♥本日のお気に入り
★上記1首目は神事の呼吸っぽさが良い
「息長人」という語の効果で、〝神事みたいな呼吸〟を思わせる。
「息長」は地名、または古代豪族の姓、あるいは長く息を吐く呼吸法の名称。単に長い息という意味で用いる例もある。
歌は、眠れぬ夜に椅子で深呼吸をしている場面。 「眠る」ことも「息をする」ことも通常は意識する必要なくできる基本行動だが、「眠れない」ときに意識的に長い息をし、そのための椅子まであるということ、加えて 自分を「息長人」という呼称で呼ぶということで、なにやら神事めいてくるのだ。
「眠れない」ということが、「息長人」という巫女に与えられた特殊任務みたいに描かれていて、そこはかとない厳粛なユーモアが漂う歌だ、というのが私の解釈と感想。
★2首目はぶっとび。
これはすごい。痛みで眠れないという歌は、ありそうでこれしかなかった。「海老いろの癌」もすごいが、結句「だいなみつくか」にうちのめされる。これはなかなか思いつかない展開だ。
3、4首目はコメントは不要だと思う。
以前は眠れないことがしばしばあった。
自分自身のうるささが原因だった。
考え事が次から次へと湧いてくるだの、寝入りばなに怖い夢をみるだの、
頭のなかで大音響がして幾度も目が覚める(脳内爆発音症候群)だの。
ところがこのごろ、ちっとも、眠れなくない。(笑)
それってちょっとさびしい……。
中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』2014
そうそう、そんな感じ。
さいしょは一般的な理由。そしてだんだん……。
高安国世 『真実』1949
篠原梵『年々去来の花』1974 (俳句)
宮柊二『山西省』1949
**この字余り口調がいかにも眠れないときの思考ですねぇ。
石川啄木『悲しき玩具』1912
辻井竜一 『遊泳前夜の歌』2013
大塚寅彦 『夢何有郷』2011
前川佐美雄 『植物祭』1930
正岡子規(俳句)
鈴木真砂女(俳句)
松王かをり(俳句)
田島健一 『素朴な笛』(電子書籍)(俳句)
南山藤花 (川柳)
「眠れない」でなくて「眠らない」理由ですが。
山中智恵子 『星醒記』
「◯◯だから眠れない」という形は特に川柳に多く見られ、内容も川柳はおもしろいものが多いと思った。
寺井谷子(俳句)
きさらぎ彼句吾 (川柳)
さざき蓬石 (川柳)
さざき蓬石 (川柳)
海地大破 『現代川柳の精鋭たち』2000
工藤比呂美(川柳)
坂本勝子(川柳)
■「眠れない」が川柳では特に人気らしい
まだ途中だが、川柳の元気さには驚いた。
どのぐらい意識されているか知らないが、川柳では「眠れない」は常時募集している題詠みたいなもので、ずっと競作しているのだと思う。
いや、それを言うなら、すべての語は常時募集の題詠なのだ。が、流行がある。
人気語は大勢が無意識に詠んで、すごい勢いで詠み重ねているまっさいちゅうだ。
定形の短詩は、「読者」にとどまらず、「作者」になって参加したくなるものだ。
その理由のひとつに、言葉たちが「あなたも参加しませんか」と誘う、という面がある。
「われこそ」と競うほど意欲や野心がない人でも、自分も参加したい、しないと淋しい、と感じて、歌や句を詠む。言葉ってそういう参加型のものなんじゃないかな?
話が前後するが、「眠れない」は川柳ではすごく好まれているネタである。
「すごく好まれる」といってもそれは、「大抵の作者が一生に一、二回は詠む」程度。
だから「好まれている」と意識はされにくい。
が、ジャンルの中ではヒートアップしていて、そうとうぶっ飛んでもOK状態。 もはや手当たりしだい眠れない、と言ってもだいじょうぶかもしれない。(笑)
堤文月 (川柳)
田中博造 (川柳)
渡辺貞勇 (川柳)
あなたは「眠れない」をどのぐらいぶっ飛んで詠めますか?(笑)
「眠れない」のなかでもさらにコマカイ流行があって、「人の形で眠れない」というフレーズは、川柳でひっそり流行※しているかもしれない。以下の二句を発見した。
※「ひっそり流行」とは、数年に一度誰かが詠む程度。
ひとは(川柳)
福井陽雪(川柳)
こういう一致は、本歌取りのように意識して詠まれる場合もあるだろうし、全く別々に同じ発想をすることもあるだろう。それはどっちでもいい。
いつのまにか こういうふうに詠み重ねていくことが、結果として、「人の形で眠れない」というフレーズに何を冠したら極めつけの句になるのか、みんなで探していることになるのだ。
あなたなら何を「人の形で眠れない」の上に冠しますか? 5音ですよ。
おもしろそうでしょ? この題詠に参加したくなりませんか?
さて、続き続き。
宮柊二 『緑金の森』 1986
**会津口って会津方言のことかな、と私は解釈しています。(まさか違う??)
小島ゆかり 『憂春』2005
**この歌は冒頭に置き、鑑賞も書きました。
山崎方代『こんなもんじゃ』 2003
穂村弘 『シンジケート』 1990
中村冨二『千句集』1981(川柳)
長塚節
中島敦 『中島敦全集』第三卷1949 「和歌でない歌」
東直子『青卵』2001
秋月祐一 『迷子のカピバラ』2013
まみどり(川柳)
平井美奈子「早稲田短歌」44号 2015・2
西田政史『ストロベリー・カレンダー』
阿部青鞋(俳句)
赤尾兜子(俳句)
笹田隆志
** 不眠ということが、自分に与えられたタイヘンな仕事のようだから、なのかな?
普通に「起きている」状態と「眠れない」状態とは別物だ。
後者は、例えば他者の夢にリンクできる、といったフシギ能力を帯びる。
うそー、ほんとー?(゚∀゚)
横山未来子 『樹下のひとりの眠りのために』1998
柴田瞳
「眠れない」状態には、普段なら超えられないところを超えられる、とか、通常なら思いつかないことを思いつく、といった効用を期待できるみたいである。
ほら、高浜虚子でさえそう言ってる。
高浜虚子
しろつめあきこ 『やさしい雨』2014(川柳)
大西久美子 『イーハトーブの数式』2015
やはり「起きている」のとは異なるからなのだろう、「眠れない」状態自体が詩情をかきたてるものみたいだ。
中城ふみ子 『花の原型』 1955
花美月 『かはうその賦』2015
種田山頭火 (俳句)
鈴木六林男 (俳句)
野間幸恵 『WATER WAX』2016(俳句)
鳥居美智子(俳句)
おおしろ建(俳句)
佐藤鬼房(俳句)
むさし (川柳)
北山まみどり(川柳)
堤文月(川柳)
田中博造 (川柳)
田口文世(川柳)
北野岸柳 (川柳)
谷口幹男(川柳)
**さっきも書きましたが、ほんとに川柳の人は「眠れない」が好きだなあ。
古典の恋の和歌で夜更かしするといえば、たいてい恋人を待つ歌だ。
笠女郎『万葉集』
そして、「来てくれないあなたを待ってたら夜が明けたわよ」的に恨みっぽく詠む。
赤染衛門『後拾遺集』
こういうふうにして、朝まで起きていることが抒情的シチュエーションの一つとして確立したみたいだ。
今も「眠れない」ということ自体に、単なる事実を超えてかすかな抒情の付加価値があるみたいな感じがするのは、古典和歌の名残も手伝っていないだろうか。
「眠れないまま夜が明けた」と書けば、ただの寝不足にもほのかな詩的価値が付加されやしないか。
むろん、先に書いたように「眠れない」には、寝不足というマイナスがあるにもかかわらずフシギな能力の開花を期待できる、という理由も大きいが、それ以外にも、古典和歌が培った抒情的価値の影響も少しはあろうかと思うのだ。
塚本邦雄 『日本人靈歌』1958
光森裕樹 『鈴を産むひばり』2010
**これ、徹夜のあとエレベーターに乗り、力の入らぬ指でボタンを押している場面?
新井蜜 『月を見てはいけない』2014
長塚節
堀合昇平 「詩客」(ネット)20131101
鈴木六林男(俳句)
「眠れない」のイメージ領域の一角には社会風刺が存在する。
その始まりはたぶん、幕末のこの落首だろう。
和歌といえば、室町時代あたりから連歌俳諧に人気を奪われ、教養として学ばれはしたが創作意欲はあまり注がれなくなった。近代に至って新たに開花した。
--と、学校では教わったが、しかしその空白みたいな時代に、狂歌や落首というジャンルはとっても盛んだった。つまり短歌形式は健在だったし、それまでと傾向は違うが創作意欲もちゃんと注がれていたのだし、それなり功績があった。
「太平の眠りを覚ます」の歌の「眠れず」は個人の話でなく、世間の不安と興奮をあらわしている、という意味で、やや特殊な用法だ。風刺歌が人口に膾炙したことで、私たちはこの特殊な「眠れず」を獲得したのだ。
(「私たちは獲得した」とは、多くの人に意味がわかるほど共有しているという意味。)
そういうわけで、個を超えた不眠というのも、次のように、「眠れない」のイメージ領域の一角を占めているのだ。
松本典子「かりん」H22/11
青井硝子 「早稲田短歌」 44号
青柳守音
織田寿(川柳)
前田まえてる (川柳)
「眠れず」でなくて「眠らず」ならば、「不夜城」というのもある。
夜間も明るく照明を灯し続けて賑やかな建物や繁華街。活況ではあるが自然にさからう不健康・不健全なイメージを伴う。
(「不夜城」は中国山東省にあった古代都市名でもある。夜も日が出たそうだ。)
山階基 「早稲田短歌」42号 ※第58回角川短歌賞予選通過作改稿
瀬戸夏子 『かわいい海とかわいくない海 end,』2016
「眠れない」「眠らない」ものとして、作り物の目を詠む歌句が、少ないけれど一定数あるようだ。
これは、社会批評まではいかないが、生きものでない目が長期間見守りっぱなしでいる、という意味あいを持つ。
森尻理恵
堀井鶏
以前は、眠れないという歌で特に理由の限定がなければ、個人的な感情のたかぶりかと曖昧に受け止めておけばよかったと思う。
しかし、うつ病の症状のひとつに「夕方から自己嫌悪が強まりだし、夜は不安や焦りや落ち込みで眠れず生きるのが辛くなる」というのがあるそうだ。
そんな心境では、死がやすらぎに見えてしまう場合があるかもしれない。
そのように露骨に書くのはためらわれるが、婉曲に、死をやすらぎと捉える作品がごくたまにあるようだ。
たまにしかないのは、さすがに「死がやすらぎに見える」とは書きにくくて、なんらかの抒情を借りて、そらしてしまうからだと思う。
佐伯紺 「歌壇」2014/2月(第二十五回歌壇賞)
(推奨するわけではないが、実際そういう気分ですごす人が多いなら、なんらかの形で言葉で表さなければ、対処もできない。コトダマ作用は、言葉であらわすことは実現の方向にプッシュするから、みだりに表現できないが、かといって、黙殺すれば抑えられるわけでもない。)
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』
鈴木真砂女(俳句)
不眠と海は、イメージのどこかで関わりがあるようだ。
今は、月とか海とか、自然との関わりで不眠を詠むこと自体がやや廃れてきているが、形を替えて、自然物でないものに接続先を変えるなどして詠みつがれる可能性がある。
「眠れない」といえば「羊」である。短歌などにもよく出てくる。「眠れない」を詠む歌句の中の3%ほどを占める。
(さっきあげた「ねむれねば頭中に数ふ冬の滝 赤尾兜子」は羊の変形だろうか?)
江戸時代以前の日本には羊がいなかったらしい。
眠れない時に羊を数えるのは日本の風習ではないようだし、語感から見ても、英語なら 1 sheep,2 sheep と心地よく呟けて、 しかもsheepはsleepとも似て催眠効果もありそうなのに対して、日本語の「羊が1匹、羊が2匹」は唱えにくくて、眠くなににくくないだろうか。
にもかかわらず、詠まれるのである。
一部重複になるが、羊が出て来る歌句をあげておこう。
中畑智江
北野岸柳 (川柳)
三浦ひとは(川柳)
久々湊盈子『鬼龍子』2007
定金冬二『無双』(川柳)
ディズニーの映画だったか、テレビの「ポパイ」か「トムとジェリー」だったか、かなり幼いころに映像で見た記憶がある。
睡眠用の帽子(あの帽子はアニメでしか見たことがない)をかぶってベッドによこたわり、顔の上を飛び越える羊を数えている。あれは印象深かった。
そういうふうに間接的に得た知識〈眠れない→羊を数える〉を、私たちは共有しているのだと思う。
で、羊ネタは、知識に基づくものであるためか、説得のみちすじが理屈っぽい。
理屈による説得は通りにくいものだが、ワザを使う楽しみがある。
たとえば中畑の歌は見事なヒネリで読者を巻き込んでしまう。北野の川柳も、いつも数えている羊たちが嫌がってストライキしているかのようなウイットで、不眠症の深刻度伝えてくる。三浦の句も似た着想だ。
もうひとつ、理屈っぽいネタは〝極論する〟のも一つの手である。
久々湊の短歌、定金の句が、どちらも「殺す」に言及していることに注目した。
羊を寝かしつけるとか、エンドレス羊とか、ありそうだと思ったが見つからなかった。
田丸まひる 『硝子のボレット』2014
**シーソーみたいな関係。いや、透き通っている二つが砂時計みたいにくっついて砂でなく「眠り」をやりとりしている感じ?
千葉聡
** 「眠れない弟に影絵を見せてやる」という話なら了解されやすいのだが、「眠れなかった弟」の朝食に「影絵みたいなバーガー」ってどうなの、と思ってしまう。
でも、「影絵みたい」だからバーガーを買うわけではないだろう。買いながらふと「眠れない弟に影絵を見せてやる」というありがちなシナリオが起動し、「影絵みたいなバーガー」という思いがよぎる。
そういうことが、頭のなかでしょっちゅう起きていないか? 頭のなかの出来事としてはとってもリアルだ。
このように、自分が意識して考えるのでなく、シナリオが起動してひとりでに考えてしまうことがある、ということもこのごろ少しずつ共通認識化してきて、歌の書き方にも反映しだしていると思う。
北原白秋 『橡』1943
**「うつらねむらず眉しろき猫」はどう解釈したものか。猫の眉は白くてふつうじゃないか、と思わぬでもないが、人であれば白い眉は老人だし、眉といえば顔の中では知性の指定席っぽいし、猫はあれで覚醒時はマジメでかしこい表情をしている。
この歌では、そういう猫のまなざしが、「風のさき」、すなわち未来を見るみたいに賢く老成しているみたいだ、と言いたいのかもしれない。 と、そう私は解釈してみたが、どうなんでしょね?
永井陽子『樟の木のうた』1983
葛原妙子 『原牛』1959
笹井宏之 『ひとさらい』2011
柴田瞳
岩尾淳子 『眠らない島』2012
塚本邦雄『水葬物語』
私のデータベースは、確認と修正につとめておりますが、追いつかないことがあります。
表記の異なるバージョンがあちこちに引用されていることもあるし、作者がアンソロジーに入れる時に改作しておばけが増える、といったこともあります。
というわけで、上記の歌句をどこかに引用する場合は、表記等をなんらかの方法で確認してください。
2019.3.5 高柳蕗子
この項の内容は、2018年2月にFacebookページ「ことばをくすぐれふふふふ」にアップしたものを手直ししたものです。