書評

新川森『星の声』

星を取る竿

新川森句集『星の声』に寄せて

※ご近所にお住まいの俳人、新川さんの句集の装丁をさせていただいた。

そのご縁で所属結社の「紫」での特集に寄稿した文章。

高柳蕗子

『星の声』は草稿の段階で読ませていただいたのだが、そのとき、収録を迷っていると聞いた句がとても印象深かった。

小判草摘むアリババの少年期

俳句をはじめた頃に、関口先生にとられた思い出の句とのこと。なるほど、「アリババの少年期」というフレーズは魅力的だ。しかし、初心のころと違って今は、小判草を摘んだ少年が後に盗賊になるという連想脈が、川柳の「役人の子はにぎにぎをよく覚え」のような〝うがち〟に着地してしまうことが傷に思えるらしい。

ところで、新川森は気づいているかどうか、この句はあとがきのエピソードと似ている。どちらも幼時に、そうと知らずに人生の転機となる出来事と遭遇する情景だ。

眺めて千両

摘んだら一文

さくら草の野原の立札。この言葉に魅かれた、十二歳のときの思い出があとがきにある。これはまさに、少年期ならぬ少女期、アリババならぬ新川森が、小判草ならぬさくら草の立札の言葉にふれて、言葉の魅力に開眼する出来事である。

句作をはじめたころの新川森のなかでは、俳句との出会いが、かつての言葉の魅力との出会いと、無意識のうちに重なったのだろう。それを持ち前のウイットが、これも無意識に、盗賊アリババにスライドさせたのであって、〝うがち〟は本意ではなかったのだ。

この新川森の無意識なウイットは、その後、川柳風味の句風を形成しつつ、それ自体は決して主題でなく、いわば「星取竿」という不思議な道具として、洗練されたようだ。

伸びすぎて腰をひねったチューリップ

さりげなく脱ぐ手袋にふた心

男滝本気で足を洗うかな

例えばチューリップの句、誰もが「腰をひねった」という滑稽表現に注目するだろう。だがそのとたん、滑稽でない要素をむしろ感じさせずにいない。チューリップの茎の語り尽くせぬありさまを感受したからこそ、親しみをこめてこうからかえるのだ。ウイットが句を成立させつつも、〝うがち〟で対象を見切ってしまわない。竿で星を落とそうとして見せ、それが星の高さを感じさせる、そういう方法なのである。

薄氷の中より藁を摑む母

くちびるだけうごかしている木の葉髪

滑稽味のない句も見てみよう。句集の重要なテーマは望郷だが、新川森にとっての故郷とは星空のように届かぬ場所であり、薄氷で隔てられた母、声が届かぬ人など、見えていながら隔たっていることが注意深く描写されている。

この感覚は望郷にとどまらない。万象の姿も、届かぬものを底深くで意識しつつ、言葉の及ぶ距離を測って描かれており、その及ぶ距離が、及ばぬ距離をも暗示するのだ。

もの言わぬ星の声を想う。『星の声』はそんな句集である。

***ご参考までに句集の帯を以下に書き写しておきます。***

心の旅人

薄氷の中より藁を摑む母

追憶が、望郷が、

十七音の詩に昇華した

清新なる句集である -- 山崎十生

落穂拾いそこから先は神のもの

くちびるだけうごかあしている木の葉髪

吊橋のほかに道なし青嵐

星屑はほめられもせず大冬野

水枕だんだんかどが取れてくる

青みかんよりさずかりし蒙古斑

2002年11月21日発行 沖積舎2000円