人口に膾炙するってすごいことです。
この圧倒的な知名度の要因は何なのでしょうね。
この道や行く人なしに秋の暮
この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる
●「この道」の一語だけでネット検索してみると、
白秋の童謡『この道』と、それに関連する映画『この道』が、ずらーり。
(この映画は北原白秋と山田耕筰の友情の物語だそうです。)●じゃあ「短歌」+「この道」だったら?
--白秋は歌人でもあるため、結局、童謡の「この道」が多く出てきます。
つまり短歌で「この道」を詠んだ歌は、知られていないというわけです。
●なお、「川柳」+「この道」で検索すると、
「道」を題にした川柳句会の報告がいろいろ出てきますが、特に有名な句はないようです。
万葉集には「この道」が5首あり、そのうちの3首がこういうシチュエーション。
「この道」を読む歌はすごく少なくて、神祇と釈教の歌に出てきます。つまり「道」は教えを意味するものでした。
また、和歌は歌道と捉えられてもいて、「敷島の道」ともいい、「道」が和歌の道を表すこともありました。こんな感じ。
その後の近世の和歌は、
「この道」といえばほぼ「敷島の道」だったようです。
石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を
浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ
よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して
和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に
か青く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻
朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ
夕羽(ゆふは)振る 波こそ来(き)寄れ
波の共(むた) か寄りかく寄る
玉藻なす 寄り寝し妹を
露霜(つゆしも)の 置きてし来れば
この道の 八十隈(やそくま)ごとに
万(よろづ)たび かへり見すれど
いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ
いや高(たか)に 山も越え来ぬ
夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ
妹が門(かど)見む なびけこの山
(「万葉集」巻2 131 柿本人麻呂)
大意:石見の海は私にとってはかけがえのない所だ。その海辺の藻が波のままにゆらぐように寄り添って寝た妻を置いてきてしまい、 この道の曲がり角ごとに振り返って見るけれど、妻のいる里は離れ、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草がしおれるように嘆いているだろう。 その妻のいる家の門を見たい、なびき去れ、この山よ。
●大昔の柿本人麻呂の「この道」は、振り返りながら恋人から遠ざかる道で、空間距離に思いの強さが対立する抒情でした。
●平安時代から中世にかけての「この道」は、仏道など、神や仏に導かれる感じの道、そして、歌道「敷島の道」。
宗教や伝統などの裏付けのあるゆるぎない道でした。
●俳諧はデータを持っていないので、芭蕉の他にどういう句があるのかわからないのですが、時期からも句の内容からも、
芭蕉の「この道」は、歌道「敷島の道」に準じた俳諧の道みたいです。
ただし、「敷島の道」が伝統を戴く王道であるのに対して、
芭蕉の道には、先人も同行者もなく未踏の前途に向かう孤高の決意が感じられる。
それまでと違う、新しい「この道」だったのではないでしょうか。
●近代の白秋の「この道」は複雑。時空を超える不思議さと安らぎがあります。
これも新しいテイストではなかったか。
他の作者たちが「この道」という語を使うとき、
はるか芭蕉や白秋の作品から花粉が飛来して、遺伝子をもらっちゃう。
それは、「この道」という題詠に連なることと言い換えてもいい。
もし作者がそういう意識を持たなくても、歌や句が作者の了解なく勝手に受粉して、
勝手に題詠に参加しちゃう、なんてこともありそう。
「この道」の歌を集めてみると、作者が、というより歌や句が、
芭蕉や白秋に応答したり横並びしたりしているように見えてきてしまいます。
ものすごく たくさんあるので、本日の好みで選びました。順不同。
※「この道」ではないけれど、次の歌も有名。
※俳句と川柳はデータをあまり持っていないので、少ししかありません。
※私の勝手な空想だが、 中村重治の「この道は夜鳴きうどんの通る道」は、
芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」に対して、
「俺の道は賑やかで、あったかいうどんも食べられるんだ」と、作家としての主張をしている感じがする。
★「この道」にこだわって集めたが、「道」だけでも遺伝子は流入すると思う。
★また、芭蕉には「この道」の句と同じく有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」がある。「旅」も「道」の関連語句だ。
作者は意図しなくても、言葉たちは勝手に受粉するものなので、たとえばこういう歌にも、芭蕉の影響がないとはいえないかも。
2019年6月11日
高柳蕗子