書評 佐藤弓生 薄い街

交配装置である世界 ――佐藤弓生歌集『薄い街』

―― 「鹿首」1号 2011・4 掲載

パソコンで読みやすいように、空白行を挿入しました。

高柳蕗子

言葉のいきさつに注目

佐藤弓生の歌集『薄い街』はおもしろい。たとえばこれ。

こなぐすりぶちまけざまにほしのこえ こんな荒野に生みおとされて

粉薬を飲むといった生きる努力は、毎日間違いなくしなくちゃいけない。粉薬をぶちまけた瞬間に散ったのは、日々をクリアしてゆく自信だ。その衝撃を同等の迫力で受けて立ったのが、「こんな荒野に生みおとされて」という言葉である。「おお、かわいそうに」的なニュアンスだと思う。

一瞬で考えることは半端じゃない。「言葉で考える」のでなく、「言葉がひとりでに考えてくれる」からだ。ぶちまけた粉薬が星空に似ていたことが引き金になり、荒野の哀れな旅人を星がフォローしてくれたかのような言葉が飛びだした。この歌の魅力は、衝撃中和のためにひとりでに出てきた言葉のいきさつと、それによって、この世界に存在する無意識な心細さが表出していることである。


色分けで世界観をさぐってみた

こんなふうに一首ずつ拾い読んでも魅力的な『薄い街』だが、この歌集には「緑」というキーワードがあって、それを書かなければ書評にならない。序文「少年ミドリと暗い夏の娘」に、左川ちか(昭和初期のモダニズムの詩人。享年二六)の詩を引用し、緑色に象徴される生命力への恐れについて書いてある。そして、次の歌を、反歌の「始め」として添えている。つまり歌集全部が反歌という位置付けなのだ。

透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ

あら? 恐い「緑」を主体が憎む歌ではないんだ。「木々(緑)」が「透明」を憎むのを見よだって?

それにだ。「憎んで」が「透明を埋め尽くそうとするかのように」をたった三文字で言ってのけた「緑」のパワーを表すレトリックなのはわかるけれども、それでも「憎む」は穏やかでない。微かな〈過剰〉がある。(悪いという意味でなく、「微妙なプラスアルファ」という意味だ。)

佐藤弓生は、第一歌集『世界が海におおわれるまで』と第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』においても、「緑」へのこだわりを見せていた。第二歌集については、二〇〇七年夏に鈴木有機氏が「かばん」歌会で、色分類による考察を試みた。その資料は紛失したが、短歌と批評が振り回しあうがごとき刺激的な考察だったと記憶する。私も、『薄い街』に色分け攻略を仕掛けて、作者が意識しなかったところまで振り回し振り回されてみようじゃないか。


緑 あたり憚らぬ生命現象

「緑」を詠む歌。「つっぷした緑の大地まばゆくてなんて深いのこのきりぎしは」と、植物の生命力を映画のような大迫力で描いたものもあるし、こういうのもあった。

弥生尽帝都地下鉄促促と歩行植物乗り込んでくる

「緑」の特徴のいくつかは、間接的に示される。この歌は、地下に根を伸ばすはずの植物が地下鉄で移動するという、春の終わりの「異変」を詠んでいる。逆に言えば、ふつう植物は、根などを伸ばして繁殖し、移動はしないものなのだ。

この歌に構図の似た「首のない人びとあまた歩みいて中世期よりつづく回廊」を発見。延々と廻る首のない人々と、歩行して地下鉄に乗る異変植物のありさまは、人と植物の境界域の姿か。「緑」=植物と単純には言えないようだ。

「緑」は地上に芽を出せばあたり憚らず自由を謳歌する。「緑」を「出口」とする歌があった。

かげりゆく鏡にゆれるローションのほのかなみどりここより出口

鏡は異界につながりそうな不思議なもので、そこに映る「ほのかなみどり」に「出口」の気配を見ている。「緑」への脱出願望のほのかさに見とれつつ、この主体がいま「緑」側にいないことに注目する。そもそも鏡を見ることが「緑」っぽくない。そこで、非「緑」の特徴を考えてみる。


赤 死を意識する生命現象

赤い石鹸になりたいあたたかいあなたの手から溶けてゆきたい

赤い石鹸になって溶けるとは、血みたいだ。液状化して骨も残さぬ特殊な死。自虐的な陶酔感がある。植物は血が赤くないことから、このような「緑」と異なる生命現象を、仮に「赤」と呼んでみよう。

階段にうすくち醤油香る朝わたしがいなくなる未来から

この「うすくち醤油」、古写真がセピアに変色するような、血の変色をちらっと思わせる。醤油の匂いに、「階段」という境界である場の暗示が合わさって、別の階層に命が変転した未来に古びる自分の血の匂いを嗅ぎ取ったのか。

植物は死を恐れない。「赤」系の生命の陶酔は「死」を意識する。それに対して、「緑」系は「死」を意識しないで命に陶酔する、と区別できそうだ。

死んだら骨を残すといったことも「赤」にカウントしてみたところ、「頭」や「骨」に言及する歌がずいぶんあった。自転車という骨っぽいものが植物に愛されている(緑が骨をしゃぶっているようにも見える)歌があり、「緑」と「赤」は必ずしも敵対しないことに気付いた。

序文には「緑」への恐れが書いてはあったが、誰が誰を恐れているかといった関係を、早とちりしてはならないと思った。「緑」と「赤」の区別をしばらく忘れて読もう。


春に苛まれる

背後から乗られて吐いた春の気の これが亀鳴く声なのかなあ

毛穴おしひらかるる春おしなべて木々はくるしき声もつものを

「背後から」の歌は春画みたいだ。「亀鳴く声」は春の季語。聞くことのできない架空の声で、「亀鳴くをききたくて長生きをせり」(桂信子)などと詠まれる。「亀鳴く声」が架空の声であることから、「背後から乗」ったのも、目に見えないもの、「春」かと思う。春に乗られて吐いた春の気に、これが「亀鳴く声」かなという感想がやたらおもしろいが、この主体、「春」に愛されているのかどうか、「乗られて」の部分にレイプのような感じもある。よく似た歌「毛穴おしひらかるる」でも、「春」は抗えないものと把握されている。

なお、「声」の歌には次のものがある。

あとすこし、すこしで星に触れそうでこわくて放つ声――これが、声

「声」は「こわくて放つ」ことによって習得するものだという感受に、世界の苦界ともいうべき一面が見える。


青 永遠という生命現象

「透明を憎んで」の歌の憎しみ、「赤い石鹸」の歌の「あなた」に対する自虐、「背後から乗られ」の歌に見られる「春」への屈服。これを説明するために、もう一つの要素が必要だ。「声」つながりでこれはどうだ。

もう声が出ないわたしの頭(ず)の上をまたいでゆきぬ青空紳士

「倒れたる案山子の顔の上に天」(西東三鬼)と比べると、この歌のレイプ後のような凌辱感が鮮明になる。

「透明」「春」「空」のようなものを「青」と仮に呼ぶことにする。青は永遠を象徴する色で、「水鳥が首さしいれるところからむごいやさしい手をひらく水」の「むごいやさしい」という性質も「春」と似ているので、「海」のようなものも「青」に分類してもいいかもしれない。

『薄い街』では、この「青」をも、生命現象的に把握しかかっているふしがある。脱皮するのだ。「春」は永遠の時にとって脱皮の季節である。「春を脱ぎつづけるさくら歳月をはるばるこんなところまで来て」のほか、「夢を脱ぐ夢をみた朝あやうさはマンハッタンのはだかのからだ」というのもあり、「朝」も「脱皮」として受け止めている。

また、「青」には顔もある。空の顔や海の顔を詠んだ歌があり、顔は勝手に出て消える。他者と向き合うための顔ではなくて、自らの顔を見ることもないようだ。


交配装置としての世界

わかくさの妻わかくさの配達夫ゆきかう川辺から風孵る

この「配達夫」は花々を訪れる蜂みたいだ。この「交配」から「風」が「孵る」。この歌の生命感に、何かがひとりでに交配する性の仕組みの活気という面があると気づくと、一味違って見えてくる。修辞上「わかくさ」と植物化した「配達夫」や「妻」が、意識しないレベルで花と昆虫という異種のものの交配に似た行動をしていて、それが風(透明なもの。「青」系)を生みだす仕組みになっているのだから。

考える葦と呼ばれて遊星に六十億の性のそよげる

一首だけなら、知のアンテナを揺らし、生命を求めやまずに揺れる六十億の人間を詠んだ歌などと解釈するところだが、この歌には色が揃っていることに注目してみよう。「考える葦」という語の中で人間(赤)は植物(緑)と融合する。その葦の性が風(青)で「そよぐ」光景は、壮大な交配装置を見るようである。この歌集において世界は、生命たちの性的な調和で(むごくやさしく)営まれている。この世界把握が左川ちかへのオマージュなのだと思う。

(なお、「そよぐ」は「ゆれる」「ふるえる」と似て、古代の死者蘇生の呪文「ふるべゆらゆら」と縁があり、この歌集には「ゆれる」等が多く出てくるが、ここでは論じきれない。)


『薄い街』の「薄い」とは

手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街

最後に、歌集のタイトルにもある「薄い」を考えてみる。

手袋をはずした手の感触として書かれたのは「はがき」の「冷たさ」だが、下句の「薄い街」の「薄い」が、より「はがき」に縁が強い語であることから、「冷たさ」と「薄さ」を調整すべく、(アタマはしばしばそういうふうに不足や矛盾を補ったり繕ったりするでしょう?)「厚みがない、頼りない、濃度が薄い、薄味、薄弱、軽薄、縁が薄い、影が薄い、薄幸」などのイメージが曖昧にあふれ出る。

普通なら街は、色どりあふれ、活気と人情に満ち、幸多く暖かいほうが良い。が、世界のあの性的調和の活気に倦んだ感性には、その逆の「薄い」が、「どこかにあるはず」の保養地のように感受されるのではないだろうか。

ほんの一面だけを紹介したが、『薄い街』は、実に多様な鑑賞が楽しめる歌集である。さらに多くの観点から読まれることを望む。