多良木相良氏遺跡
国の史跡に措定答申
国の史跡に措定答申
6月23日、「多良木相良氏遺跡」を国の史跡に指定するように文化審議会が文部科学大臣に答申したというニュースが話題になっていた。
相良氏について(一般的見解)
相良氏の伝承によると、鎌倉時代初期の建久4年(1193)、遠江国(今の静岡県)相良荘の武士である相良頼景(さがらよりかげ)が球磨郡多良木に下向し、その5年後の1198年に頼景長男の長頼(ながより)が人吉荘に下向してきたことで、多良木相良と人吉相良と呼ばれる二つの相良家が誕生した。
両家は南北朝時代には数度にわたり抗争し、室町時代中頃の文安5年(1448)になると相良分家の永富長続(ながとみながつぐ)が人吉相良を継ぎ、多良木相良を滅ぼし球磨郡一帶を統一する。寛正6年(1465)になると八代郡にまで進出し、人吉城と八代城を本拠に肥後国南部を領地とする大名に成長した。相良氏の統治は、天正10年(1582)、島津勢の肥後侵入まで継続した。
関ヶ原合戦を生き残った相良氏は、明治維新まで球磨郡の領主として存続した。多良木下向から674年間、同じ地域で領主として存続した武家で、このような例は島津氏・宗(そう)氏など数例しかなく、日本の歴史上、大変珍しい存在という。
上記のような見解が一般的であるが、今回の答申の根拠になった「多良木相良氏関連遺跡群の調査結果」の内容を読むと、人吉の歴史、文化を語る際は多良木相良家(総領家)の足跡を中心に据えて見直す必要があることを示している。
答申内容
5 多良木相良氏遺跡
【熊本県球磨郡多良木町】
多良木相良氏遺跡は、鎌倉時代前期に球磨郡に下向した西遷御家人、鎮西相良氏の菩提寺である 青蓮寺と、居館もしくは川湊関連施設と推定される蓮花寺東之前遺跡からなる遺跡である。現在も、多良木の地には鎮西相良氏の惣領、多良木相良氏が、惣領権の主張と一族結合を維持する目的で信仰した寺社や城館、中世多良木村の開発に関わると考えられる「鮎之瀬井手」が残る。
蓮花寺東之前遺跡は、12世紀後葉に成立し15世紀中葉に廃絶する、球磨川と土塁により区画された施設で、川湊と考えられる石積護岸が検出されている。規模は小さいものの、出土遺物には白磁四耳壺・水注等の高級品が出土することなどから、多良木相良氏による球磨川水運を利用した物流の拠点施設の可能性がある。青蓮寺は、永仁3年(1295)に鎮西相良氏の祖、頼景を祀ったことから始まり、現存する阿弥陀堂の背後には、頼景をはじめとする相良一族の五輪塔が残る。
多良木相良氏遺跡は、球磨郡に入部した西遷御家人の地域支配や開発の様子を示すとともに、 現存する寺社や仏像、 豊富な文字史料等と発掘調査の成果から、 相良氏の惣領、多良木相良氏の動向を具体的に知ることができる重要な遺跡群である。
熊本県球磨郡多良木町は、2021年から進めてきた多良木相良氏関連遺跡群の調査結果を2024年3
月末に公表した。それによると、鎌倉時代の居館跡の可能性がある遺構や墓所などが確認された。東国に出自を持つ武士団の 惣領家(本家)による領域経営の姿を伝える重要な遺跡として、国の史跡指定を目指していた。
相良氏は1193年(建久4年)、遠江国(静岡県)から多良木に下向したと伝えられる相良頼景(よりかげ) を祖とし、やがて多良木相良、人吉相良に分かれた。戦国大名を経て人吉藩主となったのは後者で、近世の系図は人吉相良を正統とみなされている。 しかし、史料の真偽や信頼性を評価する手法が進んだ現在は、多良木相良こそ惣領家だったと考えられており、町内に現存する「相良頼景館跡」、「東光寺磨崖 梵字(ぼんじ) 」、「 青蓮寺境内」の遺跡が注目されることになった。
調査書の詳細は多良木相良氏関連遺跡群総合調査報告書全国文化財総覧(294頁)を参照。
調査報告書の要約
多良木相良氏遺跡は鎌倉時代に西遷し、鎮西相良氏の惣領家として存在した多良木相良氏に関する遺跡である。相良家文書に登場する「多良木村」は多良木相良氏の本拠である。
相良頼景館跡は鎌倉時代から機能した遺跡である。多良木相良氏が開発したとされる灌漑域に占地し、当初は堀によって方形に区画され、球磨川に面し石積堤防を整備した遺跡であった。北側の堀は 15 世紀中頃には一度埋め戻され、多良木相良氏滅亡後の 16 世紀後半には再度堀が掘られ、土塁が造成される。遺跡の形成は、史料から得られた多良木相良氏の活動時期と一致しており、地域開発の拠点施設と考えられる。
青蓮寺境内の当初の姿は、鎮西相良氏の祖・頼景の廟所が設けられ、廟所の中に阿弥陀三尊を安置、その背後中軸線上に壇上積基壇配置、その上に五輪塔を設置するという墓所景観が復元できる。これらの墓所整備は、永仁3年(1295)に多良木相良氏主催のもと行われており、一族の墓所として機能していたと考えられる。
青蓮寺境内は多良木相良氏にとって支配の正当性を示すものであり、多良木相良氏滅亡後も、墓所空間は支配の正当性を保持する装置であった。
東光寺磨崖梵字は磨崖板碑であることがわかった。その隣には石窟も確認できた。東国御家人である多良木家にとって、自らの出自を主張するための装置であるとともに、地域社会への権威付けの機能があったものと考えられる。
多良木相良家・相良氏の歴史とその画期(折りたたみ文書↑↓)
おわりに―多良木相良家・相良氏の歴史とその画期―
12 世紀末から 15 世紀中葉にいたるまでの多良木相良家・相良氏の展開を、文献史料をはじめとす
る一次的文字史料によって概観してきた。そこから明確になった同家・同氏と多良木地域史にとっての
画期は、以下の三つとなろう。
第一の画期は、頼景から多良木村を相伝し、人吉荘地頭職を獲得した相良長頼(蓮仏)が、人吉荘
内に氏寺・願成寺を建立し、開発田を寄進した 1230 年代である。遠江国相良荘、京、鎌倉、そして鎮
西の所領を行き来していた相良氏の惣領が、球磨郡に基盤を置いた活動を開始した時期である。
第二の画期は、1270 年代から 90 年代にかけて、惣領制の展開と異国警固番役の賦課という経済的・
政治的変動に直面した多良木相良家が、一族紛争を抑止凍結するために、多良木の地に多くの宗教施設
を整備していった時期である。頼氏の供養所・蓮花寺、多良木相良家の供養所・東光寺、氏神としての
王宮社、そして頼景以来の正統相良家としての多良木相良家を象徴する青蓮寺であり、多良木における
相良氏関係史跡群の全容が整った時期として重要である。
第三の画期は 15 世紀中葉である。人吉(佐牟田)相良前続による「多良木退治」から多良木相良頼
久の蜂起、そして郡内を二分する地域紛争に勝利した永富長続による上球磨統治体制の構築という、一
連の政治変動であった。わけても長続の上球磨地域に対する政策は、頼景以来の正統性を手に入れるた
めに上球磨の要所の寺社で結縁造像し、多良木相良家の継承者としてのみずからの地位をアピールする
という積極性を伴うものであり、第二画期以来の寺社や伝相良頼景館跡などの史跡には、この時期に長
続らによって改変が加えられている可能性が高いことを指摘しておきたい。
遺跡群は、地図では人吉市から20キロメートルほど球磨川上流の地点に位置する。
今回の答申で、改めて調べてみると、元くまもと文学・歴史館々長の服部英雄氏の長年にわたる一連の考察(〜1999)が役に立つ。
鎌倉時代の初期(建久4年、1193)に、遠江国相良荘から球磨郡多良木に下向し、地域の繁栄を担った多良木相良家は、庶家(分家)の人吉相良家の台頭によって次第に総領家としての地位を失っていった。服部英雄氏によると、『家の歴史は勝者となったものの手によって書かれる。あとから書かれた歴史叙述では、当初からその家が一貫した揺らぎのない家であるかの如く書かれる。』とのことである。相良家はその典型的な事例と言える。真相を解明するには今回のような網羅的な各種史料、遺跡の調査が必要らしい。
人吉盆地の年貢米は球磨川を遡上して多良木に至り、九州脊梁山脈を越え、一ノ瀬川を下り河口から海路で京都や鎌倉に通じる最短のルートを利用して運ばれていたという。多良木荘には、仏像、建造物、石塔などの美術品が存在するという事実と符合する
参考資料
1)全国文化財総覧 多良木相良氏遺跡 - 全国文化財総覧 多良木町教育委員会 2024 75.9MB
2)熊本県教育会球磨郡教育支会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 相良長頼」『球磨郡誌』熊本県教育会球磨郡教育支会、1941年。
3)荘園現地調査から考えた南北朝内乱の意義---安芸国三入庄・備後国地毘庄・周防国仁保庄の調査を通じてみた武士の「家」の交替----- 『広島県文化財ニュース』(163、第81回文化財臨地研究会特集号) 1~9頁 服部英雄 1999年
4)歴史を読み解く : さまざまな史料と視角 南北朝内乱と家の交替 九州大学学術情報リポジトリ 服部英雄
5)服部英雄ホームページ 学問そして遊び
6)東京大学 相良家文書之一
追記 相良家文書について
鎌倉時代から明治維新まで674年にわたり人吉球磨地域を治めてきた相良一族に関連する遺跡、「多良木相良氏遺跡」が国の史跡に指定されることになった。今回の遺跡調査では科学的な手法が駆使され、史料との整合性が検討されている。その過程で、相良家文書が果たした役割は大きい。なお、相良家文書は、中世から江戸時代にかけての貴重な文献として、慶応大学・広島大学・熊本県立図書館に保存、公開されている。東京大学の相良家文書は翻刻した結果を活字体で読める。
慶応大学の史料(鎌倉幕府将軍家政所下文)〔地頭職安堵〕
(2025.6.30)