ワン鍋・ニャン鍋・レア鍋とは?
レア鍋賞 (3首以下しか詠まれていないレアな単語を含む歌 2018.11~)
ワン鍋ニャン鍋(1首か2首しか詠まれていないレアな単語を含む歌 2018・5~7)
それ以前のワン鍋ニャン鍋
ナイ鍋コーナー(この具材は現在不足しております)
データベース闇鍋を使って短歌などを検索していると、「え、こんなフツーの言葉があんまり短歌に使われていない?」と驚くことがあります。
以前、用例が一首しかない場合を「ワン鍋賞」、二首しかない場合を「ニャン鍋賞」として讃え、ご紹介していた時期があります。
「闇鍋」データが少ない頃はしょっちゅう「ワン鍋賞」「ニャン鍋賞」が出ましたが、このごろデータが増えたため、以前ほどには見つからなくなり、三首ある、というケースが増えてきました。
そこで、用例が3首以内しかないレアな単語を使った歌を「レア鍋賞」とし、4首以上でも、普通はよく使う語なのに、そのわりには歌にはあまり詠まれていない、という場合にも、ここにご紹介することにします。
ついでに、一般に使う語なのに短歌にまだ使われていないような単語をみつけたら書き留めておきます。
短歌という定型詩は、一三〇〇年以上の伝統を背負う円熟した詩型だと思われがちですが、実は短歌はまだ幼く、日本語を使いこなせていない。実はカタコト状態なのです。
日本語の言語活動の現場を見渡すと、短歌はほんの一角を占めているだけであり、そこで使える語彙がかたよっているし、単語レベルで見ても、ある単語に意味がいくつもある場合に、短歌に用いられているのはその一部だけ、というふうに偏っていることが少なくないのです。
短歌は、古典時代から少しずつ、ほんとに少しずつ、使える言葉や意味を増やしてきていていますが、まだまだ「完成された詩型」ではないのです。
それなのに、短歌という詩型は、完成されたものとして敬われてしまう面があります。
江戸時代には「歌道」として敬われ、当時の新ジャンル、俳諧や川柳の基礎的教養と位置づけられました。(ゆえに過去を踏襲することが重視され短歌は何百年も停滞した、と学校で習った。)
今でも、短歌に冠する言説において、伝統など、あたかも短歌には堂々とふりかぶる権威があるかのような言い回しを見かけますが、過去の成果がどんなにたくさんあったって、まだまだ足りない。過去を地固めしつつ、あくまで謙虚に、新しいことを取り入れることが大事であると思います。
2018年11月~2019年12月
河野裕子『歩く』
兵庫ユカ『七月の心臓』
山下翔
★ついでの醤油ソース
※元データの比率は、短歌10:俳句2:川柳1ぐらい。
「ソース」は短歌20、俳句2、川柳1で、俳句川柳ではあまり詠まれないみたい。
「醤油」はひらがな表記も含めて、短歌22、俳句2、川柳5。俳句では好かれていない。
2019年9月30日 以下ひとつしかなかった。
浪越靖政 川柳作家ベストコレクション
2019年7月8日
少なそうだと思ったら四首もあった。一人は白秋かい! せっかくだからupしておきます。(一人は私だし)
北原白秋『海阪』1949
島なおみ「詩客」2012-12-07
村上きわみ
高柳蕗子『あたしごっこ』
2019年6月29日
鼻毛を詠む歌は2首しかなかった。
※俳句川柳のほうが多かった。少しピックアップ
ずんずんと鼻毛の伸びる梅雨かな 丸谷才一
洪水はもしくは鼻毛などに似て 阿部青鞋
冬が笑い 西鶴笑う 風の鼻毛 中村冨二『千句集』
2019年6月18日
膀胱炎を詠む歌は二首しかなかった。(ひとつは私で、なんだか申し訳ない)
なお、「膀胱」ならば、上記2首以外に5首あった。
(そこにまた私が含まれていて、なんだか申し訳ないが)
いろいろなゆめからさめるまえにそっとそっときれいに光る膀胱 杉山モナミ ヒドゥン・オーサーズ 』
膀胱の燃える春です詩を産んで月があんなにむらさきいろで 佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』
銀幕を膀胱破裂寸前の影が一枚ゆらゆらとゆく 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』
腎臓はこのへんですかこのへんは膀胱ですか湯の中にいて 東直子「文藝春秋」201405
亡霊はボサボサ頭 棒立ちの坊やの膀胱ぼんぼり灯る 高柳蕗子『あたしごっこ』
2019年6月16日
なお「おろおろ」8首、「おずおず」4首、「おたおた」「おちおち」ナシ、
2018年12月12日
2018年11月16日 94461首のなかにこの3首のみ。
2018年11月14日 94461首のなかにこれ1首しかなかった。
なお、雪女は6首あった。
他5首
2018年11月8日検索 94419首の中に3首のみだった。
(検索日 2018.7.1 短歌データ総数87229に1首しかない。)
(検索日 2018.7.1 短歌データ総数87229に2首しかない。)
「お粗末」は無くても「粗末」ならあるのでは、と思いませんか?
ざーんねんでした。「粗末」は一首もありませーん。(ひらがな表記でもナシです。)
なお、「みすぼらしい」は1首だけ、「みみっちい」は皆無。(笑)
なぜか「ちっぽけ」は10首もあった!
(検索日 2018.7.1 短歌データ総数87229に1首しかない。)
啄木の時代から長いときがたったのに、まだワン鍋賞。啄木は偉大だ。
※ついでに、ときどき混同される「おざなり」も以下の2首だけでした。
★言葉の知識は意外と年配者がダメだったりする
「このごろの若い人は『なおざり』と『おざなり』の区別がつかない人が多くなった」
とどこかで聞いたが、周囲にいる若い歌人に聞いたら、ほぼこの区別を知っていた。
そして私と同年代の一般人は、この2つを混同している人がよくいる。
だからトシじゃないのよ。言葉に対する意識の高低の個人差。(笑)
(検索日 2018.6.27 短歌データ総数87229に2首しかない。)
(検索日 2018.6.24 短歌データ総数86831に2首しかない。)
そんなに多く詠まれる語ではなさそうで、それなりに少ないな、という感じ。
2018.11追記
上記穂村弘の歌にお茶漬けが出てくるが、「茶漬け」を検索してみたら、上記の他に4首も出てきた。
たのしみは小豆の飯の冷たるを茶漬てふ物になしてくふ時 橘曙覧 『志濃夫廼舎歌集』
生きて在るすなはち今と思ふまで鮎の茶漬けをむさぼり喰らふも 島田修三
お茶漬けをチャヅといったよこの人は。きっといまだけ、聞けてよかった 雪舟えま「短歌研究2」016・6
お茶漬はまず塩味のお茶を吸い米数粒にくちづけてから 東直子「かばん」2014・5
(検索日 2018.6.24 短歌データ総数86831に1首しかない。)
出物はあんまり詠まれないと思うが、やはり詠まれないなあ。
(検索日 2018.6.23 短歌データ総数86831に2首しかない。※2011年1月に検索したときは下の飯田の歌がワン鍋賞だったが7年たって1首増えた。)
2011年1月時点で「ドライヤー」を詠む歌は0だったが、現在は以下の3首がある。
ドライヤーは2011年頃にはすでに一般家庭に浸透していた。
だが、現物が日常的に眼の前にあっても、歌人はなかなか「歌に詠める語」と認識しないのだ。
良いの悪いのと言いたいのではない。これって人間と言葉の関係において重要な現象ではないだろうか。
すなわち、ある事象(「ドライヤー」など)が世間一般に浸透し、個々人はやがてその名称を覚えて使いこなせるようになる。だがそれが歌に当たり前のように詠まれるようになるのはずっと先だ。10年、20年かけてぽつりぽつり詠まれながら「歌に詠める語」になっていくらしい。
(検索日 2018.6.5 短歌データ総数86831に1首しかない。※2011年1月に検索したときも次の歌がワン鍋賞だった。)
「整髪料」じゃなくて「ヘアなんとか」ならあるかと思って探してみた。その結果、整髪用の「ムース」は以下3首があった。
(検索日 2018.6.5 短歌データ総数86831に2首しかない。)
2011年1月には穂村の歌しかなかったのだが、月日は流れ、乾燥機は著しく普及しただろうに、まだ1首しか増えていない。
新しくもなんでもない言葉でも歌になかなか詠まれないことがある。
2011年1月「闇鍋」短歌総数4万弱 の時点では上記2首だけだった。
2018年6月5日現在も、次の一首が増えただけで、あまり詠まれないことに変わりない。
2019年6月追記 まだ一首も増えていません。
「焼飯」「焼き飯」「炒飯」「炒めごはん」「炒めご飯」も皆無!!
ちょっとネットで検索、以下を発見しました
その他、TV番組かな?というのがありましたが、よくわからないので囲繞しないでおきます。
(検索日 2018.6.5 短歌データ総数86831に3首しかない。 阿弥陀籤、あみだ籤、アミダクジ等々の別表記も含めて検索。)
2011年1月には上記1首しか無かったが、2018年6月現在次の2首もある。
(検索日 2018.6.5 短歌データ総数86831に3首しかない。 竹輪、チクワ等々の別表記も含めて検索。)
2011年1月時点ではこの1首だけだったが2018年6月現在次の2首もある。
なお、ハンペンとガンモは、2011年時点で詠む歌がひとつもなかったが、なんと今もなおゼロである!
(検索日 2018.6.5 短歌データ総数86831に1首しかない。)
2011年2月には上記1首しかなかったが2018年6月現在以下の2首が加わった。(準ニャン)
※Beeeeeeeeep!にルビ:飛び込まないで下さい
(検索日 2018.5.20 短歌データ総数86254に1首しかない。)
2011年の春(当時の闇鍋の短歌データ数39770 首) の検索では、ズッキーニを詠む歌はこれひとつだけで「ワン鍋賞」を進呈したが、あれから七年、ひさしぶりに再検索してみた。まだこれひとつだ。
比較的新しい食物でなじみの薄い人が多いのかもしれない。ただ、その点では同程度と思われるアボカドは4首もあったので、〝なじみ〟の濃淡だけでは語れない。明け方のゆゆは静かに泣いているアボカド抱いた自称あばずれ 穂村弘『手紙魔まみ 夏の引っ越しウサギ連れ』アボカドの固さをそっと確かめるように抱きしめられるキッチン 俵万智『トリアングル』「どれくらいキライかというとずぶずぶになるまで熟したアボカドくらい」 村上きわみ『fish』回転をする世界ハマチ・ツブ貝・アボカド・イクラ戦争 山下一路『スーパーアメフラシ』(検索日 2018.5.20 短歌データ総数86254に1首しかない。)
「まちはずれ」は領域の境目のかすかな不安をはらむ、と思うが、そのわりには意外な少なさだ。
なんとなく童謡で使われそうなファンタジーがかった雰囲気が、短歌文脈には使いにくいのかも。
(検索日 2018.5.19 短歌データ総数86254に1首しかない。なお「しむける」はひとつもない。)
(検索日 2018.5.19 短歌データ総数86254に2首しかない)
(検索日 2018.5.18 短歌データ総数86254に2首しかない)
(2019年9月30日追記)
(検索日 2018.5.16 短歌データ総数86254に2首しかない)
(検索日 2018.5.16 短歌データ総数86254に1首しかない)
(検索日 2018.5.16 短歌データ総数86254に1首しかない)
(検索日 2018.5.15 短歌データ総数86254に3首。ですが啄木がだぶっているので準ニャンに。)
2011年2月(短歌データ総数4万程度) の検索では「付箋」という語を読み込んだ歌は上記1首のみだったが、2018年6月現在上記も含めて24首もある。
「付箋」という語を使った歌の作者はほぼ加藤治郎以降の世代だ。激増の理由は、付箋が文具として認知度を上げ、安価で出回るようになったからだろうか?
★いや、それだけではない。目の前にぶらさげたって詠まないものは詠まないのが短歌の世界だ。(笑)
短歌は、作者読者ともに、目の前にあるものを詠むと思っている人が多いが、結果を見ればそれが作歌の実態にそぐわないかんちがいであることがわかる。作者がなんと言おうと、ある語が短歌に使われる最大の理由は「短歌に使える語・使いたい語」と作者が感じるからである。
この歌などが皮切りとなって、「付箋」は「短歌に使える語・使いたい語」という認識が徐々に広がった、つまり歌語になったのではないだろうか。
2011年1月時点(短歌データ総数4万程度)で「スプレー」を詠む歌は上記2首だけだったが、2018年6月現在は10首もある。
また、2011年1月時点で「ドライヤー」を詠む歌は0だったが、現在は3首ある。詳細は新しいワンニャン参照。
2011.01 時点で「あぶらあげ」(油揚、アブラゲなどの別表記含む)を詠む歌はこれひとつだった。
この時点で「豆腐を詠む歌は40首ほどあり、なんという不公平かと(笑)思ったものだ。
2018年6月現在「あぶらあげ」を詠む歌は5首に増えた。「豆腐」は80首になっていた。増加率ではアブラゲの勝ちだが……。
2011.01 時点で肉まんを詠む歌はこれだけだったが、2018年6月現在6首ある。
食べ物の名前を積極的に歌に取り入れたのは俵万智(『サラダ記念日』1987)である。
以前は歌に詠まれる食品名は限られていたが、サラダ記念日以降、コンビニなどで買う弁当やお菓子にも抒情が見出されやすくなったようだ。
短歌にまだ使われていない言葉っていっぱいあるようです。日常よく使う言葉が、9万近い「闇鍋」短歌データにぜんぜん出てこないことがあります。
「闇鍋」になかった、というだけであり、むろんすべての短歌を知るわけじゃないから、皆無だとは言えません。が、短歌の使用語彙のかたよりを考える参考になるので、ここに書いておきます。
※あとから歌を見つけた場合は、ワンニャンに移すなどします。
それまで歌に詠まれていなかった語を詠みこむことは有意義です。
実際の和歌と短歌作品の言葉の用いられ方を古代から現在まで追いかけてみると、一つ一つの単語は、たとえ日常いくら使いこなせている語だとしても、和歌短歌の中で使いこなされるまでには時間がかかり、ものすごく多くの歌に詠まれて意味や表現力を吸着する必要があるようなのです。
(何百年もかかる、というか、和歌の歴史の千数百年をかけてまだ詠まれていない語がいっぱいある。)
歌に詠まれたことのない単語は歌に詠み込みにくいものです。多くは下手な歌になってしまいます。
だから、歌に詠まれていない単語を使うことは、出来不出来にかかわらず、貴重なプロセスであると言えます。
ただし、ただ歌に使えばいいというわけではないし、歌に使うことが目的ではないのです。
その単語は、歌の中でちゃんと役割を果たそうとし、その歌はその単語を必要とする。
そういうふうにつかわれていくことで、その単語は歌の世界の言葉としてなじんでいくのです。
特に、「え、こんなフツーの言葉がない!」と思うものは太字にします。
あきあき(飽き飽き)/おざなり/
がんもどき(ガンモ等も含む)/くどくど/かるはずみ
しむける(仕向ける)/粗末/じれる・じらす(じれったいはあった)
たじたじ/ちやほや/つべこべ/ところが(接続詞)/どさくさ
※「ちぐはぐ」も少なそうだと思って検索してみたらなぜか6首もあった。わからないものだなあ。なまじっか/なれそめ
ひんまげる・ひんまがる/はんぺん/
みみっちい/もぐもぐ
よしんば/
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わなわな(余計なことだが、「わらわら」は13首、「わくわく」は4首あった。また「へなへな」も拙作がひとつあった。)/