高柳重信関係 蕗子エッセー

その他の重信関係雑文

あのときのパパ1~3 その他 ふくれっつら+笑 世間話のシナリオ

あのときのパパ 1 パパと見た寄席番組

叔母の「思い出すことなど」を読んでいると、私もひょっと思い出されてくるシーンがあります。

二度と思い出さないかもしれないので、機会をのがさずに記しておくことにします。


●二種類の笑い

昔むかしの話だ。小学校高学年だった。

おじいちゃんは寄席番組が好きだった。そして私は、大好きなおじいちゃんといっしょに寄席番組を見るのが好きだった。


おじいちゃんは、笑うべきところでちゃんと笑う。地下鉄はどうやって地下に電車をいれたのかとか、ぴっぴっぴーよこちゃんとか、何度きいてもおかしくて、私もいっしょに笑いころげた。


私がパパと暮らしたのは7歳ぐらいまでだ。そのあとはずっと別々に暮らしていて、たまにパパの家に泊まりにいくことになっていた。そんなあるとき、 いつもおじいちゃんと見ている寄席番組をパパといっしょに見た。


私は、おじいちゃんが今日は一人でテレビを見るのかと思うと、ものすごく寂しい思いをさせている気がしてならず、離ればなれでも、絶対に見なければならないと思った。これは思いやりというより、自分の寂しさをおじいちゃんに投影していたのだと思う。寄席番組に気乗りのしないパパを、「いつもおじいちゃんと見ているんだ。絶対おもしろいよ」と解き伏せて、強引に見たのだった。


私はいつものように、ちゃんと笑うべきところで笑った。おじいちゃんだって笑ってるはず。これを見ている人はみんな笑っているはずだ。


ところがパパはほとんどむっつりしている。

「今のおかしくなかった?」

と聞くと、決まり切ったネタだから予測できておもしろくないという返事だ。


そうなのかな、予測できたらおもしろくないのかな。

言われてみればネタ自体がおもしろいわけではない。でも、もうすぐ言うぞ言うぞ、そら言った、というふうに予測して待ち構える感じがたまらなくいのだ。タイミングよく笑うのが楽しい。 これは予測できるからこそおもしろいのになあ。そうじゃないおもしろさってどんなのだろうか?

結局、寄席番組はパパといっしょにむっつりと見ることになってしまった。しかし、一度だけ、ひょこっと牧伸二の漫談で パパがニッと苦笑した。ふうん、こういうネタをパパは笑うに値すると思うのか、と妙に納得した。(残念ながらネタは忘れてしまった。)


●月影兵庫は例外


では、パパが予測できる笑いに全くつきあわなかったかというと、今思えばそうとは限らなかった。


決まりきったものといえば時代劇もおおかた話が似ているが、パパは月影兵庫という時代劇だけは、なぜか好んでいた。

月影兵庫はヤイヅのハンジ(字は忘れた)というアワテモノといっしょに旅をしながら、問題解決屋のようなことをしている浪人だ。月影兵庫は猫嫌いが弱点ということになっていて、肝心なときに猫がでてきて窮地に立つことがしばしばだった。つまり話がばかにうまく運んでいるときには「そろそろ猫かな」と思うこともあったのだ。そしてパパは、毎度のことにもかかわらず、あの猫ギャグに、ニヤッとしてあげていたではないか。


だからパパは、「毎度のギャグ」につきあうという楽しみを、ぜんぜん理解しなかったわけではない。寄席番組のときは、たぶん、おじいちゃんが私に教えられないたぐいのことを補うために、ことさらむっつりしてみせたの だろうか。


それにしても、気になるのは月影兵庫。あのなんだか昔っぽい笑いのセンス。もしかすると、パパにとってなつかしいものだとか、つまり、パパが子供のときに見た何かに通じるような、ほっとする要素があったとも考えられる。


これには確証はない。が、もし当たっているとすると、パパにそのなつかしい子供時代の思い出を作っ てくれたのは、おじいちゃんしか考えられない。おじいちゃんは子煩悩な父親で、子供たちをしばしばお芝居などに連れて歩いたと叔母が言っている。(※)


想像してみよう。パパだってうんと子供だったときには、私がおじいちゃんといっしょに寄席を見てげらげら笑ったのと同じような経験をしたはずだ。その幸せな思い出は、 のちにいつも感性をはりつめている生き方を選んだパパの内でも、否定まではされていなかったのだと思う。

これは、けっこう重要なことなのではないだろうか。



※祖父の子煩悩ぶりは、叔母の「思い出すことなど 7」に書いてあります。

(2003・10・2 2005・8修正)


あのときのパパ 2 重信の母 芳野

(2003・9) 高柳蕗子

叔母の美知子の連載、「思い出すことなど」に登場した祖母芳野と父についてちょっと書きます。


芳野が70代の頃のことです。

おばあちゃんは、たまに用事ができてパパに電話できるのがとても楽しみでした。

いっぱい聞いてもらいたいこと、おしゃべりしたいあれこれがあるように見えました。


ところが、いざ電話をかけて、用件を伝えてしまうと、それらはひとつも言葉にならないのです。

いつも次のようなことを2度3度とくりかえして言って、電話を切ることになってしまうのでした。


「重信くんは、体が弱いんだから、遅くまで勉強してはいけないよ。」

(このときパパはもう50を越していたんですが、大学生の頃と同じ語りかけ方みたい。)


私はこのことを、

「親子というのは、親と子という立場で出会って、その立場で会話する癖がつき、

その役割のような言葉から出られないのだ」

と、長い間思っていました。


しかし、今よく考えてみると、もうひとつの面があったように思えます。


おばあちゃんはそのあと、こう続けるのが常でした。

「私より先に死なないでおくれ。

この年になって子供に先に死なれるほど悲しいことはないんだよ。」


おばあちゃんもパパも結核をわずらったことがあり、

おばあちゃんにとっては、「体が弱い」ということが、数少ないパパとの共通点でした。

「体をだいじにね。」

と繰り返すおばあちゃんの電話に、

パパは、

「おふくろさんもね」

と答えていました。


おばあちゃんは結局これを望んでいたんじゃないでしょうか。

「おふくろさんもね」を。


つまり、いたわりの言葉がほしかったのです。

パパは、ふだん、

そういう言葉をぺらぺら口にしないタチでした。

誰だってそうですが、特に大正生まれの男は、そうやたらには、いたわりの言葉を口にしませんよね。照れくさいから。

でも、「体をだいじにね」といわれれば、同じ病気をした仲だから、ごく自然に、「おふくろさんもね」とやさしく言い返せます。


おばあちゃんとパパの会話をよく思い出してみると、

おばあちゃんはけっこうこういうふうに、 気弱に愛を仕掛けていました。

それをパパはちゃんとわかっていて、さりげなく、やさしく応対していました。


パパは論客で知られている人なので、

こういう「やさしい息子」という一面もあったことを、書いておきたいと思いました。


あのときのパパ 3 祖父一良と父 最上を求める人

(2003・9UP 2005・8加筆)


叔母 美知子の「思い出すことなど 7」に出てくる

祖父(重信の父の一良)のどはずれた子煩悩は、私にも及びました。

私と父母の家庭は私が幼いときに崩壊しましたが、

祖父母が父母のかわりになったからです。


叔母と同じく、私も三省堂で本や文具を買ってもらいました。

おじいちゃんは、つねに売り場でいちばんいいものを買うのです。

子供だからとか、中くらいでいい、みたいな配慮を絶対にしない。

それは単なるぜいたくとは違っていて、

人に自慢するためにやっていることでもなく、

手に入るなかの最上のものを手にする、それをためらわない、

(けっこうためらうことがあるでしょう? 分相応のところにしておこうという

無意味な配慮をなんとなくしちゃうものでしょう?)

いわば「 反貧乏性」のような主義だったのかもしれません。


そういうわけで、私は、

クラスの誰も持っていない30色のクレヨンを持って登校しました。

自慢したわけじゃないけど、目立ちすぎて、

なんだかんだ級友にからまれてしまった記憶があります。

利発で、祖父にとって自慢の長男であった父も、

当然のこと、祖父から溺愛されていたわけです。

祖父の「反貧乏性」を父は受け継いだのかもしれません。

父も別の意味で最上を求める人だったのです。


私が結婚式の日取りを決めるとき、

「大安の日は式場があいてないから、縁起の悪い日でもかまわないかなあ」

と言ったら、父は、こういいました。

「結婚式は、縁起の悪い日にやってはいけない。

縁起が悪い日だと思いながらやるのはいけない。

ただし、縁起の良し悪しは自分で決めればよいのだ。

仏滅の日だろうがなんだろうが、

その日が自分にとって縁起が良い、と言えるなら

どんな日も縁起が良い。」


このあたりに、少し祖父の影響があると私には思えます。

父はこういうふうに「最上を求め」たのです。

周囲の人と見比べあって自慢するようなこととはぜんぜん違う。

できあいの価値観にしばられないで、

自分の価値観の中で最上を求めるという態度。

父は祖父と全くタイプが違っていたし、

大人になってからは、必ずしも仲がいいとはいえない時期もあったそうです。

けれども、他のエッセイにも書きましたが、

父は無意識に祖父の影響をかなり受けていたふしがあり、

ふだんは表面には現れないにしても、根底には、愛されて育った人特有の、

天真爛漫なところがあったと思います。

また、祖父は社交的で、会話の達人であったと聞いています。

父は、若い頃、かなり傲慢な青年であったらしいのですが、

一方で会話の達人でもありました。

俳句をはじめたのが父親である一良の影響だということはよく知られていますが、

それだけではなく、ずいぶん共通点があるように思います。

はて、私はどうかなあ。

ふくれっつら+笑 世間話のシナリオ

※父の「『書き』 つつ 『見る』行為」という文章に関する(ちっとも関係ない)蛇足コメント

2004年12月18日UP 2005年8月24日修正 未発表エッセイ

高柳蕗子


●世間話の口調


父の「『書き』 つつ 『見る』行為」という文章 は二つの興味深い点がある。ひとつはもちろんその内容だ。そしてもうひとつは、本筋と関係ない部分、文の中ほどに登場する、古ぽけたボール箱の発見者「高校二年の我が娘」、「漫画本に読みふけっている我が娘」というのは、 この私だという点である。

そういえば、戸田の火曜印刷の倉庫みたいなところで、古ぼけた冊子類を発見したことがあった。父のものだとわかったので、大きな紙袋に入れて、当時父が住んでいた代々木上原の家まで持っていったのだった。

「いまだに漫画本に読みふけっている我が娘」というあたり、漫画を読んでいたのは事実だし、私は現在も漫画が好きだけれど、それにしてもこの言い回し、パパったら、ずいぶんじゃないか。(ふくれっつら+笑)

確かに、私は、中学生の頃は漫画家志望だったので漫画をよく読んでいたが、 漫画じゃない本もけっこう読むほうだった。自分が見聞した興味深いことを父に「教えてあげる」ことが当時の私の喜びだったので、「COM」誌上に連載された手塚治虫の『火の鳥』の内容を父に話して聞かせたことがあるし、同様に、ほかの書物の話だってしたのである。さらにいえば、高校のときは 漫画家志望ではなくなっていて、当時はやりだったシンガーソングライターの真似事をして、ギターを持って歩いていたわけで、つまり、とりたてて漫画に読みふけっている と言われるすじあいはないのだ。

父は、当時だけでなく、その後もけっこう長い間、「娘は漫画ばっかり読んでいる」と言うのが癖になっていた。その口調は、まさにこの文の、「親が我が子の不出来をぼやく口調」という独特のカタにはまったものだった。「お宅のお子さんは、しっかりしていていいですねえ。うちの子などはまだまだ甘えん坊で困ってるんですよ」など、ぼやきとも謙遜ともつかぬやりとりを重ねるあのシナリオだ。――というわけで、 「いまだに漫画本に読みふけっている我が娘」という部分は、読者の多くも世間話っぽさを感じるだろうけれど、当人である私には明らかに世間話なのである。

●会話スキルとしての世間話

挿入された漫画好きの娘の話は、ただのエピソードではない。こういう「世間話」のシナリオはたくさんあって、たとえば列車でしばらく同席する人と雑談をして時間をすごすなど、見ず知らずの人とかんたんにうちとける手段として、昔は多くの人が修得していた。文章のなかでこれを使えば、読者とすばやくうちとける効果がある。そもそも、エッセイでも論文でも、見ず知らずの人に何事かを伝えることが目的だ から、父は他人と手っ取り早く友だちになる「世間話」という方法を散文に応用し、そうやって築いた読者との接点を足場にして、このあと、より説明しにくい本題へと話を転じてゆく。

と、こう言ってしまうと、ものすごく計算づくの文章と思うかもしれないが、絶対にそういうことではない。父は、コミュニケーションを楽しみ、誰とでもすぐにうちとけることができた 。「世間話」のようなものが好きであると同時に、そうした会話のスキルに通じてもいたのである。

俳句に難解な語が多いために、気難しい人だと誤解されやすく、また、言葉を探求する人だというと、じゃあ人間嫌いなんだろうと想像されがちだが、父はちっとも気難しくなかったし、ひとりひとりの人間を尊重するという点では、たぐいまれといってもいいほどであ った。散文において使われているさまざまなレトリックは、読者に対して誠実に自分の考えを伝えるためのものであり、強烈な皮肉の部分でさえも、誠実な皮肉なのである。父は、世間話ふうにエピソードをつづりながら、読者との接点ができる手ごたえを純粋に楽しんだに違いない。

●世間話は半アドリブの寸劇

「世間話」のシナリオは、いつのまにか訓練されて演じることができるようになっている「寸劇」である。

以前、老人ホームの廊下で、実にやさしい顔立ちのおじいさんとすれ違った。

「いい天気だねえ」と、おじいさんは親しげに言った。

しかしその日は台風が近づいていて、廊下の片側に並ぶ窓は、ザアザア降りの雨粒が流れ下っていた。このときは返事に詰まってしまったが、少々曇っている程度だったなら、「さわやかですね」とかなんとか、即座に返事ができた思う。だって、これは言葉の握手みたいなもので、「いい天気だね」と言われたら、何かしら肯定的な返事をすると決まっているからだ。

こどもは、周囲の大人の会話の中に、こういう半アドリブだけど型にはまっているやりとりを聞き分け、暗黙のうちに、ほとんど意識せずに、その演じ方を覚える。(ただし、私は父と違って、そういうことが苦手だ。修得の度合いは個人差があって、「世間話」の達人もいれば不器用な人もいる 。こうしたシナリオの存在すら知らない人までいるようだ。)

ところで、私と父はときどき、次のような寸劇を楽しんでいた。

* * *

――父とお客さんが何かの本の話をしている。

(そのとき私はたまたまそこにいるネコ程度の存在)

私「あ、知ってる。その本、私も読んだ」とさりげなく話に割り込む。

パパ「へー、ふーちゃんもけっこう難しい本を読んでるんだ」(すごく意外そうに言う)

私「んもー、パパったら、ひどいなあ」(ふくれっつら+笑)

* * *

つまり、

「父が娘をちょっと見直す。

娘は、いまさら気づいたかというように、ちょっとふくれてみせる」

という形の寸劇である。これはまるで、幼児とのこんな会話を思わせる。

「おや、えらいね。一人でトイレに行けるのかい」

「当たり前だよ!」(と、ずっと前からそうだったように胸を張る)

●「父は全能の庇護者」という〝ごっこ〟

こういうやりとりを今思い出してみると、「パパは私のことをなんでもわかるべきなんだ」という思いがあった。高校生ぐらいのときは誰でも、精神的に急成長 をしたり大きな変化がある。それを親に逐一知らせる必要はなくて、隠し事が多くなる時期だ。逆に言えば親が私の変化に気づかなくても文句は言えない。だのに私は、父がちょっとでも無理解だと、「パパったら、わかってないんだからー」と、ふくれ てみせる権利があるような気がしていた。

要するに、パパはなにしろパパなんだから、私のことを全部わかっている全能者で、私のためにそういう人であり続け、どこまでも私を庇護しなければいけない。それはパパの役目だから、過失があれば、私は「ふくれっつら」という形で不平をあらわしていいのだ、・・・・・・というふうになぜか感じていた。

こう書いてしまうとおそろしくわがままな思い込みに見えるが、これは無意識の〝ごっこ〟だったのではないだろうか。暗黙に「パパはふーちゃんにとって全能の庇護者」としておき、チャンスがあるたび「ふくれっつら+笑」という寸劇を二人で演じて、楽しんでいたのではないか。

●いつもと勝手が違う・・・

父が私を見直したといえば、一度だけ違うパターンがあった。歌集『ユモレスク』 の草稿を見せときだ。

「こんな身近に、こういうものを書く者がいたとは。それがまさかふーちゃんだとは」

これは絶賛というべきだ。いつもの寸劇とは比べ物にならぬ口調で 、父は驚いてみせた。 よほど予測外のことだったらしい。つまり、「いつのまにか漫画を卒業したね」みたいなレベルにおさまらない出来事であり、いつもの楽しい「見なおしたよ」シナリオ を突き抜けてしまったのだ。

『ユモレスク』草稿は私にとって自信作だったので、100パーセント父の口調を信じたかった。が、こうなるとかえって、妙に引き算をしてしまう。

パパにはけっこう親ばかな面があるし、けっこう酔ってるみたいだし、パパは人をほめて励ますの が得意だし、などと余計なことを考えて、結局は「半信半疑」にまで信頼性が落ちてしまった。

そして、何にもまして心地悪かったのは、最後をいつものように私の「ふくれっつら」でしめくくれないことだった。

●対等になってしまう?

父は、私の短歌をほめたあのとき、ちょっとの間だが、全能者をやめた。父が子供に全能者でいられるのは、子供が掌の上にいるからだ。

「まさかふーちゃんが」

と、掌の上を超えたことを本気で驚いた分だけ、パパは全能者でなくなった。

詩歌の作り手で大先輩というような立場から驚いたならば、そこには、まかりまちがえばふーちゃんがパパと対等になるかもしれない、という恐ろしい可能性 が、ほんのほんのわずかだが含まれているからだ。

当時の私(すでに三十歳近かったにもかかわらず)は、そんな対等をこれっぽっちも望まなかった。 ・・・・・・パパの予想を超えるものなんかになりたくない。そんな変ちょこりんなことは嫌だ・・・・・・。

いつのまにか、父の句を読解するなどという、かつての私なら冒涜と思っただろうことを恐る恐るするようになってしまったが、

「あのときパパがあんなふうにほめたから、こんな変ちょこりんになったのよ 、パパのせいなのよ(ふくれっつら+笑)」

というおかしな世間話を、ときどき、心ひそかにしてみる。

あのときだけ私は父の予想を超えたけれど、二十年過ぎた今の私は、あの瞬間に父が期待しただろう範囲のなかでは、たいした実績をあげていない 。このバツの悪さをなんとかできるシナリオなんてあるんだろうか。

追記

その後、いつのまにか、上記のようになにやらうだうだパパを意識したり思い出したりすることがなくなった。

昔の私が聞いたら驚くだろうが、私はもうぜんぜんパパを必要としなくなったし、そのように考えてもさみしいと感じない。