ばかあね 2003・10 (未発表)
納豆の糸 2005.10 (未発表)
「はかどる雪」と「きしむ塩 」 『短歌の生命反応』の残り 2004・2
空と身体 他 『短歌の生命反応』の残り 2004.11
空の講義 2005.10
クエストのクリア 2005.10 <この2005年10月以降約5年間、執筆活動中断。>
2002.4(未発表)
(・・・窓辺で雨のふりようや雨滴のさまを鑑賞する歌についての長文の考察の中でつい脱線・・・)
うつくしき雨降り込めるフィルムの発火してゆくさまをあなたに 古谷空色
さて、窓辺で雨を鑑賞する歌とはすこし違うけれども、雨の窓の女性を想う歌がある。多くは、美しく情緒的な雨が降る窓辺の女性を遠目に見るような歌になっていて、視点は窓の外の男性だ。雨の中にいるのかどうかはわからないが、その雨と窓によって隔てられ、別世界からあこがれるようなまなざしで女性を描く歌が。
目を病める
若き女の椅(よ)りかかる
窓にしめやかに春の雨降る 石川啄木
繊き雨けむる窓べに燈をともし花ちかく女は手套をぬぐ 吉岡実
右の二首を見て多くの人は、「雨と窓と女性」の取り合わせがなんとなく古いと感じるのではないだろうか。あまりよく知らない女性、近づくことができない女性への漠然としたあこがれを表す、常套的なシチュエーションだと感じるだろう。
しかし、今もこのようなあこがれ自体はなくなったわけではなく、なんらかの形で書き継がれているはずだ。
うつくしき雨降り込めるフィルムの発火してゆくさまをあなたに 古谷空色
この女性は窓の向こうにいるわけではないが、主体と女性との関係は間接的である。
フィルムの中の美しい雨という着想は、窓の雨を鑑賞する歌の延長にある。そのフィルムが「発火してゆく」という、さらに珍しくさらに美しいさま、つまり物でなく情景をあなたにプレゼントしたいというのだ。たいそう手の込んだ無形の贈り物を、歌の中で作り上げている。この贈り物が無形のもので、現実離れしているために、その「あなた」も空想上の女性であるという感じがする。
このような贈り物を喜んでくれるような女性へのあこがれ。そして主体と女性は、雨と窓とで隔てられているのではなく、贈り物がひどくあえかな無形のものであることによって、直接触れられる同じ空間にいないかのように描かれている。
作者が自己の現実の中で触れられる女性を想った歌であることもあり得るのだが、それは歌のなかではもうどうでもよい。この歌の中で主体と女性の精神的な距離感は、「あこがれの距離」、直接介入できない位置関係になっているである。
この歌の味わいのひとつは、そのように変形しつつも、「雨」「窓(フィルムの枠)」「女性」という三つの要素がそろっているほほえましさだ。読んですぐ気がつくものではないが、奇抜なのにどこか見覚えのあるシチュエーションだという安心感やなつかしさがある。ことに「窓」がフィルムになっているという点は、進化の過程で必要がなくなって退化した小さな手足みたいではないか。
(後略)
(2003・10・9 電車の中でなんとなく書いたミニエッセイ 未発表)
埼京線に「赤羽」という駅がある。「あかばね」というひらがなを見ると、「馬鹿姉」という言葉が一瞬頭をよぎらないだろうか。
「バカアネだ」と言って笑っている子供を見た。けっこう多くの人が、「あかばね」から「馬鹿姉」という語を連想していると思われる。
私たちは、言葉を見聞きしたとたん、無意識にいろんなものを連想している。たとえばクローンという言葉を聞いたとたん想起されるものがごちゃごちゃいっぱいあり、その中には、クローンという語の意味からでなく、音から連想した「黒」さえも混じっている。
「クローンはアカーン」とかいうしゃれは、多くの人が思いつくだろうし、聞けば即座に、それが「黒→赤」の連想も重なっていることまでわかる。この程度はさしたる意外性のない、つまらない「寒いしゃれ」なのである。これを書きながらも「クローン売ろーん」とか「クローンレンジャー」とか、しょうもないしゃれがまだまだ思い浮かび続ける。
そういえば神保町(じんぼうちょう)を通るとき、いつも「ビンボウ町」と思い、こんなのは、頭の中の無駄事にすぎないと、ほとんど無視していたのだった。
脱線するが、役にたつこともある。ビートたけしが交通事故でひどいケガをしたときのこと。退院の記者会見では、まだ顔に麻痺が残ってゆがみ、予想はしていたとはいえその痛々しさに、記者たちは言葉を失った。しかし、たけしは開口一番、「顔面マヒナスターズ、なんてね」と言った。
どっと笑いがおこった。顔はどうであろうと、いつものたけしだ。まずはほっとし、彼の無事を心から喜んだ笑いのように思えた。
話がそれたが、言いたかったは、言葉を見聞きしたとたんにたくさんのことを連想し、その一瞬に、無駄な連想はさっさと忘れるということ。ただし、気分的に余裕があれば、無駄な連想をちょっと味わいもするということだ。
今これを、電車のなかで書いているのだが、近くの人の会話がちょうど耳に入った。
「そりゃあ、波紋がひろがっちゃうなあ」
「波紋、波紋のハモンドオルガン」
少し酔っているのか無意味なしゃれだが、頭の中ではいつもこんなふうに、話の本筋とは別に言葉を無邪気に味わっているのだ。
「ノスタルジー」から「ノスタルじいや」、「サンタクロース」から「三択ロースハム」「鬼平犯科帖」から「鬼平ハンカチ落とし」・・・・・こういうことをしばしば思いつく。しゃれを言う相手もいないから、なんとなく一人で味わって忘れるだけだけれど、こういうささやかな言葉の娯楽で、この世の退屈からちょっとだけなぐさめられていないだろうか。あなたも。
(2005・10 「かばん 新人特集号」掲載用の鈴木有機評を書いていて、本筋を大いにはずれ、削除した部分)
納豆の糸だけたべて生きてけるわたしたち無敵 鈴木有機
これは、ええと、何から話したらいいかなあ。
歌会などでちょっとコメントするとしたら、短くまとめられないで困りそうだ。
私たちはたいへん弱い。無力だ。直接的に勝てるものなんてすごく少ない。力及ばぬもの、コントロールできないものばっかりだ。そんなにも無力なのに、わずかばかり持っている力は、何が悪だか善だかわからないまま、いつのまにか、いろんなものに加担させられてもいる。それを免れることができない、という意味でも無力だ。弱い。
それでも、あるていど力のおよぶ世界に住んではいる。それは努力やらなにやら自分で築きあげたものがあるからで、そこばっかり見ていれば、無力感を忘れていられる。しかし、そんなものはもろくてわずかだし、そういう頼れる実績がほとんど思い当たらない人も多いだろう。ことに若者はそうだろう。
納豆の糸は、豆に比べたら軽視されやすい。豆は多少なりとも歯ごたえがある。ねばねばの糸にも何か不思議な栄養素がありそうだけれど、「糸を食べた」という気はしない。
その「糸」だけ食べて生きていけることを無敵と感じるのは、「実績」のない者の力にも力があるぞ、逆に「実」に頼らないぶん強い、弱点がないぞ、という気持ちではないだろうか。
さて、「納豆の糸」とは何だろうか。ふたつ思いついた。
ひとつは、インターネットのような情報の世界だ。目に見えない糸で大量の情報が発信され受信されている。個々の現象が納豆の豆で、それにまつわる情報が糸だ。いちいち目で見たり手でさわったりできない、確証が得にくいものに囲まれることに耐えられる。真偽のわからぬ大量の情報の中を、まどわされないわけではなく、まどいつつもどうにか無事に泳げるというのは、そう、まるで、ユーカリの葉がなくては生きていけないコアラに対して、ユーカリを思い浮かべるだけで生きてゆける新種のコアラのように、「無敵」だということではないか?
もうひとつは、感性に重点を置くということだ。
実績など何もなくても(年齢にも関係なく)私たちにはものを見聞きし感じ取る能力がある。私たちは世界の五感である。新しい感性で見聞されたものは、祝福される。
(たとえば、何を見ても「カワイイ」という少女たちを「語彙が少ない」と批判する声をときおり聞くが、新しい目で森羅万象をウォッチして「カワイイ」と感動するのは、新しい魅力の発見であろう。既存の価値観で見ればぱっとしないものも、「カワイイ」のヒトコトで祝福される。「箸が転がっても笑う年頃」は、世の中を祝福するという役目を担っているのかもしれない。ことに少女だ。仏像の腹もカワイイ。ハゲのおじさんもカワイイ。アジの開きの姿もカワイイと、すべてを祝福するために、街に散らばっている気がする。)
このごろの商品は、「実」よりも「感性」を大事にして宣伝する。たいしておいしくもない飲料に素敵な思わせぶりな名前がついていたりする。でも、商品のイメージは大事だ。同じ味なら、イメージが良いほうがおいしく感じる。そういうイメージ部分も、「納豆の糸」になぞらえられそうだ。
(家で買った飲料がすごくまずかったことがある。私は「まずい、インチキだ」と腹を立てたが、息子たちはそうでもなくて、「まずい、インチキだ」と言いつつ、おもしろがっている。商品名やパッケージにいだいた期待感みたいなものに価値をみとめているために、腹の立ち方が軽いようなのだ。私と息子たちの反応を見比べてそう思っただけで、大勢に聞いて回ったわけではないが。)
「○○の香りのドリンク」がちっとも○○じゃなくても、「○○の香りのドリンク」という趣向に感性が喜んだのであれば、その分だけ許そう、という考え方がある。「おいしそうだ」と心を動かす期待は、実現しなかったとしても価値があるのだ。宝くじを買う人たちは、期待を買っているわけだ。ポーカーで、ロイヤルストレートフラッシュになりかけてブタだった、という場合、ブタはブタにすぎぬと思う人もいるだろうが、「惜しかったな、わくわくした分楽しかった」と思う人も多いだろう。ババ抜きで、ババを一度も手にせずに勝つのと、ババを引きっこしてはらはらして負けるのとどっちが楽しいだろう。生きていることが楽しくなる要素は、形がなくても価値がある。可能性の発掘は、私たちをちょびっと元気づけ、世界をちょびっと祝福するのだ。
私は宝くじは買わないが、そういう価値観でものを考えるときがある。今気に入っているコートは、ポケットに小石が入っている状態で売られていた。そういう趣向である。なるほど、いかにも小石を拾って歩くシーンに適したデザインだ、と納得して買った。その小石がなければ、そう明確にシーンを思い浮かべなかっただろう。
幸い、そのコートは機能的にも問題なく、もう5年も着ているが、仮にすぐボタンが取れたりしても、私は「小石の趣向」の分だけ許しただろう。そういう価値、つまり、「実」じゃない部分の、感性で付加されている価値もまた、「納豆の糸」にたとえられないだろうか。
上記の例でぴんと来ない人がいるかもしれない。健康食品や健康器具はどうだろう。健康を支えるという本来の効果のほかに、自分の中にある「期待」にも支えられる面もあるだろう。「私は自分の健康のために金銭や努力を注いでいる」という今の小さな充実感。それは「明日の健康」なんかよりも切実に私たちを支える場合があるだろう。そういう目に見えない効果、つまり、「目に見えないが重要な糧となるもの」を「納豆の糸」と呼びたい。
ここまで大変長くなったが、冒頭の歌に対する解釈をまとめよう。
「納豆の糸」は不確かで目に見えないが糧になるものの比喩であり、「真偽」のわからぬ情報に対処でき、「実」が伴わぬ「感性」の充足だけでも、それを糧として絶望せずに生きていけるというのは、ひじょうな「強み」である。裏返しにいえば、(ユーカリの葉がなければ生きられぬコアラがその意味で弱いように)「真偽」がわからねば困るとか、「実」がないからといって腹が立ったり傷ついたり満足できなかったりするのは弱いということだ。
が、だからといってこの「無敵」は単純に自分を強いと言っているのでもない。真偽を見極めることの難しさ、「実」を得ることの大変さを承知しているゆえに、「真偽を見極めよ、実効あることに励め、それができて当然だ」という言辞のもろさもわかるのだ。「敵」は、「真偽」や「実効」の判別に力点を置いて私たちを拘束し、できない者を叱咤激励する、そういう「思考」なのだ。そういう点では「納豆の糸だけたべて生きてける」ことが無敵だと言っている。私はそう思う。
これを書いている間にも、世の中にはいろんなことが起こる。ニュースで、外国の大災害を見る。あちこちに収容されている重傷者だけでなく、軽症者がたくさん街を歩いている。その人たちを助けるための募金をしているが、なかなか有効な手立てがないようだ。
もしも今ここに、目に見えない災害が起こっていて、目に見えないけがをした人でいっぱいだったとしたら、私たちはその災害に気付くのだろうか。そしてちゃんと対処できるんだろうか。
「納豆の糸」だけで生きられる無敵の人たちには、そういう災害がちゃんと見えるかもしれない。立ち向かえるのかもしれない。
「はかどる雪」と「きしむ塩」 (読解の技術ノート1 2004・2・25)
(『短歌の生命反応』上梓後、「読解の技術ノート」として書きはじめたが、その後執筆活動を中断。このとき考えたことは後にふくらますことになる。)
0 短歌という事件
殺人事件というものは、何と何がわかったら解明したと言えるだろうか。
犯人の動機、被害者との関係、凶器、犯行の経過・・・。 この中のひとつ、たとえば動機だけがわかったとしても、事件は犯人の思い通りに起こるわけではないから、事件全容を解明したことにはならない。裁判 の判決文では、これらがもれなく確定されている。そうでないと事件は決着がつかないのだ。
短歌の場合には、事件は二重に起こっている。すなわち、作者と短歌の言葉が出会ったとき、それから、その短歌の言葉と読者が出会ったときである。
たとえば、作者が何のつもりで書いたかをつきとめたとしても、それは第一の事件の全容ではなく、しかも、作者と歌の言葉とのもう時効が来ている事件にすぎない。そこにばかり注目して、歌の言葉と私たち読者とのあいだに起きている、新しい事件のほうを見落としてはならないのだ。
読解者は、事件を捜査する刑事と似ている。さて、短歌と言う事件 は、何を明確にすれば決着したといえるのか。私にはそれがまだわからない。この「読解の技術ノート」のメインの目的は、私なりにその結論を出すことだ。そして、それを考える過程では、いろいろな読解の技術を試行することになろうかと思っている。
さて、捜査のはじめは、何に着目したらよいだろう。言葉の効果だろうか。
言葉の効果には、現実に裏付けられる場合と、言葉に蓄積されている用例の体験に裏付けられる場合とがある。
1 言葉の体験から裏付けられる例(傍受型)
まずは「言葉に蓄積された言葉の体験に裏付けられる場合」を例示しよう。
たとえば、「雪」のように用例の多い言葉は、作者が意図しなくても後者の効果を帯びやすい。次の例をみてほしい。
A 街にふる雪が塩なら輪転機はきっときしんできしんで 止まる 佐藤弓生
B りんてん機今こそ響け、うれしくも東京版に雪のふりいづ 土岐善磨
Aを見てBを見ると、ああBの本歌取りかと思って、ちょっとわかった気がするのだが、作者が本歌取りとして書いたかどうかはさほど重要ではないのだ。
なぜなら、このケースでは、本歌取りの効果をきちんと説明するために、「雪」という言葉の特質から解き明かさねばならず、それは本歌を知っていてもわからないかもしれず、逆に、必ずしもこの本歌を知らなくてもわかることなのだから。
言葉の中の「雪」は、言葉の用例の蓄積によって、現実の雪を越えたいろいろなイメージを獲得しており、ゲーム風に言えば、装備魔法アイテムとして歌に使われることが多い。その魔法のいちいちは別の機会に書くことにするが、そのひとつに、「はかどる」イメージがある。
(「雪やこんこ、霰やこんこ、降っても降っても・・・・ずんずん積もる・・・」は代表例)
★2011・1・23追記:万葉集の最後にあるこの歌を忘れていました。
新しき年のはじめの初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと) 大伴家持
(新たな年の始まりに降る今日の雪のように良いことが降り積もってゆきますように)
Bの土岐善磨(新聞記者だったことがある)の歌では、新聞社の人が、自分が携わった東京版を祝福するかのように降る雪を喜んでいる。
この「雪」は美しくめでたいだけではない。みるみる積もって世界を塗り替えるものだから、ことに新聞という世の中に影響を与えるものに似つかわしく、言葉が元気に降り積もってゆく感じもあると思われる。つまり「雪」が「はかどる」イメージを表しているわけだ。
重要なのは、土岐善磨の歌が「はかどる」歌であるのに対し、佐藤弓生は、逆に「はかどらない」歌を詠んでいることだ。
佐藤弓生の歌では、「雪が塩なら」という条件をつけて「輪転機が止まる」と言っている。そして、確かに言われてみると「雪が塩なら輪転機は止まる」ような気がする。なぜだろう。
ここで話は遠回りする。
「雪」のような頻出語句は、多様な応用法を持っているが、そのうちのひとつに、形状の似ているものにシフトするという応用法がある。
C 芥子のはなとほくに充つる雪の日に唇(くち)少しあきてねむるわがため 葛原妙子
この歌は、白い粉という接点から、「雪」=「芥子⇒麻薬」という連想を無意識下で引き起こし、雪の清浄さと相反するものを取り合わせている。
「塩」と「雪」の共通点は、白い粉であることと、清い感じ、言葉の上では「死」にからんだ用例が多いことだ。では、相反する点は何か。
現実に輪転機に雪や塩が降るわけではないので、数々の現実面の違いは省略し、言葉のイメージだけで違いを考えてみる。
「雪」は死だけでなく、生にも強い連想脈を持ち、雪を地上に降り注ぐ命のように詠む歌は枚挙にいとまがない。また、「雪」には無限性があって、溶けて天に戻りまた降ってくるものだし、さまざまな営みを鎮魂するかのように埋める一方、それは春の再生の準備でもあるという、生死の無限のサイクルにも関与する。
それに対して、「死」に関わりはするが、「塩」はもっと非生命的なイメージが強い。塩分の多い「死海」というものがあるが、そうでなくても、塩といえば粉末に精製処理された海である。海は命の源だが、塩は、命から水分を取り去り、水を足してももう海に戻らない最終的な命の姿だ。なきがらを精製したかのようなもの、それが「塩」なのである。
海が「なきがら」の塩味をおびているといえば、
D なきがらの海を抱へて内陸をはるかにゆきし塩の女われは 水原紫苑
があげられる。(あのしょっぱさは命の味だったのか。)
大変長い説明になったが、要するに「塩」は、ときに(いつもではない)「よみがえらない」「行き止まり」というイメージを帯びることがある。この項の冒頭の歌の「雪が塩なら輪転機はきしんで止まる」という指摘は、共通点の多い「雪」と「塩」を比較したことによって、雪の持つ「無限性」と塩の持つ「行き止まり感」という小さな違いをことさらに意識させる。そこから、「雪が塩なら、輪転機はきしんで止まる」ということに、ああ、そんな感じがする、という説得性が生じるのだ。
この歌は、「雪」と「塩」のこうしたイメージの違いについて、読者個々の側の言葉の情操に、応答するイメージが蓄積されており、読者側から裏付けがとれるゆえに成立しているのだ。それは、土岐善磨の歌が本歌であることよりもずっと重要だ。
さて、歌の言葉にこの効果を付与したのは作者なのだろうか。意図して詠んだ歌かもしれないが、そこまで意識にのぼらず、作者もまた、なんとなく「雪が塩なら輪転機はきしんで止まる」ような気がしただけかもしれない。
こういうケースは、作者の内にいる「言葉の情操さん」が、読者の内に棲む同類との交信を、いわば人間ごしに試みていると思ってもいいのではなかろうか?
だから、こういう歌タイプの歌、つまり、「言葉の体験から裏付けられる歌」の読解は、「言葉と言葉の交信を傍受すること」なのである。
2 現実に裏付けられる場合 (「○○券」的な兌換型)
言葉たちの表現力は、私たち人間が思う以上に、前項の例のような効果が大きい。
人間は感覚器官から得た情報を言葉に加工して、それを他者に伝え得るという手ごたえによって、何らかの事象の確証を強めてゆく。そして、それらの言葉の用例が蓄積すると、無意識領域で言葉が交信できるようになるのだが、そうなってしまうと、人間はそれを傍受する脇役になるのだ。
そこをうまく操るのも、言葉の使い手としての力量といえるけれど、それじゃあ満足できないという気持ちも一方にはある。作者と読者は直接交信できないのか?
人は、言葉で「自分が見たことや言いたいことを人に伝えたい」と思い、それが容易に「できる」と思いたがっている。だが、写真がない時代の動物図鑑の絵を見たことがあるだろうか。あのとんでもないキリンやサイの絵は、言葉で動物の姿の説明を聞いた画家が描いたものだ。言葉で実像を伝え、それを再現することなどほんとうは不可能であるとわかるだろう。
また、昔の人相書は、「ざんばら髪で額が狭く目がぎょろぎょろしている小柄な男」というふうな、人の容姿の描写であった。かなり明瞭 に像を結ぶ表現だから、あやしい男を見たらピンと来る程度に役に立つ。しかしそれでも、多くの「ざんばら髪で額が狭く目がぎょろぎょろしている小柄な男」が迷惑したこと は想像にかたくない。
言葉のこういう限界について体験的に知らないはずはないのに、なぜ私たちは「できる」と思うのか。
……おろかだから? いや違う。
学園祭の「アイスクリーム券」がアイスクリームと交換できるように、現物と単純交換しやすい言葉もけっこうあるからだ。
一般に蔓延する「言葉は現物と交換可能なもの」という安易な思い込みは、誤解として退けてもいいぐらいだが、言葉の勝手な表現力を封じる方法は、一応あるのだ。ことに「アイスクリーム券」のような単語のレベルなら、現物と単純対応する場合も多い。それらは、言葉の用例が少なく、無意識領域で交される情報が限られていて、人間が制御しやすい言葉なのである。
E 現場の天敵、ヤクルトおばさんの奇襲を受けてミルミルを飲む 増尾ラブリー
この歌は、歌会でかなり喜ばれ、「ヤクルトおばさん」という語によって話がはずんだ。「そうそう、ヤクルトおばさんってよく職場に現れるのよね」という具合に。
「この言葉はあのヤクルトおばさんという現物そのものを表し、それ以外の要素はまずない」という強い安心感。これは短歌の鑑賞だろうか、と思わぬでもないが、しかし、これも言葉のひとつの究極の 伝達力ではある。
この歌は全体として、現物交換方式に徹して書かれているので、読解はいらない(そうなのだ、現物交換方式の部分は、読んでそのとおりだから、読解の余地がない)のだが、この方法の究極性は見落とせない。この歌は、あえて、言葉たちが勝手に付加する表現性をできるだけしりぞけ、人間レベルでじかにわかりあえる現物を提示することに主眼を置いた歌なのである。
たまたま手近にあった冊子にこんな歌を見つけた。
F 12リットルのバケツを買った大いなる邪魔者として臨む地下鉄 棉くみこ
この「12リットルのバケツ」という言葉は、「ヤクルトおばさん」同様、現実のそれと明確に一致している。 この部分に限っては「アイスクリーム券」のように現実のものと1対1で対応するから迫真力があるのだ。
現物交換方式の歌を読むときの注意をメモしておく。
・歌全体としては、「世界に対する自分の違和感を表す」などと考えさせる ところがあり、現物交換方式を使っている短歌でも、早計に読解を打ち切れないことも注意すべきだ。
・ただし、このように「現物を想起させること」と、それが「作者が体験した事実であること」とは全く別である。この二つは混同しやすいが、言葉はどこまでも言葉であり、「アイスクリーム」という言葉は、「アイスクリーム券」と書いてある紙とも、本物のアイスクリームとも違うものであることを忘れてはならない。
・一首の中に傍受型と兌換型の表現が混じっているケースがたくさんある。それがうまく組み合わさっていて、表面上は現物交換方式で読者 をキャッチしつつ、実は傍受方通信で、無意識領域にも働きかけてきている。読解者がホームズになれるのはそういう歌だ。
3 飼いならしてあるレトリックの活用
今まで書いてきたことにあてはまらない表現がある。制御できるレトリックだ。
もともと無意識領域で効果を発揮した方法や表現が、意識化されてわかりやすくなった少し常套性を帯びているものや、ユーモアや理に訴えて意識領域で働くように誇張された表現はこれに入る。「アイスクリーム券」ほど直接的ではないが、「傍受」までしなくても多くの人にわかる。
常套性といってしまうと悪い意味にも聞こえるだろうが、言葉の作用はすべて利用可能であり、常套性もけっこう使える。たとえばEの歌の「天敵」や「奇襲」という表現 にはかすかな常套性があり、その結果、確実な伝達力があって、作者の意図どおりユーモアを伝えるのだ。
このようなものをもう少し、手近な冊子から探してみよう。
G 透明な絆創膏を取り出してあふれる前におでこに張るんだ 植松大雄
「額のケガから血があふれる前に絆創膏を貼る」という行動になぞらえている点は、直接現実体験を喚起する方法、つまり兌換型表現である。
一方、絆創膏が「透明」であることや、あふれるものを「血」と明言していないことは、「これは本当のケガではな」く、実はさほど切迫してもいないことを表している。このあたりは、無意識領域の伝達とまではいかないから、やや常套性のある伝わりやすいレトリックに入るだろう。
これらのことを総合すると、「目に見えない傷を、まるで額を割られるように受けて、その応急手当を心の中でしている、そういう比喩ですよ」と、かなりわかりやすく、ちょっと自嘲的ユーモアをこめて提示している。つまり作者が無意識に書いてしまう要素や、読者が無意識で読み取ってしまう要素はあまりない、説明しやすい歌なのである。
4 まとめのメモ
○歌を読解(鑑賞ではない)する場合は、事件のように、いろいろな要素を検証して、読解の言葉で言い表しなおす必要がある。
動機だけとか、凶器だけとか、部分的に了解できても不十分である。
何と何が揃えば事件が決着するかを、これから考えてゆく。
○作者のメッセージが読者に伝えられるという把握はまちがいであり、そのような情報のやりとりの多くは、言葉の性質上、もともと不可能である。
○歌は二重の事件であり、重要なのは新しいほうの事件である。
二重の事件
1 作者と歌の言葉が出会って歌が成立する
2 歌の言葉と読者が出会って何らかの影響を受ける
○言葉の表現から生じる効果を3種類に分けた。
1言葉の体験から裏付けられる表現(傍受型・無意識領域で効果)
2現実に裏付けられる表現 (兌換型・意識できる)
3飼いならしてあるレトリックの活用
(ユーモアや理に訴える比喩や、もとは無意識領域で働く表現だったが、かなり意識できるぐらいに使い込まれているわかりやすい比喩など)
○上記1は、作者がたいてい無意識であり、読者も無意識に受け取るため、第一の事件も第二の事件も不明瞭で、見落とされることが多い。
上記2は、現実の事象と兌換的であり、作者も読者も認識に違いが少ない。
(12リットルのバケツは外国語に翻訳しても、迫真力は損なわれない。)
上記3は、かなり明瞭に伝達できる要素であり、ある程度、言葉の表現に接し慣れている読者ならば、第一・第二の事件の認識上の違いはさほど生じない。
○したがって、読解は、1・2・3の要素を見定め、1を見落とすことなく、2・3とあわせて、総合的に歌を分析する必要がある。
空と身体 他 (読解の技術ノート2 2004年ごろ)
(『短歌の生命反応』上梓後、「読解の技術ノート」として書きはじめたが、2まで書いて執筆活動を中断。)
1 空と身体 似ていない比喩
そらのはなはなよりかおのはがれおちはがれおちたるかお わたくしは 新明さだみ
自分は空にある花から剥がれ落ちた花びらならぬ「かお」である。空からお面が花びらのように降ってくる美しいアニメのような不思議な光景だ。
空に所属していたものが地上に落ちたという自己イメージを語る歌はよくあり、雪や桜が空からもたらされるあえかな命の比喩になることはしばしばだ。ただ、雪や花びらはどれも似ているが、顔は千差万別のものであることが、この歌の特別なところだ。
もうひとつ、このごろ注目していることに、外見的または常識的にまったく違うものを、比喩で結んだりだぶらせたりする歌が増えてきたというのがある。この歌でも、空が、植物のイメージ、動物のイメージと重ねられている。以前はこういう方法にちょっと抵抗があったのだが、今ではすっかり慣れてしまった。この歌を視覚化するならば、空は平面樹木であり、たぶん平面に貼りつくように花が咲き、その花びらが乾くと「かお」が完成し、花が散るようでなく、動物の皮膚の新陳代謝のようにはがれて落ちてくるのだ。つまりこの空は、従来の無窮のイメージに、異なる生命形態が混ざったイメージが重ねられているのである。
九月号には空の歌がいくつもあり、空と身体の出てくる歌は他にもあった。そのなかに、顔の反対側である後頭部が出てくる次の歌を発見。これはまたずいぶん楽しい偶然だと思うのであげておく。
おーいそこの後頭部たちが青空を見上げるような一語放てり 棉くみこ
こちらも面白い歌で、ことさらに後頭部というせいか、真ん中が禿げている後頭部を(笑)思い浮かべるが、それはどうでもいい。
さて、一語を放ったのは誰か?後頭部たちとは下を向いている人だろうが、空を見上げさせるためには、上から呼ぶのでなければならぬ。屋上から誰かが地上の人に呼びかける光景だろうけれども、それは空の視点でもある。空は人の後頭部ばっかり見ていたわけだ。「おーい雲よ」という詩があるけれど、「おーいそこの後頭部」は、ちょっと空になりかわって発したような一語なのだ。地上のものがいままでと少し違う方法で空と関わることが、前の歌と共通している。
顔と空、後頭部と空、この組み合わせは偶然ではないだろう。何か地上の命の意味を捉えなおそうという求道的な意欲が高まっている気がする。「かばん」の中だけの流行なのか、よそでも起こっている現象なのかは知らないが、他にも空が出てくる歌がたくさんあるので、その中から、この系統と思われる歌をいくつか拾っておこう。
あなただけ真正面からみてあとのすべてのものは見下ろしてる 空 杉山モナミ
月曜の朝の新宿まぎれないように半分だけ空のほう 本田瑞穂
リモコンを向けた空から降る雨のひとつひとつが空の記憶で 鈴木有機
どうやってあそこに置いてこれたのかわからないものばかりの空だ 鈴木有機
空の歌ばかり拾い読んだせいか、空という万人共通のものではなく、特定のただ一人の人とただ一人の自分の関係における問題をテーマにする歌群を読むと、頭が切り替わらない。
次の歌も、見た瞬間は、空から顔が降ってくる歌かと思ってしまったが(笑)、前後の歌との関連から、対人問題の歌だとわかった。
怖くないこわくないのはあたしだけ誰の面影かさねられても 溝井亜希子
恋人に他の人の面影をかぶせるのは、ジュディ・オングのヒット曲の歌詞にあったぐらいで、珍しいことではない。この歌がおもしろいのは、「誰かの面影を重ねられること」が怖いか怖くないかのギャップを問題にした点だ。
そういえば、先にあげた、自分を空から降った顔と捉えた歌のような歌群では、発想の根底に怖い要素があると思うが、怖さを問題にしたものはなく、そもそも世界の恐ろしさを受け入れつつ書いているようにも見えた。
人間どうしだったら空と対峙するほどには恐ろしくないはずだが、人はどう寄り添っても同床異夢。相手の夢の中で、自分が彼の過去の女性とか母親とかの顔に取り替えられてもわからず、それが嫌であってもやめさせられない。しかもお互い様である。そういう底のない隔絶の実感は恐ろしい。
恐ろしいのが普通なのに、「怖くない」というさらに深刻なレベルに「あたしだけ」が進んでしまった(彼はまだ普通に怖がっている)という歌だと思う。
何も見ない目
従来、太陽や月や星などの天体は、しばしば地上の失意の者を見守る「目」の役目を負って短歌の中に描かれてきた。しかしこのごろ、天体の出現率は少し減って、そのかわりのように、なにも見ない別の目が描かれるようになった気がする。次の歌はどうだろう。
泣くだけの理由もみつけられなくて排水溝に赤い渦巻 矢野伎理子
連作として他の歌と合わせ読むと、これは妊娠中絶の歌であるようだ。「赤」はそのときに流れた血であり、それが渦巻いて「排水溝」(排水口の誤植か?)に消えたあとは、「君の残したものはもうない」(別の歌に出てくるフレーズ)ということになるのだろう。
こういう歌の作り方は、「かくかくの出来事を婉曲に言ったのか」とわかった時点で、ふっと書き手の満足感と読者の満足感のバランスがつりあわなくなる感があるかもしれない。その出来事が深刻であればあるほど、批評がしにくくなるのもちょっと困る。
しかし、私はもとより事実に興味がないため、そんなことよりも、言葉の世界で起こっている、喪失感と渦巻きの結びつきのほうが興味深い。
「排水口の渦巻」は目に似ている。
妊娠中絶に限らずひどい喪失感によって、「泣くだけの理由」すら見失う、という状態に陥って、自己愛がすっかり失われている。あらゆる人に見放されても月や星みたいなものが自分を見守ってくれると思えるなら、まだ最低限の自己愛が残っているわけだが、今この人と向き合う目は、排水口の渦巻きという、全くこちらを見ないで底なしに引きずり込む目だけである。エネルギーの最後の残滓まで、血のひとしずくまで排水されてゆくのを止める力がこの人にはない。喪失感と渦巻きの組み合わせは、そういうことを暗示すると思う。
二極対比では把握できないこと
少し前までは、現実を二極の対比要素(明暗、善悪、強弱など)で捉えて対処するのが一般的だったけれど、その方法ではもはやこの現実に歯がたたないかもしれない。
鳥よ鳥よ静かにしていてくれないかお前の生命がやばいと知ってる 柳谷あゆみ
命がやばいとわかっている状態のものに対して、こちらがフリーズ状態になり、とにかく静かにしてもらいたい、という感じを描いたのか。いや、重要なのはそんなことではない。
この歌では、瀕死の鳥の弱さでなく歌の主体の弱さが描かれている。これに似た状況を考えてみよう。
たとえば溺れかかってしがみつく人を助けるにはものすごく体力や泳力が必要だ。訓練を積んだ人でないと助ける側も危ういから、「ちょっとじっとしていて」と言うだろう。この歌の鳥と主体は、これに似た関係であり、同じ状況(同じ水の中、同じ世の中、同時代など)にあって、この人も鳥も、危うさは程度の差でしかないのだ。
昔から、現実には決して、強いものが弱いものを助けるケースばかりではなかったはずだ。理屈で考えても、強者が強者を助ける、強者が弱者を助ける。弱者が強者を助ける、弱者が弱者を助けるという四通りがあるし、実際には強くも弱くもない人が大多数であるのに、なぜか私たちは、弱者が助けを求め、強者が保護するという二極的対比的把握に支配されがちで、それ以外の歌はわかりにくく、あるいは説明しにくく感じるのだ。その認識の不完全であるところを突くこうした歌が、これからいっぱい出てきそうだ。
よく似た二人の女性がいる構図 その無意識の常套性と応用
「かばん」九月号には、二人のよく似た女性が出てくる歌が二つあった。
(1)王様に麗しの姫ふたりいて神のこの世を愛して死んだ 大月晶子
歴史上の人物なのかもしれないと思ったが、その方面は無知なので、今はそれは考えないこととして、歌だけ読んでみる。
この王様はたぶん「神のこの世」を愛していないのだろうが、その代りにふたりの姫が父王に代わって神の愛をこの世に反射するような、そんな役目を果たして死にました、というふうなことだろうか。
この一対の左右対称みたいな感じ(そうは書いてないのに左右対称の図を思い浮かべる)は、神意のようなものを伝える構図ではないだろうか。
なんだかそういう無意識の常套性を帯びている気がしてならない。
次の双子の歌は、手がかりになりそうだ。
(2)ティーハウスに双子姉妹が並び立つ 午後の憂鬱職場の退屈 柳谷あゆみ
この歌は先の二人の姫の歌と構図が似ており、王または神のかわりに、「午後の憂鬱職場の退屈」というものがあって、神の「愛」だけが欠けている。
この歌でも、これが左右対称のように双子の姉妹がいることに何か効果がありそうだ。というか、その構図に効果がなければ、この歌は成り立たないだろう。
神聖なものの両側に(こま犬のように)一対の女性を配置するモデルは、神聖さの欠如の場にも一対の女性を配置するという裏返しの描写が成り立つほど、私たちの心の習慣となって形であるらしい。
こういうふうに、無意識に私たちが共有している心の習慣を私は「無意識の常套性」と呼んでいるわけだが、出所のわからない言葉の効果は、たいていこの無意識の常套性をうまく使って、裏返すなどの応用をしているのだ。
★いろいろ読解
相反する力
二人して帰れるようにちぎっては落とした二人の光る夜道だ 鈴木有機
ヘンゼルとグレーテルみたいだが、何をちぎっておとしたかあえてわからなくしてあるために、すごくだいじな、たとえば体の一部をちぎるように、かけがえのないものをちぎって落とすという暗示もある。
しかし一方で、「二人」が二度出てくることから、二人でいればそのかけがえのないものを無尽蔵に作り出していられるかのような、「二人エネルギー」とでも呼びたい、頼もしい結束感が強調されてもいる。
「歌が立つ」という言い方があるが、どっしり頑丈に作るのでなく、こういうふうに、別方向の力で引きながら立たせるという方法もあるわけだ。
言葉の引き出され方
ゆるしがたくそうめん長い夏至の午後彼は決して手紙を書かぬ 三好のぶ子
この歌でなんだか面白いのは、言葉の引き出され方、連想のつながり方だ。瞬間的にどこかが古典の歌みたいと感じる。
そうめんはゆるしがたいほど長いものかしらなどと理屈では考えるが、いや「ゆるしがたくそうめん」は「長い」を引き出す序詞みたいな感じで、意味をそう厳密にとらずに読みながしていいかもしれないと思いかえさせる。
また、あまり意識されていないことだけれど、「長い」と「手紙」は、現代短歌では縁語に近い。だるくのびたそうめん、(そういう感じで)めんどうなことなどしたくない夏至の午後(じゃないが)、決して手紙を書かない(そういうめんどうなことは絶対しない)彼(であることよ)。というふうに、現代語訳(?)を補わせるようなところが、味わいのひとつか思われる歌だ。
はずしのワザ
銀紙を圧せば飛び出すカプセルは蛾の産卵に似てさびしきを 杉崎恒夫
あっさり書かれてしまって気づきにくいが、この歌は、私たちの常套性をすいすいはずしている。はずし方やはずす匙加減は歌人の腕だ。
九月号の他の歌に出てくる「卵」を探せばわかるように、「卵」とさびしさを詠む場合、生まれないさびしさを詠むのが順当であって、生まれるさびしさを詠むのはひとひねり(もちろんそういう先行歌はあるのだけれど)、生まれ方のさびしさを詠むのはもうひとひねりしているのだ。
もうひとつワザは、生き物のさびしさを非生物のカプセルになぞらえるのが順当であるところを、こともなげに逆転させて、カプセルの動きのさびしさを蛾の産卵であらわしていることだ。これによって、万象のさびしさのなかで命や存在それ自体のさびしさを捉える視点に、なんなく読者を立たせる効果があるのだ。
逆流する歌
はがきじゅう文字で汚して戻らないことを伝えた、かった、蜩 小島 左
読み下してゆく途中までは、「はがきじゅう文字で汚して」(はあん?) 「戻らないと伝え」(ふむふむ)と思うが、そのあとからがすごく面白くなる。「た、かった」(何だこの「、」は。あれっ、もしかしてそのはがきは書かなかった?)蜩(え?え?)
そうか、この歌は逆なのだ。「蜩」以外の部分はすべてまぼろしだろう。蜩の声が、あたりいちめんを埋め尽くす。そのとき、(蜩の声のように)はがきじゅう文字で汚してゆくことがぼんやりと想起され、それは戻らないと伝えたはがきだと思い、ああいや、そういうはがきを出したわけじゃなかった、でもあのとき出すとしたら、そういうはがきがふさわしかっただろう、という回想モードになっている。
その回想さえも、「蜩」の声から引き起こされたまぼろしなんじゃないだろうか。
混乱を最大限に安全化
ねぇあったかいよねぇせっくすしようよ僕はさあ様となにがしたいんですかしるか 菊池謙文
面白い自問自答。
このような混乱歌はけっこう難しくて、混乱を最大限のまま歌に安全化するだけの冷静さがないと成功しない。「僕はさあ様となにがしたいんですかしるか」はすごくよくできていて、たとえば「僕はさあ様と何がしたいんだろうわからない」と普通の自問自答で書いたらつまらなくなる。
「ですか」「しるか」という極端な口調の違いは効果的である。歌全体にコントロールが効いて、この混乱は安全化してありますというひそかな証ともなっている。
よじり出し?
なめらかに陽射しをよけるよこがおが青む栗の木きっと西の木 佐藤弓生
九月号の弓生作品には、「赤いろうそく白いろうそく」、「死んでいるあるいは生きている」、「山には法話、海には生活」(詞書)という対句が3つある。輪がふたつ並ぶのを普通の対句とすれば、「青む栗の木きっと西の木」はぐるぐるとらせんによじれた対句だ。
らせんの力が「栗の木」から「西の木」へと言葉をよじりだして生成されたものか。これを相撲の決まり手みたいに「よじり出し」なんて名づけてしまおうか。
キャラ
最悪の眠り姫たち目を醒まし世界に「ぅ」をばらまいている 東 直子
小さな「ぅ」は、うめき、うなりなど、痛みや不快、悲しみなど、マイナス感情をこらえるときに口からもれる音だ。眠り姫は王子の接吻で目覚めて幸せのモデルになるけれど、それはアタリのケース。そうじゃなかったハズレ眠り姫たちは不満や悲しみにうめくということのようだ。王子に目覚めさせてもらえなかった眠り姫がモンスターになって目覚めるみたいだ。(こんなことまで歌では言っていないけれども。)なんにしても、ホラーじゃなくて、ゲームキャラを思わせるユーモラスな描き方だと思う。
「姫」という童話のような設定であることからも、ハズレのケースを生きることがそういうキャラとしての役目のように思われてくる。
九月号には、
「ほんたうは代アニに行きたかったのに」 短歌の中の人も大変だな 飯田有子
という歌があって、いやほんとうに、人間が自分の都合で作り出すキャラたち、ゲームの中で勇者のレベル上げのためにひたすら殺されに出現し続けるモンスターだの、駅前ですっぱだかでとんでもない格好をさせられている銅像だの、気の毒としかいいようがない。
大変なのは、短歌の外の人も同じだ。短歌の外の人は特に理由もなくこの世に生じる点では、ゲームその他のキャラとは違うが(いっそう哀れか?)、好むと好まざるとにかかわらず、何かのシナリオに巻き込まれずにこの世の時間を過ごすことはない。
そういえばパンドラの箱をあけたのはパンドラという女性だ。神は悪や苦しみが詰まった箱を用意し、彼女はそれを(開けるなといわれ)開けるように仕向けられた。作中人物やゲームキャラは作者の都合を担い、そして人は、いろんなアタリやハズレという神意としかいいようのないものを担っているわけだ。
心理モデル
この数字間違ってるよとつぶやいた主任の机に仙人掌ふたつ 望月由美子
「この数字間違ってるよ」という言葉、歌の主体に対するものかどうかはわからないが、つぶやきだから、誰にともなく言ったのだろう。仙人掌は、実際にはいろんな形があるけれど、この文字は二つの手をちょっと思い浮かべさせる。そしてその二つの手は、刺で相手を傷つけぬよう触れ合わない手だという連想をほんの少し促す。このことが、誰にともなくつぶやく主任の、対人関係の苦手さや距離のとりかたにそれとなく合っている。
この二つの仙人掌は、「同種のものが、対比的ではなく、しかし距離をとっているモデル」としてとりあえず覚えておこうと思う。
空の講義 レトリック発見 (レトリック発見ノート1)
2005年10月2日 高柳蕗子
(身心の不調のため、この2005年10月以降、約5年間、執筆活動中断した。 )
先日、ある研修会に仕事で出席した。一番の収穫は昼食のときの体験だった。研修内容もとっても有意義だっのだが、ここで教われることはすでに誰かがマニュアル化した「買える知識」だ。それに対して、その日昼食を食べながら感じた身体感覚と、そこから思考が走りだすときの脳の快感は、どこにも売っていないものだった。
昼になり、昼食が用意されているという別室にぞろぞろと移った。そこも会議室で、講義を受けた部屋と同じように全員が演壇を向いて座るように椅子とテーブルが配置されていた。
その部屋に入ったとたん目を奪ったのは、前方の窓だった。演壇はない。かわりに、カーテンが開かれた大きな窓がある。高層ビルだから、目に入るのは空ばかりだ。
みんな講義を受けるように座り、窓の空を見ながら昼食をとった。いや、こういうふうにうだうだ説明してもダメだ。ヒトコトで言おう。
宇宙船だ。
そう、まるで宇宙船だ。
前方は大きな窓で、見えるのは宇宙。クルーはみんな前を見て座っている。ほら、そういうのを映画なんかで見たことがあるでしょう。
空しか見えない大きな窓に向かって、教室のように人が並んでいるのは、日常あまり体験しないことだから、私の体感がすごく珍しがり、脳がはしゃぎはじめている。これは偶然にそうなったのだろうが、レトリックなんだ。実に含みが大きいレトリックだ。
研修は職場のメンタルヘルスに関することだった。
私の仕事は、職場の健康管理を推進して、職員が健康を損なわぬように事業を企画実施することだ。まったく柄にもなくそういう職業についてしまったけれど、職場として、人の命、健康を阻害する要因を取り除き、問題があれば対処することの必要性は十分承知している。「健康で文化的生活」を保証する努力は大切だ。その仕事の一端に携わっていることを、それなりに誇りとしてもいる。
一方、妙なことを言うようだが、「でも、究極では、命やら健康やらは、管理や制御をしきれないもの、人の手に負えないものであり続けてほしい」という思いが漠然とある。この努力は大事だし、同時に、この努力に終わりがあってはいけないという気持ちが・・・・・・。
この気分に「宇宙船」はマッチしていた。「宇宙船」を連想させた体感が、その漠然とした思いに形を与えてくれたのだ。
一見対立するものを両立させる、矛盾に見えるものを抱え込むというのは、難しいことでなので、それが実現している具体的なものがあると、ものが考えやすくなる。
宇宙船というのは、人類の英知と努力と勇気と犠牲の結晶だろう。だけど真にめでたいのは、そうやってクエストがクリアされたあとも、眼前に宇宙が広がっていることだ。クエストが終わらないことなのだ。
だから、人間の先生の講義のあと、空の講義を聴くように窓に向かって机を並べ、生命維持のもっとも根本的な行為である食事をする、ということが、二つの矛盾しそうなことを両立させる、ものすごいレトリックであると、私には思われたのだった。
午前中の講義内容は、職場のメンタルヘルス策として実にすばらしかった。
メンタルヘルスについての言説はいまだ役に立たないものが多くて、― 今ここにある現実に合わないことを平気で言い、それが実現しないの現場の努力が足りないみたいに、要するに現実のほうがいけないみたいに押し付ける人が多いんだよね。 ― 常日頃うんざりしていたが、この日の講義内容は具体的で、職場で健康管理をする人たちの実際の場面で役に立つように、実に繊細に考え抜かれてマニュアル化されていた。
メンタル病でつらい思いをしている個々人に、じかに効果が及ぶかというと、なかなか難しいかもしれないが、今まで何をしていいかわからなかった健康管理担当者が、有効な仕事に具体的に着手でき、その結果、全体として無用のストレスが減り、苦労を長引かせずに済む人が増えたり、いわれもない差別や不利益が回避されたりするだろう。
それほどに有益な講義だったから、そして、健康管理といっても、私は幸いにも医療職でないために、こういうことを遠慮なく考えることができるのかもしれない。
「でも、それですべてが解決できちゃうわけではない。ある問題が改善されたら、また新たな破れ目から人々は悩みだす。そういうふうでなくちゃ世の中が止まってしまう。一番悪いのは、世の中が止まってしまうことなんだ。個人がでなく、人類は、自分自身に困り続けなければ、たいくつで停滞する。問題の解決には、これで終わりか、終わっちゃうのか、というスリルがつきものだ。人も社会も、希望とクエストをいつも両手にしていなければ。」と。
やっぱり人には死が必要だ。病もケガも必要だ。RPGをクリアしてしまったあとのむなしい感じ。あれを人類が身をもって味わう以上の不幸はないんだと。
だからといって、人間自らがわざわざお互いに痛みや苦しみや殺戮を増幅する必要はぜんぜんない。この点を誤解しないでほしい。
人智でいくら解決しても新たな問題が自然に湧き起こってくる。そんなふうにクエストが尽きずにいることが「世界の恵み」だ、と言いたいのである。
命の大切さを裏付けるのは、命より大切なものだ。いや、そこまでは言うまい。命がなければ体験できないもの、味わえない何かを欲する気持ちである。生きていることが楽しいとか、生きていることに意味を感じるとか、生きていることの手ごたえと言ってもいい。
「死」がなければ生命は根本の緊張感を失うだろう。その緊張感は命の味わいには不可欠であるだろう。痛みや苦しみがなかったら、痛くも苦しくもない状態のありがたみを感じようがなくて、生きている実感も損なわれるだろう。
ところで、
「大きな窓の空に向かって、人々が講義を受ける形で座って、食事をする」という状況を、「レトリック」だと、はじめのほうで書いた。
こういうものはレトリックだと認識しにくく、その効果についてもほとんど明確には意識にのぼらないし、そもそも「レトリック」は、ふつう言葉の特殊効果を引き起こすべくしかける言葉のあやのことをさす。しかし、言葉でなくたって、視覚、聴覚、その他の体感刺激で何事か特殊効果を引き起こすことも、レトリックの一種だろう。
レトリックといえば、比喩や換喩、リフレイン、対句など、どちらかといえば目に見える部分で分類して解き明かすことが多いけれども、目に見えない方法や効果についてはあまり語られない。
そういう目に見えないレトリックやその効果をさがそう、解き明かそうというのが、私の長年の願いでなのある。
レトリックを見つけて解明したい。
なぜか? それが私にとってのクエストだからだ。私は全身全霊を使わないとたちうちできないような曖昧なものを相手にするのが好きであり、不十分かもしれないが、私にはそれができそうな気がする、つまり希望が感じられる。限られた生きている時間をそのように過ごして、世界を感受できることが、私の命に意味を与えてくれる。そのとき、私は生きていることが楽しいのだ。
空の講義は偶然のレトリックで、誰かがしくんだものではなかっただろう。言葉の世界では、書き手が意図的にレトリックをしかけるのが普通だが、実は意図せずに効果が出るという書き手にとってラッキーな偶然もけっこうある。
そうなんだよ。命だけじゃない。言葉だって、制御しきれないもの、人間の手に負えないものなんだ。だから頼もしい。だからめでたいんだよ。
※この日講義したのは、鈴木安名(やすな)という先生でした。
クエストのクリア (レトリック発見ノート2」
2005年10月2日 高柳蕗子
レトリックの話でひごろ残念に思っていることのひとつに、「わざとらしいコトバのワザ」と受け止められがちなことだ。実は、文脈の中の言葉の関係の操作で何らかのクエストがクリアされた、その方法がレトリックだという見方はあまりされていない。意味がなくわざとらしいのは、クエストを解決していないダメなレトリックなのに。
言葉どうしの関係だけではない。レトリックは、文意とは別に、書き手と読み手がコンタクトして親密度を高める手段だということも言いたい。
このことをもっとも良く知っているのは、お笑いタレントではないだろうか。
今日たまたまテレビで見た場面。
料理ゲームのような番組。和田アキ子(乱暴者っぽさが売りのベテラン歌手。トークも楽しいがもっと歌ってほしいなあ)と、青木さやか(強烈な毒舌が売りの新進お笑いタレント)が、敵味方として顔を合わせた。
これはそうとうな応酬が期待できるが、「乱暴」とか「毒舌」とかは、もとより視聴者を楽しませるために故意に強めた個性である。そんなことは視聴者も心得ている。
和田アキ子が先輩格だから、若手の青木さやかから挨拶を兼ねた戦線布告をする。だが、普通の挨拶ではウケない。視聴者は期待している。さあ、どうするんだと。
青木さやかはこのようにした。
「おう、アキ子!」と、まず、けんか腰で呼びかける。
続けて、けんか口調のまま、おっかない表情のまま、
「よろしくお願いします!」
と言う。
この場面では、攻撃と礼儀という、相反する「常套的」要素を両立させる必要があった。
○攻撃
毒舌家の青木さやかと強豪和田アキ子の組み合わせで敵対関係なら当然攻撃的な言辞を呈する
○礼儀
相手は芸能界の大先輩だから礼儀を忘れてはならない
青木さやかは、二つの要素を組み合わせたレトリックでクリアしたわけだ。出演者も、和田アキ子も、「そう来たか」という顔で爆笑した。視聴者の大半もそういう気持ちで笑っただろう。
ここにかすかな安堵もあることにお気づきだろうか。この笑いには、クエストのクリアを祝し、そのレトリックをたたえる気持ちが少し混じっている。つまり、場の状況を理解して「さあどうする」とクエストを共有して期待した視聴者は、その分「肩入れ」していたわけだ。
話は違うが、クエストのクリアといえば、読書でも「肩入れ」という現象が起こる。
読書好きが小説などを読んでいるとき、主人公はどうなるのかとスジを追うだけでなく、この場面をどう表現するか、と言葉の見せ場を求めて読み進んでもいる。言葉の見せ場には、多くのレトリックが駆使される。読者は、それが期待通りなら、「おお、この言い回し、すごくいいなあ」とか「さすが、うまい!」と満足して讃え、それが失速しないで最後まで書きおおせることを望む。読了のとき安堵を感じるのは、そうとう肩入れした読者だ。
文章でも詩歌でも、読者は文意だけを追うのではない。すっかり読み終わってすべてがわかってから、やっと感動していいですよというものではない。はじめの数行から「肩入れ」が始まり、さあ書け、もっと書いてくれ、そこだそこだと応援しながら読む本がよくあるではないか。その場合は、意識しなかったとしても、そのはじめの数行に、私に「肩入れ」させる何らかのレトリックがあったと思ってよいだろう。
それは、わざとらしいワザなんかではなかったはずだ。気がつかないぐらいに自然に、しかし一瞬で、私という読者とクエストを共有し、同時にクリアして見せたに違いないのだ。