俳句の写生派

ーービルに遮られる富士に思う

高柳重信

毎日新聞1981年2月27日 掲載のエッセー

+富士を詠む重信句


俳句の写生派

高柳重信

ーービルに遮られる富士に思う

每日新聞1981年2月27日

久しく住み慣れた東京・代々木上原の陋屋から荻窪駅近くのビルの七階に転居してまもなく一年になろうとする。ここは北と西に窓が開いているが、東と南は厚い壁で仕切られ、こちら側は何も見えない。いわば日表に背を向けているわけで、いかなる季節にも北窓からは日の射すことがなく、また西側の窓も夏場のーしきり西日の激しさが目立つほか、おおむね寒々しい風情である。

しかし、その眺望のよさは格別で、これまで家々の屋根の谷間に隠れ住んでいたためか、特に新鮮な感じであった。天気さえければ、西南·西·西北という方角に丹沢や秩父の山々が連なっているのを、かならず眼前にすることが出来る。どこを向いても山の姿を見ることのない関東平野の地平線などと、その広さを少年時代から自慢に思っていただけに、これは驚きでさえあった。ただし、誰もが期待する富士は姿を見せず、たぶん近くの高層ビルのどれかに遮られているのではないかと、それのみを無念のー事として、会う人ごとに吹聽したのである。

ところが、晚秋のー日、夜をこめて強い北風が吹き募ったあと、何気なく窓を開いた暁の西空のー角に、くっきりと鮮やかな富士の姿が浮かんでいた。私は、その意外な光景に驚き、かつ感動した。思えば、ここに私が移転してから半年あまりのあいだ、富士はずっとそこに位置しながらも、ひっそりと姿を隠していたのである。だが、考えようによっては、その日までの富士は、私にとって存在しなかったのと同じではないか。ともあれ、それ以来、私は、そこに確かに存在しながらも、容易には見えないもの、見えて来ないものの典型として、その富士の山容を深く銘記したのである。

そして、次第に冬が深まり年末年始の頃になると、その富士の見事な山容はほとんど連日のごとく丹沢山塊の上にあった。それは新築工事をLている荻窪の駅ビルの左側すれすれの位置で、朝の目覚めと同時にまずそこに眼をやることが、ほとんど日課のようになった。たまたま富士の見えない朝も、そこに富士のあることを知ってからは、日没までに幾度となく窓を開け、その方角を眺めた。

日没前後の富士が、また実に見事であった。はじめは紫紺の富士が次第に赤みを増し、遂には金色の輝きを発する。しかし、それもつかのまのことで、裾野に現れた黒い影のようなものが、たまち山頂へ登ってゆく。やがて、わずかに茜色を残し薄暗くなった西空に、同じ黒いラシャ紙から切り抜いたような感じの山々が、それぞれの山容を鮮明にしながら横に連なり、その一段と高いところに文字どおりの黒富士が静かに君臨する。日のあるうちは遠近に応じて微妙な濃淡を見せる山々の色も、影絵そっくりの同じ黒さに統ーされ、街の騒音などは完全に無視したような不思議な静謐が、あたりを支配する。実感としては、こちらが山々を見ているのではなく、むしろ山々がこちらを見ているのであった。だが、その黒々として神秘的な山々も、ほんの数分の後には夜空の闇に消えてしまうのである。

その富士の見える日も、一月の半ばを過ぎる頃から急速に減っていった。そんな或る日、ふと窓を開くと、その富士の見えるあたりが何となく妙な感じになっていた。すでに空の一角に視野を大きく遮っている荻窪の駅ビルの工事が急に進捗し、とつぜん左側へ張り出して来たのである。それは、あの富士のあるべきあたりを一挙に覆いつくしてしまう勢いであった。もはや、いますぐ富士が姿を現しても、その四分の一ぐらいが辛うじて見える程度になっていると思われるが、ここしばらくはそういう機会にさえ恵まれないのである。このままでは、ここからの富士の眺望も、まもなく完全に失われることになろう。

これまで富士に関するかぎりは、ここに転居してきた頃、私が漠然と想像したように、近くの高層ビルに遮られて結局は姿を隠すことになろうが、しかし、その当時と現在と全く同じ思いでいるかというと、かならずしもそうではない。富士の存在をめぐってそれが見えたり見えなかったりすることにも、そこに先入観や情報のたぐいが入り交じり、かなり微妙に屈折した間題が生まれるのをつかのまの恩寵によって知ったからである。

いまでも俳句の世界では、いわゆる写生派が圧倒的な多数を占めている。そLてその写生派の俳人が特に大切にしなければならないのは、その対象が何であれ、しっかりと肉眼で見ておくということであろう。それだけでなく、その見るという行為をーつの方法にまで高めるためには、いま見えていると思われることの中から徹底して先入観や情報のたぐいを排除する努力が必要となる。

阿波野青畝に「水ゆれて鳳胤堂へ蛇の首」という句があるが、いま大多数の俳人は、その「蛇の首」のところを「蛇泳ぐ」とするような書き方で、それを写生したつもりになっている。いまの俳壇の盛況も、実は写生とは違う安易なものを写生の名で普及させることから始まっているのである。


富士は

白富士

至るところの

富士見坂


総ルビ句:富士(ふじ)、白富士(しろふじ)、至(いた)、富士見坂(ふじみざか)

『山海集』1976

朝髪梳くと

富士の

真秋に

顔あげて


総ルビ句:朝髪梳(あさがみす)、富士(ふじ)、真秋(まあき)、顔(かほ)

『日本海軍』1979

雪しげき

言葉の

富士も

晩年なり


総ルビ句:雪(ゆき)、言葉(ことば)、富士(ふじ)、晩年(ばんねん)

『日本海軍』1979

不易なるかな

絶えて

富士なき

富士見坂


総ルビ句:不易(ふえき)、絶(た)、富士(ふじ)、富士見坂(ふじみざか)

『日本海軍』1979

いま

われは

遊ぶ鱶にて

逆さ富士


総ルビ句:遊(あそ)、鱶(ふか)、逆(さか)、富士(ふじ)

『日本海軍』1979

赤富士や

不二も

不一も

殴り書き


総ルビ句:赤富士(あかふじ)、不二(ふじ)、不一(ふいつ)、殴(なぐ)、書(か)

『日本海軍』1979

梅雨の富士たえて見ざれば思ふなり 『山川蝉夫句集』

風強き蜂の巣の下遠富士黒し ( 以下『山川蝉夫句集』以後の山川蝉夫名義作品)

未老人雪の眞富士に泪して

現はれて紫紺の富士と雪の襞

墓遊び富士見るたびに驚きて

神風の伊勢にて富士を幻視せり
















2018・11・26