黄緑色の

ものといったら?

「黄緑」を詠む短歌

「黄緑」という色は、比較的新しく短歌に詠まれるようになったようだ。

近代の歌では見かけない。現代の歌でも比較的新しい傾向の人が詠み始めている。

さて黄緑のものといったらまず思い浮かぶものは何だろう??

風邪が悪化したときの鼻水?

小鳥の糞?

な、なんか汚い。

まあ、無難なものとしては、

20世紀梨、黄ニラ、インコ、菜の花畑

などでしょうか。

汚いものをまず思い浮かべてしまうのは私が変な奴だからでしょう。

でも、黄緑が汚いものを連想させるってことは、

「黄緑」の詠まれにくさと多少関係があるかもです。


本日の闇鍋データ133796

うち短歌94296、俳句26246、川柳ほか13254

「黄緑」(黄緑、きみどり、黄みどり、キミドリ)を詠み込んだ作品は、短歌25首。

俳句川柳はありませんでした。

黄緑色のものといったら、それかよ……

女の腹なぐり続けて夏のあさ朝顔に転がる黄緑の玉

ルビ:朝顔【べんき】

穂村弘 『シンジケート』

黄緑色のものを詠む歌ピックアップ

きみどりのごむてぶくろでせえたあのしゃぼんをそっとつみとるかんじ しおみまき (出典調査中)

「みえるものが真実なのよ黄緑の鳩を時計が吐きだす夜も」 穂村弘 『シンジケート』1990

きみどりのマフラー濡らすしろいもの見つめているね それはゆきです 村上きわみ(出典調査中)

黄緑のギンガムチェックのシャツを着て空の花瓶と妹を待つ 北川草子 『シチュー鍋の天使』2001


食べ物ではこれ一つ

祝福のかたちに寄せたきみどりのゼリーふるえる朝のケーキ屋 鯨井可菜子 『タンジブル』2013

もともと食べ物は短歌にあま詠まれない傾向がある。でも、果物の表皮、果肉の黄緑はあんまり抵抗なさそうなんですけどねえ。


なお、生き物はこれ1首しかなかった

黄緑の蜥蜴一匹石に居りその石も雨神チャックの断片である

吉田穂高(出典調査中)

黄緑の動物っていうと、インコやなんかいそうですが、見つけたのはこのトカゲの歌だけでした。

光や風のようなもの

ぶな若葉風のきみどりさんさんとふいにだれかを抱きたき日照雨

ルビ:日照雨【そばえ】

渡辺松男『寒気氾濫』1997

その他の光風水&植物の黄緑をピックアップ

幾万粒のわたしになりましたきみどりいろの春のあけぼの 三好のぶ子 「かばん」2000年5月

薄黄緑色を透かして流れゆく川に残ったままの片靴 東直子 「歌壇」2012・11

黄緑に深緑の巨躯重なって息絶え絶えに白亜紀の風 ナイス害 サイト「うたの日」より

ユリノキの黄緑の花散る下で涙を感染しあう少女たち 入谷いずみ 「かばん新人特集号」98年2月

ルビ:感染【うつ】

するすると樹を這ひあがる黄緑の耳いち枚に樹々は鳴るなり 前登志夫

ルビ:黄緑【わうりょく】


黄緑のまなざし!!

おじいさんと呼ばれた人が振り返るときの瞳の奥の黄緑

東直子 「現代短歌」2014年12月

黄緑を詠み込む短歌25首の中の3首が「目」を詠んでいた。これってすごく高率では?

現実に黄緑の目ってあんまりない。でも、なぜかイメージの中では黄緑と目が結びつきやすいらしい。

黄緑の目で念入りに閲されてわずかにしぼむ旅行鞄は 中沢直人 極圏の光』2009

きみどりの目をしたうさぎに一晩中「くぶくりん」つて囁かれてる 秋月祐一『迷子のカピバラ』2013

黄緑な気分や雰囲気

三つ編の左右のながさがちがうこと気にならないほど今日はキミドリ

北川草子 『シチュー鍋の天使』

黄緑で気分や雰囲気を表すことがある

左手で文字書く君の仕草青 めがねをはずす仕草黄みどり 俵万智 『サラダ記念日』

ルビ:青【ブルー】

雨の降る窓に映れる自画像の黄緑色に発光をせり 花山周子(出典調査中)


これからもっといろんな黄緑の歌が詠まれていけば、黄緑のイメージはもっと掘り下げられるでしょう。

2018・11・3 高柳蕗子

2018年11月5日追加

薄緑も調べてみた

私の近現代データベースでは、

「薄緑(薄みどり等の表記も含めて)」を詠む短歌は25首。「黄緑」とほぼ同じ数詠まれています。

■1 薄緑は古典時代から使われた

「薄緑」は古典にも用例がある。

峯の霞ふもとの草のうすみどり野山をかけて春めきにけり 永福門院『玉葉和歌集』

古典時代から用例がある語なので、短歌に詠み込む抵抗はあまりなかったらしい。

以下のように、近代歌人の歌にも出てくる。

うすみどりうすき羽根着るささ虫の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ 若山牧水『海の声』

砂畑のしき藁のうへにうすみどり西瓜の蔓の延びのすがしさ 小泉千樫

うすみどり/飲めば身体が水のごと透きとほるてふ/薬はなきか 石川啄木『一握の砂』

ルビ:身体《からだ》

脱線しますが、こういう歌を見ると、啄木って当時そうとう斬新だったんだろう、とあらためて思う。


■2現代の薄緑の歌をピックアップ

このからだうす緑なる水となり山の湖より流れたくぞおもふ 前川佐美雄『植物祭』

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子 塚本邦雄『緑色研究』

ひらひらと峠越えしは鳥なりしや若さなりしや声うすみどり 斎藤史『渉りかゆかむ』

硝子窓におほみづあをのうすみどりわが書きし手紙すべて死者あて 前登志夫

たよられているなにゆえに頼るこの空壜のうすみどりまぶしも 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

薬局のうすみどりいろあやめいろ彼方へおくる言葉、くちびる 東直子『十階』

水底に生るるうすみどり歯がすべて歯肉にならぶあの世界まで 柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』

雨雲はふたたび垂れて黄の花と喜びあえるうすみどりの壁 安藤美保『水の粒子』

蕗を煮る昼下がりには母と吾の春の色してそのうすみどり 俵万智『かぜのてのひら』

許せない自分に気づく手に受けたリキッドソープのうすみどりみて 穂村弘『シンジケート』

たづさへてことばすくなきはつ恋はうすみどりなる植田さざなみ 渡辺松男『雨(ふ)る』

言葉が世界を切り分ける

色の名称はとても多い。

同じ色の別名もあるし、大雑把な区分の名称や、微妙な違いで細分化した名称とか。

一方、色に限らないが、事象の側には区分はない。人間がものを認識するとき言葉で事象を切り分けるのだ。

(虹の七色というが、虹に7色を分ける境目があるわけではない。)


「薄緑」と「黄緑」は、現実の中では混じり合ってはっきり線引できない。

そして言葉を使う人間も、その線引を必ずしも明確には意識化できない。

でも、別々の言葉がある以上、人間・表現者の認識力が、そのように言葉で切り分ける「違い」を感じてはいるのだ。

詩歌の表現は、意味は同じでもよりふさわしい言葉を選択して表現に最善をつくすゆえに、その微妙な違いを反映する。


古典時代から用例があり近現代の短歌にもなじんで抒情的で美しい「薄緑」に対し、このごろようやく歌に詠み込まれるようになった「黄緑」は、短歌という詩型にややなじみにくい感じである。

そのせいか、表現に緊張があって、ありふれた表現に落着しにくいようだ。

「黄緑」はまだイメージが固まっていないけれども、だからこそ魅力のある言葉だと思う。

なお、「黄緑」は、私の手持ちデータの俳句川柳では用例がなかったが、「薄緑」は俳句にならわりに使われているようだ。

少しピックアップ。

【俳句】

こときれてなほ邯鄲のうすみどり 富安風生

白藤の揺りやみしかばうすみどり 芝不器男

バッタとぶアジアの空のうすみどり 坪内稔典

★川柳も以下の句を発見した

足に足絡めてみてもうすみどり 樋口由紀子

高柳蕗子