「この道」って

どんな道?

この道や行く人なしに秋の暮

人口に膾炙するってすごいことです。

●「俳句」+「この道」でネット検索すると、

芭蕉のこの句ばっかり出てきます。

この圧倒的な知名度の要因は何なのでしょうね。

なぜこんなに有名に?

わっかりませーん。

ここから説明が続きます。

お急ぎの方は下の方まで飛んで、作品だけ見ちゃってください。

この道や行く人なしに秋の暮

この道はいつかきた道

ああ そうだよ

あかしやの花が咲いてる

詩歌の世界で「この道」といえば芭蕉と白秋

●「この道」の一語だけでネット検索してみると、

白秋の童謡『この道』と、それに関連する映画『この道』が、ずらーり。

(この映画は北原白秋と山田耕筰の友情の物語だそうです。)


●じゃあ「短歌」+「この道」だったら?

--白秋は歌人でもあるため、結局、童謡の「この道」が多く出てきます。

つまり短歌で「この道」を詠んだ歌は、知られていないというわけです。

●なお、「川柳」+「この道」で検索すると、

「道」を題にした川柳句会の報告がいろいろ出てきますが、特に有名な句はないようです。


「この道」に限ったことではないけれど

同じ語を多くの人が詠んでいても、 有名な作品は一握りだけです。

「この道」の歴史を探ってみる


●万葉集の「この道」

置いてきてた彼女を幾度も振り返りながら遠ざかっていく道

万葉集には「この道」が5首あり、そのうちの3首がこういうシチュエーション。

柿本人麻呂の長歌が知られています。(→)


●二十一代集

神祇歌・釈教歌に出てくるだけ

「この道」を読む歌はすごく少なくて、神祇と釈教の歌に出てきます。つまり「道」は教えを意味するものでした。

また、和歌は歌道と捉えられてもいて、「敷島の道」ともいい、「道」が和歌の道を表すこともありました。こんな感じ。

和歌の浦たむくる夜半の風にこそ猶此みちに神もなびくや

後鳥羽院 『後鳥羽院御集』1239


その後の近世の和歌は、

「この道」といえばほぼ「敷島の道」だったようです。

石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を

浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ

よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも

鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して

和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に

か青く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻

朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ

夕羽(ゆふは)振る 波こそ来(き)寄れ

波の共(むた) か寄りかく寄る

玉藻なす 寄り寝し妹を

露霜(つゆしも)の 置きてし来れば

この道の 八十隈(やそくま)ごとに

万(よろづ)たび かへり見すれど

いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ

いや高(たか)に 山も越え来ぬ

夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ

妹が門(かど)見む なびけこの山

(「万葉集」巻2 131 柿本人麻呂)

大意:石見の海は私にとってはかけがえのない所だ。その海辺の藻が波のままにゆらぐように寄り添って寝た妻を置いてきてしまい、 この道の曲がり角ごとに振り返って見るけれど、妻のいる里は離れ、山も越えて来てしまった。 妻は今頃は夏草がしおれるように嘆いているだろう。 その妻のいる家の門を見たい、なびき去れ、この山よ。

ざっくりなぞると、

●大昔の柿本人麻呂の「この道」は、振り返りながら恋人から遠ざかる道で、空間距離に思いの強さが対立する抒情でした。

●平安時代から中世にかけての「この道」は、仏道など、神や仏に導かれる感じの道、そして、歌道「敷島の道」。

宗教や伝統などの裏付けのあるゆるぎない道でした。

●俳諧はデータを持っていないので、芭蕉の他にどういう句があるのかわからないのですが、時期からも句の内容からも、

芭蕉の「この道」は、歌道「敷島の道」に準じた俳諧の道みたいです。

ただし、「敷島の道」が伝統を戴く王道であるのに対して、

芭蕉の道には、先人も同行者もなく未踏の前途に向かう孤高の決意が感じられる。

それまでと違う、新しい「この道」だったのではないでしょうか。

●近代の白秋の「この道」は複雑。時空を超える不思議さと安らぎがあります。

これも新しいテイストではなかったか。

有名な作品は、花粉を撒き散らす

他の作者たちが「この道」という語を使うとき、

はるか芭蕉や白秋の作品から花粉が飛来して、遺伝子をもらっちゃう。

それは、「この道」という題詠に連なることと言い換えてもいい。

もし作者がそういう意識を持たなくても、歌や句が作者の了解なく勝手に受粉して、

勝手に題詠に参加しちゃう、なんてこともありそう。


自分にとっての『この道』はこれだ

「この道」の歌を集めてみると、作者が、というより歌や句が、

芭蕉や白秋に応答したり横並びしたりしているように見えてきてしまいます。

ま、考察はここまで。

以下、いろいろな人の「この道」をお楽しみください。

ものすごく たくさんあるので、本日の好みで選びました。順不同。

■短歌

ひまわりの黄色をいくつかちりばめてシルクロードへ続くこの道

俵万智『サラダ記念日』

口笛はかさばらなくて好ましいすぐに気に入るだろうこの道

小野みのり「早稲田短歌」43号2014

ぎんぎんギラギラ日は落ちんとしこの道は東から西に真っ直ぐの道

奥村晃作

「この道はまみのためにつくられたんだ」(神様、まみを、終わらせて)パチン

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越しウサギ連れ』2001

「この道は八幡社には行きません」遠くラジオの演歌ながれて

松村正直『午前3時を過ぎて』2014

子を抱いて歩くこの道ぜったいに触れることないノブばかりある

江戸雪『椿夜』2001

「この道が晩年ですとしたばらをおされて私、私しぼむの」

笹井宏之『てんとろり』2011

この道を戻ってください早すぎることがまだあるの はるかぜに砂

柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012

この道を一夜で薄く、遠く、しろく染めるのが雪でなくて砂なら

杉谷麻衣『青を泳ぐ。』2016

今年初めてみんみん蟬の啼くをきく此の道を来て今朝はよかつた

岡井隆『銀色の馬の鬣』2014

執着はせねどこの道いづこかで間違へしままなるやもしれず

今野寿美『星刈り』1983

おのずからくそは天日に乾くなり この道ばたを掃くもののなき

※「くそ」に傍点

土岐善麿『連山抄』1971

人のゆく道とわがゆくこの道と天地万里のへだたりあらむ

九条武子

若き日に己が歌ひし『この道』のこゑに送られ棺去りゆく

徳高博子『革命暦』2001

この道は祖父も曾祖父も行きし道ゆえひきかえす息子と〈われ〉は

佐佐木幸綱『百年の船』2005

「この道は僕らの街の背骨です」そう言い乍ら花を植える人

酒井景二朗 作者ブログより

お父さんが穴にもぐってお母さんが石を運んで いたこの道に

東直子

冠毛にゆめの種をはこばせてこの道は夕暮れとなる

高橋みずほ『ゆめの種』2015

にはとこの芽を見て立てばこの道を人の話のきこえて来る

木下利玄


※「この道」ではないけれど、次の歌も有名。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

釈迢空 『海やまのあひだ』1925

■俳句

※俳句と川柳はデータをあまり持っていないので、少ししかありません。

この道の富士になりゆく芒かな

河東碧梧桐

この道に寄る外はなき枯野哉

河東碧梧桐

この道しかない春の雪ふる

種田山頭火

このみちのたつたひとつのびしよぬれの灯

富澤赤黄男

斑猫や このみちは 誰が 遁走(のが)れけむ

富澤赤黄男

動く為替この道を今日も牝鹿

田島健一『超新撰21』

この道の午前十時はすっぱきかな

阿部青鞋『火門集』

此の道やゆくてゆくてと蚊喰鳥

高柳重信『前略十年』

■川柳

この道は夜鳴きうどんの通る道

中村重治

この道をゆく中天に塔があり

坂根寛哉

この道のよしや黄泉に通ふとも

小島六厘坊


※私の勝手な空想だが、 中村重治の「この道は夜鳴きうどんの通る道」は、

芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」に対して、

「俺の道は賑やかで、あったかいうどんも食べられるんだ」と、作家としての主張をしている感じがする。

★「この道」にこだわって集めたが、「道」だけでも遺伝子は流入すると思う。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 斎藤茂吉

★また、芭蕉には「この道」の句と同じく有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」がある。「旅」も「道」の関連語句だ。

作者は意図しなくても、言葉たちは勝手に受粉するものなので、たとえばこういう歌にも、芭蕉の影響がないとはいえないかも。

幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく 若山牧水

2019年6月11日

高柳蕗子