2025年11月23日 降臨節前主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 23章35節~43節)
二人の盗賊は社会的盗賊と呼ばれる人びとだったと考えられています。社会的盗賊とは、貧しい小作農や土地を持たない労働者が借金や社会的混乱により住む土地から追い出された結果、エリート階級への盗賊行為によって生活の糧を得る、そのような人びとを指しました。社会的盗賊が金持ちから盗み貧しい者たちを助ける、そのような民間伝承も実際の出来事を基礎として語られたことが多いようです。
しかし、彼もまた散らされた一匹の羊でした。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と彼は言います。死を目前にしての言葉です。主イエスは答えます「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。直訳すれば「そのようになるように。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。「アーメン」とイエスは答えます。散らされた羊がイエスのもとに集められた瞬間です。
イエスは彼と同じく十字架に架けられています。どこか高いところから下を見下ろして「あなたを救おう」とは言いません。どこか離れたところでのんびりしながら、「あなたは救われた」とも言いません。まさに、彼と同じ苦しみを受けながら、「アーメン。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束したのです。
神は私たちと同じ「人間」という存在に降りられ、なお低みに、当時ローマ帝国の極刑である十字架につけられる存在にまで降りられた。私たちと同じ目線に立って私たち一人ひとりを導いてくださる。そのような主イエスの姿を今日はともに目撃しました。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 55
9 月14 日に「意見交換会(仮称)」を開催しました。第1回目と位置づけており今後も折りに触れて開催予定です。会の中で何人かの方が教会共同体について意見を出してくださり、また「意見交換会」後にもアンケート用紙を通して想いを共有してくださいました。
寄せられた意見・提案・感想はどれも私たちの共同体にとって大切なことであると同時に、共通点を持っているように感じました。それは、教会に集う全ての人が居場所を実感できるように、そして全ての人が心を合わせて礼拝できるように、そのための意見・提案であることでした。
もちろん、すぐ実行に移せるものから、言葉の共通認識を持つためにもう少し詳しくお話を伺う必要があるもの、また個別に意見交換を重ねる必要があるもの様々です。
そのような中でまず最初に皆さんと実行したいことは「ゆっくりを大切に」ということだと感じました。心を合わせて祈るためにゆっくり祈り、聖書を朗読し、お知らせをする。もちろん、説教も。私などは緊張したり、気持ちが入りすぎると早口になりますので特に気をつける必要があります。
「ゆっくり話す」とは言い換えれば「伝わることを意識して伝える」ということですし、「伝えることを大切にすること」とも言えます。私たちの教会共同体が多くの人の居場所となっていくように、より一層心を合わせて祈る場となるように、そしてあなたの居場所であり続けるように、ぜひ意見・提案をお寄せください。もちろん一緒に祈りたいこともお伝えください。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 54
石井健介さんという方がいます。肩書きは「ブラインドコミュニケーター」、聞きなれない職種です。石井さんはアパレルやインテリア業界で働いた後、営業・PR として活動されました。しかし、2016 年(36 歳)のとき、突如視力を失います。神経系の炎症が原因でした。
当初、石井さんは視力を失ったことで落ち込み外に出る気力も失いますが、家族の支えや友人に恵まれたこともあり、少しずつ外出する訓練をするなど前向きに生きていこうと試みます。そのような中で中途失明となった自分にだからできることを思いつきます。目が見えることも、目が見えないことも経験した石井さんは、その二つの世界をつなぐ仲介者としての働きを始めていきます。
その一つは、舞台手話通訳者の活躍を追った短編ドキュメンタリーに、目が見えない人に伝えるための音声ガイドを作るものでした。「視覚言語である手話を」、目が見えない人へ音声ガイドを届ける。とても難しい作業であると感じます。このプロジェクトは「こころの通訳者たち」というドキュメンタリー映画として2022 年に公開されたそうで、いま私が最も観たい映画です。
話がそれましたが、石井さんはご自身の失明を経てブラインドコミュニケーターの道を歩むまでのことを「見えない世界で見えてきたこと」と題した本にまとめました。そこには「視力の大半を失ったことで、かつては見えていた境界線が見えなくなり、目には見えないつながりが、ぼんやりとながら見えるようになってきた」と記されています。
私たちには「見えるから見えていないもの」が沢山あるように感じます。それは、私たちが大切にするように主イエスに促されているものであるように感じます。それが何であるか、まだはっきりしていません。皆さんと一緒に見つけていればと願っています。
(司祭ヨハネ古澤)