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近代デジタルライブラリーの蔵書に,日本薬業家名士傅前編 明治26年(1893)という本がある.
江戸末期から明治初期にかけて薬業に尽くした名士の人物像が紹介されている本である.その中に倉敷の林 宇一という人物が紹介されている.
注)林 宇一と記載されているが,林 孚一が正しい
「林 宇一翁の傅」の冒頭に「当主 源十郎氏の父」と書かれている.林源十郎という人は,私の学部の恩師である林清五郎先生と繋がりのある人であることがすぐに予想できた.
資料によると,今から350余年前の明暦3(1657)年,倉敷の地に林半右衛門由義が薬種屋「紀伊国屋」を創業した.正徳5(1715)年「大坂屋」,明治37年(1904)年「林源十郎商店」,大正14(1925)年「株式会社林源十郎商店」,昭和18(1943)年「林製薬株式会社」,昭和39(1964)年「林薬品株式会社」になった.
林 孚一は,文化8(1811)年,備前国児島郡木目村において石井伝蔵(三男)として生れ,幼くして父を亡くしたため,親戚に育てられた後,19歳で林 源助の養子となった.林家は代々続いた薬舗であったが,当時赤貧の状態にあり努力して家聲を興した.天保八年,凶作に加え悪疫が流行した際は,翁は私財を投じて人々を救済した.嘉永6年に尊皇攘夷の説が起ると勤王論を唱え,天下の志士を助け,その実現のために奔走した.
明治維新以降は倉敷県の行政にも関与し,遺児救済,勧業,教育等の分野で広く地域住民の福利厚生に多大の尽力をした.孚一の遺訓を継いだ長男の源十郎はキリスト教の教えに触れて洗礼を受け,慈善活動,社会教育に幅広く活躍した.
第12代源十郎には,平三郎,清五郎の兄弟があり,戦時中からワクチン,血清,利尿剤の製造を行っていた.医薬品製造業は,昭和25年に終了したが,製造業廃業を機に,製造に当たっていた兄弟は,夫々北海道大学(林平三郎)と熊本大学(林清五郎)へ異動した.
以上が林薬品の概略である.代々,長男(次男)は第何代源十郎という様に襲名しているため,家系が判りにくいが,林 孚一翁は林 清五郎先生の曽祖父である.
次図は薬業に関係のある方のみを記した.なお,太字は薬系大学において教育研究面で活躍された先生方である.
薬業界再編の中,林薬品は平成9(1997)年,拠点,経営者,屋号(社名)が変わり,現代風の株式会社エバルスになり,現在中国地方全域で医薬品卸売販売業を行っている.
最近,倉敷市の大原美術館などがある歴史地区の近くに「林源十郎商店記念室」を開設したとのことである.
追記 林平三郎氏の追悼文を薬学会会誌に書かれた伴 義雄先生(元北海道大学学長)の長男 伴 節氏はエバルスに在職しているが,九州大学薬学部兼松研究室において同じ研究グループで「フロンティア軌道論による分子設計ー高歪カゴ型化合物の構造と物性」において苦労を伴にした仲間である.今回,林家の近世の系譜および社史を調べてもらった..
資料
(2013.2.1)
孚一 ---- 懐徳(甫蔵)---- 蘇太郎(甫三,源十郎)---- 彪太郎(源十郎)
欣二(源十郎) (次男) 平三郎(三男) → 北街道大学教官
清五郎(五男)→ 熊本大学教官
朝(長女)--- 宮野成二 (→熊本大学教官→福岡大学へ)