高柳重信 随筆

「読売新開」昭和四九年六月三〇日:『高柳重信全集Ⅱ』所収

蟬 高柳重信


画面で読みやすいように、段落ごとに空白行を挿入しました。

ここ暫らく、新宿の繁華街に出るには十数分のところに住んでいるが、それでも稀には蝉の声を聞くことがある。


なぜか、たいていは秋の到来を告げわたる微妙な抑揚の法師蝉の声で、まさに盛夏を思わせる油蝉の単調で重厚な声や、その身も張り裂けんぼかりに壮快で強烈なミンミン蝉の声は、ほとんど耳に届かない。


それにしても、このごろ蝉の存在に気付くのは、いつも声ばかりで、その腹の共鳴室を振るわせて健気に鳴きしきる蝉の姿を見ることは、まず、なくなってしまった。蝉の所在をつきとめようとして、その声の降ってくるあたりを見上げるだけの好奇心を、もはや磨滅させてしまったのである。


そんな私が、いまも蝉の声を耳にとめたとき、かならず思い浮かべるのは、きまって一つの光景である。夏の日盛りの道に、お揃いの大きな麦藁帽をかぶった七歳と五歳の少年が立っていて、一人は兄で長い黐(もち)竿を持ち、一人は弟で竹製の虫籠を提げている。もう少し仔細に眺めると、兄はきつい顔をして弟を振り返り、弟は首うなだれて兄から視線をそらしている。すっかり費ぼんで色擬せてはいるが、このとおりの構図の写真が、たった一枚だけ手許に残っていて、それが弟についての、私の唯一の記憶を支えている。


たぶん、この構図からは、ほんの少し前に黐竿の穂先をかすめて逃げのびた蝉の姿が、すでに過去形の彼方に消え去っているのであろう。そして、失敗した兄は、その不面目を糊塗するために、不用意に声を発したとか、高い足音を立てたとか、思いつくままに言いつのり、一切の責めを弟に帰しているにちがいない。しかし、弟は無言のままで何も抗弁せず、蝉の声ばかりが高まってくる。事実、昭和の初頭には、東京の小石川のあたりにも、驚くほど豊かな蝉の声があったのである。


そう言えば、私は、この弟の声や片言すらも、まったく記憶していない。この二つ違いの弟は、私に幼い記憶が始まって以来、いつも私にとりすがるようにまつわりついていた。思えば、祖父母や父母の眼の届かない戸外に出て、子供たちだけの不思議な社会に入ってゆく学齢前後のころ、兄弟ほど切実で必死きわまる絆はない。もちろん、兄は絶対の庇護者だが無類の暴君でもあり、弟は従順で忠実な家来だが厄介な足手まといであった。子供たちの社会に新入りしたぼかりの弟は、年上の子供たちにおびえながら、頼みに思う兄すらも、ときに恐れていたのであろう。


ともあれ、これは、この兄弟にとって、打ち揃って過ごした最後の夏であった。次の年の四月の初め、ほんの一週間ほど病んだきりで、この無ロな弟は死んでしまった。まだ八歳の私には、そのとき病名も知らされず、いまに至るまで、どこをどう病んで死んだのか知らないままになっている。死んでしまった弟が病院から戻ってきた花曇りの午後、私は泣きもせず、口もきかず、ぽかんとして家の門を出たり入ったりしていたような気がする。門の外には昨日と変わらぬ子供たちの元気な日常があり、門の内には死んだ弟が横たわっていた。そのどちらともつかぬところで、私はさまよっていたのである。


弟の死の二十日ばかり前、私は弟の泣き声を聞いて、ほとんど本能的な素早さで走っていた。小学校の私の同級生と、その家へ遊びに来ていたらしい金髪の少年が、なぜか弟の前後に立っていた。当時では珍しかった西洋人の少年である。それからどうなったのか正確には理解できないが、たちまち二人から石のつぶてを浴びて、その一つが私の額に命中した。派手に血が飛び散り、それが眼にも流れ込んだ。傷口を抑えた私の掌は、病院に着いたとき、ぴったりと血で貼りついて容易には離れなかった。私が身をもって弟を庇護しょうとした唯一の記憶である。


その夏のある一日、私は群馬県の母の実家にいた。そこは真言宗の小さな寺で、明確には区切られていない境内の周囲に木立や桑畑などが展がっており、いたるところに凄まじいばかりの蝉の声があった。


とつぜん、眼前の鐘楼の柱に蝉が飛んできて、私の眉の高さほどのところにとりつくと、人もなげに大きな声をあげ始めた。ふと笑いがこみあげて、いたずら心を刺戟された私は、たまたま手にしていた草刈り鎌を近づけると、その蝉は他愛もなく刃先に貫かれてしまった。そのあっけない死にぎまに驚きながら、一方で私は悔恨にも揺すぶられていた。そのつたない運命への同情は高まり、偶然の一匹だけが死なねばならぬ不幸と不公平を解消するために、ごのあたりに鳴く♯は、すべて同じように生き同じように死ぬべしと、しきりに思うのであった。


そのつもりになって眼をこらすと、八歳の少年の手のとどく高さにも、実に多くの蝉の姿があった。草刈り鎌を発止と打つと、いとも簡単に、次から次へと蝉は死んでいった。「お前ばかりを死なせはしないぞ」と声に出して言いながら、私の殺戮はつづいた。そして、いつのまにか、この春に死んでしまった弟の墓の前まで来ていた。


いま、私は、山川蝉夫という別の筆名を持っている。すでに俳句形式が知りつくしている幾つかの技術を組み合わせただけで、即刻に吐き出すような作品を、必要あって発表するとき、もっぱら、この筆名が使用される。



六つで死んでいまも押入で泣く弟

山川 蝉夫