずなのに、1枚無くしてしまった。この女性は夜を徹して捜します。ここまで読んでいるとはっとします。先ほどの羊の譬えでは、99匹の羊を危険な荒れ野に残して見失った「たった1匹」の羊を捜しに行く男の姿が描かれていました。その男は見失った1匹の羊を他の多くの羊より多く愛していたのだろうかと疑問を持ちます。しかし、二つ目の譬えでは無くした銀貨は他の9枚の銀貨と同じ価値の貨幣として描かれています。ここで私たちは、イエスさまがこの二つの譬えを語った理由に気付きます。1匹の羊も他の99 匹の羊も、羊の飼い主にとってどれも大切な羊であるという事実に気付くのです。
私たち一人ひとりを心から大切にしてくださる神さまの想いが描かれています。イエスさまは共に食卓を囲むことで、神さまの愛を示しておれます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 51
聖歌418 番「パナナグータン」は聖歌集では「FRIEND」と題名が並記されていますが、タガログ語で「責任」という意味です。英語の”responsibility”つまり”response + ability”=「応える能力」という意味合いが強い言葉で、私たちはお互いに対して責任があるとの意味です。ネットの機械翻訳とタガログ語辞書で単語を参照しながら訳してみましたので、ご紹介します。
誰一人として、自分自身のためだけに生きている者はいない/
誰一人として、自分自身のためだけに死んでいく者はいない
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
私たちの愛と奉仕は、救いの報せを届けるでしょう
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
国々は共に(同時に)歌うだろう/
主は私たちをご自身の子どもとして扱って(数えて)くださいました
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
誰一人として、自分自身のためだけに生きている者はいない/
誰一人として、自分自身のためだけに死んでいく者はいない
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
私たちは皆、神によって創造され、神と共にいます/
私たちは皆、責任を負っています
(司祭ヨハネ古澤)