ちょろぱ
その他の歌の逸話
歌で出世した人たち、ほか
★藤原範光
『平家物語』によれば藤原範光は、平家没落のときに都から落ちようとする尊成親王(高倉天皇四宮、安徳天皇弟)の一行を追いかけ、「この宮の御運は今開けようとしている」と言って引き戻したそうだ。
翌日、後白河法王から迎えの車が来た。きのう西国に行けば安徳天皇といっしょに海の藻屑だったかもしれないこの親王は、のちにあの後鳥羽天皇になったのだ。
どうしたことか、それきり範光に恩を返すのを忘れていた帝はある日、範光のこの歌を目にする。
一声は思ひ出て鳴けほととぎす老蘇の森の夜半の昔を
帝は「あなむざんや」と、早速正三位に叙したという。
★源頼政
『平家物語』には、もうひとつよく似た話がある。
源頼政は、保元・平治の乱で大活躍したのにたいした恩賞もなく、昇殿も許されぬ身分のままだった。その気持ちを、
人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな
と詠んだところ正四位下を賜り昇殿を許されたという。
それでも、まだ殿上人の最下位。そこで、
のぼるべきたよりなき身は木の下にしゐを拾ひて世を渡るかな
と、椎を四位に掛けた歌を詠んだ。これで、三位に昇進したという。
★藤原清輔
藤原清輔は『袋草子』に、「和歌によって、身分の高い方や帝に自分の志を知っていただけることがある」と言い、官位昇進を願う上奏文に和歌を添えて成功した自分の例を書いている。
最初に、
梅のはな同じ根よりは生ひながらいかなる枝の咲き遅るらむ
と自分を咲き遅れた梅の枝にたとえ、それがしかるべき方の目にとまり、従五位になったという話。
次は、
位山谷のうぐひす人しれず音のみなかれて春を待つかな
という歌を崇徳上皇に叙目が近づいた頃に奉って、正五位下に叙せられる。
さらに、
やへやへの人だに昇る位山老ひぬる身にはくるしかりけり
が鳥羽上皇の心を動かし、四位を賜った。
こう書くととんとん拍子のようだが、「やへやへの人」ははるかに年の若い人のことで、ここでは弟のことをさしている。
藤原清輔は、以前、「あなたは歌道の第一人者だから位を上げてもよい」と言われたのだが、それきり忘れられてしまい、幾度も選に漏れてちっとも昇進しないうちに、とうとう弟が先に四位になってしまったのだった。
清輔は代々勅撰集歌人の家の出である。
曾祖父隆経と祖父顕季は『後拾遺集』に入集したし、父顕輔は『金葉集』に入集し、『詞花集』の編者でもあったが、
息子の清輔は一首も入れてもらえなかった。
勅撰集歌人といえば、それだけでつぶしが効いた時代であるし、そういう家系であれば、せめて歌に免じて官位を、というなりふり構わぬ哀願も笑えないところがある。
清輔はそういう方法でわずかに昇進し、『続詞花集』の撰もした。
しかし、この歌集は天皇が亡くなったために勅撰集にならなかった。念願かなって勅撰集『新古今集』に十二首入集したのは、亡くなった後のことだった。
清輔は、百人一首でおなじみの歌人だ。
「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しとみし世ぞ今は恋ひしき」
(これからさらに長生きしたら、今のことがまたなつかしく思われるだろう。いやな世の中だと思っていたあのころを、今は恋しく思うように。)
★中根平蔵
徳川吉宗の祐筆を長く勤めた中根平蔵という者が、(はげ頭になってたならなお面白いが)
筆もちて頭かく山五十年 男なりゃこそ泣かぬ平蔵
という歌を詠んでぼやいたところ、それがふと殿の耳にとまり、五十俵加増されたそうだ。
●ぱっとしない貫之
紀貫之といえばすごく有名だ。今でも学校で習うし、伝説も多くて、「ありとほし」の歌(おまじないの章参照)で神様の心も動かした貫之である。
しかし、官位の方は最後までイマイチだったらしい。
貫之も、身の不遇を訴える歌を詠み、藤原忠平に贈っているのだが、
いたづらに世に旧るものと高砂の松もわれをや友と見るらむ
(私は空しく年をとる物として、千年の老松である高砂の松からも友だと思われるでしょう)
神はともかく人間相手には歌が効かなかったらしい。歌で出世する話が数多くあるなかで、貫之だけはどうもぱっとしないのだ。
ところで、貫之の本当の名は實之(または實定)だったという冗談話がある。
初めて大事な節会に出席したとき冠を落としてしまい、「實之が冠を落とせば貫之となる」と笑われたというのだ。
貫之はこういうぱっとしない話が似合う。
●初雁の茶壷
(「茶道名言集」 井口海仙 講談社学術文庫で見つけた話)
茶器は同じ時代、同じ窯で焼けた物でも、銘のあるなしで価値に違いがあるという。
銘は持ち主や有名な茶人などによってつけられる ことが多いが、なにかいきさつがあって銘がつけられるとさらに価値を増すそうだ。
寛正二年 ( 一四六一年)八月二十日のこと、足利義政が近習の者に
「今日は廿日(はつか)か」
とたずねた。すると側にいた女房の一人が、
「今日、初雁の声を聞きました」
と答えた。廿日の「はつか」から初雁を連想したようだ。
「なかなか面白い返事だ」と 義政は、
誰も聞け名づくる壷の口びらき今日はつかりの声によそえて
と詠んだ。
やはり側にひかえていた同朋(どうぼう)の能阿弥(のうあみ)が即座に、
初雁を聞こえ上げける言の葉をいかめずらしき雲の上まで
と返歌した。
この出来事から、まだ銘のなかった茶壷に「初雁」と銘したという。
●カンニングをばらされた?
死に近い源頼実が病の回復を神に祈ったところ、家の者に住吉神社の神が憑いてこう言った。
「以前、『五年命を奉るから秀歌をよまさせたまえ』と祈ったことを忘れたのか。
木の葉ちる宿は聞きわくことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も
(木の葉ちる宿では夜通し落葉する音で、時雨を聞き分けることができない)
という秀歌を詠ませてやったではないか」
住吉神社の神様といえば、和歌の神様だ。
この歌は『後拾遺集』の他、いろいろな歌学書にとりあげられているから、秀歌を詠むという頼実の願いはかなったようだが、死に際にカンニングをばらされたのでは格好がつかない。
●下の句をつけて男をあげる
鬼退治の源頼光の子孫である源頼政は、二回の鵺退治で知られている。
一回目の鵺退治では、褒美に獅子王という御剣を賜ったのだが、その取次ぎの左大臣がちょうど郭公が鳴いて通ったので、こう詠みかけた。
ほとゝぎす名をも雲井に上ぐるかな
頼政は即座に下の句をつけた。
弓張月のゐるにまかせて
二回目の鵺退治のときは右大臣が褒美の御衣を取り次ぎ、
「昔の養由(中国春秋時代の弓の名手)は雲の外なる鴈を射たり。今の世の頼政は雨の中にて鵺を射たり」と称揚し、
五月闇名をあらわせる今宵かな
と詠みかけた。
頼政は、
たそかれ時も過ぎぬと思ふに
と付けた。こうして頼政は、武人としてだけでなく、文人としても名をあげたそうだ。
●機知の歌人、頼政
頼政はこうした逸話にこと欠かない。
近衛院から「左巻きの藤、淵、桐火桶」を詠み込んで歌を作れという難題を出されたが、
瀬は干たりまきの淵々おちたぎり氷魚けさいかによりまさるらむ
と、自分の名前まで詠み込んでクリアしたという。