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以前,6歳の戦争体験を箇条書きにした.戦後70年を機に,6歳の時に体験した空襲の様子を改めて振り返ってみた.
私の記憶に残っているのは4歳頃(昭和18年)からである.父は,大正14年に九州薬専を卒業後すぐに山崎町に薬局を開局し,昭和15年頃までは商売は順調だったようだ.辛島町産交バスの発着所から200mの慶徳校前電停のすぐ傍にあった.春竹駅(現南熊本駅)には熊延鉄道(昭和39年廃線)が乗り入れていたため,御船,甲佐,砥用方面のなじみのお客さんもいたらしい.
疎開するまでの記憶はそれほど多くはない.藤崎宮の秋祭(古称ボシタ祭り)の随兵行列,青竹で叩かれ暴れる馬を店先に突っ込ませて寄付強要,獅子舞(大口を開けて迫る),木炭車バスによる南関里帰りとエンスト(大人は降りてバスを押した),終点で乗客を降ろした後店先まで送ってくれたバス運転手(南関中山のオバさんがチップを渡していた),父の自転車(前子供乗せ)で岳林寺墓参り(井芹川の橋を渡る時の恐怖),船場町の従兄弟,ツバメ号とアジア号,タイヤ屋の木製タンク(子供が入れる),紋屋のオジさんの額メガネ等である.いずれも幼児期の怖かった体験や繰り返し経験した事柄である.成長後に親兄弟から聞かされたエピソード(水前寺公園の富士山に登ったことなど)のほとんどは記憶として刷り込まれていない.
このような平穏時の記憶は,鉄製品の供出で扇風機や金庫等が運び出される様子や出征兵士の行進などが取って代わることとなった.
店は,熊本駅まで市電路線に沿って1.8kmの距離にあったため,店の前の電車通りを出征兵士が駅に向かって行進していく勇ましい姿を何度も見たことを覚えている.隊列の中にタンク(戦車)が混じっていることもあった.乗車予定の汽車が延着する時は,兵隊は通りすがりの民家に一夜の宿を借り翌朝旅立って行った.戦後,母に聞いた話では,兵隊の中には「行きたくない」という心情を吐露した人もいたらしく,翌朝複雑な気持ちで,励まし,送り出したとのことである.
昭和18年頃になると,電車通りにもアスファルトに穴をあけて機銃掃射を避けるためのタコ壺が造られた.子供6人を抱え,売る薬も少なくなったため,薬局をたたみ,島崎団子原の隠宅に疎開した.家財道具とたくさん引出しの付いた大きな薬品棚を馬車に積んで,井芹川を渡ったところで,知り合いの人から南瓜をもらった.今考えると食料事情も南瓜に象徴される状況だったのかもしれない.屋敷内の畑を耕し,米以外は自給する生活が始まったが,耕作の経験のない父は田舎(南関町)育ちの母を頼りにするしかなかった.
市中心地から2.5kmしか離れていない山に囲まれた山裾(標高40m)の一軒家で始まった疎開生活は,ある日突然やってきた警防団員によって戦時体制下であることを改めて認識させらされることとなった.隠宅は先祖の旧宅から150m程離れた場所に在り,たとえ爆弾,焼夷弾が投下されても隣接して家は存在しないため延焼するようなことはないと見込んで天井板を撤去していなかった.誰が知らせたのか分からないが,お上からの通達を守っていないということで,いきなり天井板を長い棒(竹槍?)で突き破り,天井板落としが始まった.戦後知り得たことだが,釘を抜き片隅に重ねて再生できるようにした家もあったらしい.父自慢の洋間の天井は,模様入りボード状の素材であったため,和天井板のように簡単に外れず,警防団員は突き破って穴を開け,天井下地(野縁)にボードの切れ端がぶら下がった状態にして帰っていった.
「なんたることをするのだろうか」と子供心に怒りを覚えた.
終戦近くになると,熊本城本丸を中心に展開していた第六師団の兵隊が本妙寺山の山腹(現県道1号線)に掘った巨大な防空壕群に移動して来ていた.兵隊にも休み時間?はあったとみえて,山を下りて民家に遊びに来ることもあった.ある日,下っぱではない兵士がやってきて,防空壕掘りを指南してくれた.ひと通り講釈が済むと,私を指して「この坊主に掘らせろ」と母に云って帰っていった.それ以降,兵隊を見ると物陰に隠れ近寄らないように努めたが,その兵士に二度と会うことはなかった.
熊本の空襲記録では,熊本城域のほか,健軍三菱航空機工場,熊本駅へは高射砲部隊が配備されていた.空襲が激しくなると,それらは市内各所に分散配備されたと聞いている.そのような状況の変化も米軍は把握していたらしく,石神山,三淵山,荒尾山,本妙寺山に囲まれた島崎地域の山林も戦闘機による機銃掃射の対象になり始めた.竹林横の防空壕の中で,竹に当たった機関銃弾が隣の竹に次々に跳ね返る連続音は恐怖そのものであり,手で耳をふさぎ戦闘機の飛び去るのを祈った.我が家から鎌研坂(「草枕」で紹介されている)の登り口まで, 1km程度であるが,その道筋の途中(西の武蔵塚付近)に在った民家が焼夷弾の直撃を受け,炎上した際は子供心に危険が迫っていることを実感した.島崎地区で焼失した家はその一軒のみであったため,市街地を爆撃した際の爆弾が目標をそれたものと思われる.空襲の後,英数文字が印字されたダークカーキ色の金属製ベルトや金属板等が付近に落ちているのを見掛けるようになった.
注)昭和19年11月21日,島崎とは本妙寺山を挟んで反対側に位置する花園地域が熊本市として最初の爆撃を受けている.
昭和20年7月1日深夜の大空襲では,竹林の上空が真っ赤に染まるのを見たが,事の重大さは数時間後に知ることとなった.焼け出された人,頭,手足を負傷し包帯を巻いた人,松葉杖をついた大勢の人達が西山地区に避難してきた.我が家にもたくさんの人が休息のため立ち寄り,翌朝には何処となく去っていった.釜研坂,峠の茶屋を越えて金峰山麓の芳野,岳,河内村等へ避難した人が多かったと聞いている.この大空襲の前後,物凄い数の米軍の B29爆撃機が,金峰山の東内陸側を南南西から北北東に向かって飛んで行くのを防空壕の中から恐る恐る垣間見た.小学校入学前,数を数える練習をしていたので,100機以上であったのは確実である.しかし,今になって考えると,熊本市上空を円を描いて飛行しながら,重点目標に向かって繰り返し爆弾を投下していたのかもしれない.
7月1日の大空襲の後も連日警戒警報が鳴り響き,7月4日には,薬局から直線距離で300m程度の距離にあった船場橋横の中央郵便局が爆撃された.様子を見に行った帰りに,郵便局前の古い文具屋からクレヨンを買ってきてくれたのではっきりと記憶に残ってる.
その頃,母が臨月を迎えたこともあり,南関の実家でお産をすることを考えたが,移動手段が確保できず,防空壕内でのお産を覚悟したようである.そのためには,竹林の竹の根の下に防空壕を掘った方がより安全ということになり,皆で横穴を掘り進めている最中,町内の八百屋の主人が戦争が終わったことを知らせてくれた.そのようなわけで,昭和20年8月15日,我家では玉音放送は誰も聞いていない.終戦の翌日には,戦争が終わるのを待っていたかのように,妹(6女)が無事誕生した.
終戦になると,本妙寺山の山腹の防空壕に潜んでいた兵隊は居なくなり,軍隊が備蓄していた燃料,建設用材,生活用品なども放置状態になり,勝手に持ち帰った人もいたと聞いている.山崎町の薬局は電車通りが延焼を防いでくれたため被災することはなかったが,下通町の祖母の実家の薬局(緒方更正堂)は住居,倉などがすべて焼失した.
巷では,米軍が既に鹿児島に上陸し,熊本へ進駐してくると何が起こるか分からないという噂が拡がり,親戚の人が「毒薬(青酸カリ)を分けてほしい」と訪ねてきた.父は,大正6年島崎尋常小学校を卒業後,クリスチャン系の九州学院中学へ進学し,外人宣教師や英語教師の遠山参良先生(第五高等学校夏目金之助の後任として英語主任を務めた)と接し,洗礼を受けていたので,外国人に対する考え方が一般の人と異なっていた.米人は噂になっているような蛮行は絶対にしない旨,説明して納得してもらっていた.後に父に確かめたが,青酸カリは所有していなかったと言っていた.
父は,「刀狩り」が実施されると聞くと,躊躇することなく先祖伝来の刀を鍛冶屋に頼んで切断し,一部はナタ等にしたが,多くは土に埋めたと聞いている.弓道4段で,日本古来の武具等は日頃から手入れを怠らず,大切にしていたのとは対照的な行為であった.遺品には,金属製薬缶(胃腸薬アイフ)に入った10個の鍔が残っていた.
今年は戦後70年になる.一世代25年周期で歴史は繰り返すと言われている.世代交代時に,道徳観や倫理観はリセットされるから仕方ない.戦後必至にリピートしないように努力されてきたが,安倍政権下,憲法を解釈改憲する動きが生じ始めている.
終戦の翌年に小学校に入学した後,長い惨めな耐乏生活が待っていた.戦争の影響は戦争中より終戦後に長く尾を引くことを知ってほしい.
追記
終戦の翌日に誕生した妹は,看護師として九大病院,熊本逓信病院,国立がんセンター,帝国 ホテルクリニック,掖済会病院等で勤務し,今春70歳を機に引退した.薬剤師には見えない医療現場の実体を知っているため,いろいろ教えてもらったが,極端な食糧難の時代,家で飼っていた鶏が食料 になるのを見て肉が食えない身になってしまった.これも戦争の間接的影響のひとつと言えるだろう.
参考資料
本妙寺山中腹の軍隊用防空壕(ピンク)と島崎上空を通過するB29爆撃機の飛行方向
熊本市が初めて爆撃を受けたのは花園柿原(ピンク部位の東北東側1km)
(2015.7.21)