歌で相手をやりこめた逸話も多く伝えられている。
ほとんど作り話だろうが、当意即妙の歌の技能がある程度は重視されたか、少なくともそういう話が好まれたことは確かである。
松永貞徳がある俳諧のグループの句に点料を取って点(評価して優劣をきめる)をしたところ、
評価が辛いと不平が出た。そこで、
三味線の糸より細き俳諧にてんとろとろといふぞをかしき
と、「点取ろ取ろ」と皮肉って言ってやると、連中も負けてはいない。
三味線の糸より細き俳諧にてんちんとろといふぞをかしき
と、 「点賃取ろ」と皮肉を返してよこした。
正月も間近、家康を浜松城に包囲した甲州勢が、こんな句を送ってよこした。
松枯れて竹たぐひなき旦哉
そこで、酒井忠次がこのように詠みなおして返した。
松枯れで武田首無き旦哉
「松枯れて」を「松枯れで」と一字濁らせるだけで、松は枯れないことになってしまう。
このように文字をほとんど変えずオウム返しにするのは、和歌の応酬にときおり見かける返しワザである。
『雲陽軍実記』によれば、毛利の大群に包囲されて水攻めにあっている白鹿城では、弱みを見せまいと、毎朝小高いところに馬を引出し、これみよがしに白米に灰を混ぜたものを水のように見せて振りかけた。
しかし、そのネタがばれてしまい、いよいよ合戦か、と両軍が思ったころ、毛利方から出羽中務少輔が部下三百騎と城の崖下に行き、
年経れば白鹿の糸も破れ果て毛利の木陰の露と朽ちなん
という矢文を二の廓に射込んだ。
これに対し白鹿城では神田弥左衛門が 、
安芸の毛利枝葉も落ちて木枯の中に松田ぞ色を増しけり
と詠み(白鹿城は松田将監の拠城)、佐貫大炊介が十三束三伏の大矢に付けて三人張りの弓で射た。
矢は出羽陣中を通り越し、熊谷伊豆守信直の陣中の若党の鎧の袖に突き刺さる。
これをきっかけに攻撃がはじまったという。
軍記物ではこういう和歌の応酬がひとつの見せ場になるようだ。
また、この種の物語は、ちょっとしたことでも、さも重要なことのように長々しく名前が書いてある(当時の読者には重要だったのかも)のがおもしろい。
その翌年、白鹿城の救援に、尼子義久らの大群が到着すると、城中から敵の吉川元春の陣に矢文をたてた。
元就は白鹿の糸に繋がれて引きも切られず射るも射られず
元春は早速熊谷伊豆守信直に返歌を命じ、
尼の子の命と頼む白鹿糸今ぞ引切る安芸の元就
と矢文で返し、合戦がはじまった。
前九年の役の終わり近いころの衣川の関。源義家は、逃げる安倍貞任に矢をつがえ、
衣のたてはほころびにけり
と歌いかけた。
衣の館は安倍氏の居城。「滅びる」を衣の縁語の「ほころびる」に掛けている。
すると、貞任は振り向いて、即座に上の句を付けた。
年をへし糸の乱れの苦しさに
義家は感心して矢を射かけるのをやめたという。
(有名な逸話ですが、これは後世に作られた話だそうです。)
その貞任は結局戦死し、弟の阿部宗任が捕らえられた。
東国の田舎者と馬鹿にした公卿が梅の花を示し、これは何と言うかと尋ねたところ、よどみなく歌でこう答えた。
わが国の梅の花とは見つれども大宮人は如何いふらむ
この場面は川柳に「ソリャハァ梅だんべいと言わせる気」などと取り上げられている。
更に、
上洛した伊達政宗に公家が、桜花を手折って「一詠を」と言ったところ、即、
大宮人梅にも懲りず桜かな
と詠んだとかいう話もある・・・・・・。
「事態を好転させる」にも書いた話。
賀朝法師(比叡山の法師らしい)が人妻のもとに忍んで通っていたところ、女の夫に見つかってしまった。そこで一首。
見投ぐとも人に知られじ世の中に知られぬ山をみるよしもがな
(露顕したからには身投げしたいが、それも秘密にしたい。人に知られていないような山を見つけたい)
夫の返し。
世の中に知られぬ山に身投ぐともたにの心はいはで思はむ
(お前が山に身投げしたって、俺の方はこの恨みを心の奥底の谷に秘めているんだぞ)
カッとなって拳を振り上げたようなときも、歌心のある者にとって、歌が返せないのは恥なのだ。だから腹立ちを抑えて歌を詠む。(と、うまくいくかどうか知らないが)間男のうまい作戦、的な話。
でも、この人は即座に歌を返して面目を保ち、間男は「まいりました」という他なかろう。
『万葉集』巻十六に歌で悪態をつきっこする例がある。
童べも草はな刈りそ八穂蓼の穂積朝臣が脇草を刈れ
(草刈りの子供、そこの草はいいから、穂積朝臣の臭い脇の下の草を刈れよ、ハハハのハ!)
と、平群朝臣が穂積朝臣の腋臭をあざわらう。
すると穂積朝臣も負けずに、平群朝臣の赤鼻をネタにして仕返しする。
いづこにそ赤丹掘る岳薦畳平群朝臣の鼻が上を掘れ
(どこだっけ、赤い絵の具の原料を掘る岳は。そうだ、平群朝臣の鼻の上を掘ればいいや、ハハハのハ! )
大分県海部郡宇目町には父母が鉱山に働きに出ているために、赤児の守をする「子守ナゴ」と称する奉公人がいた。
「子守ナゴ」たちは野原などに集まり、数人ずつ組を作って即興的な子守歌の掛け合いをしてうさばらしをした。それが「唄げんか」である。似た風習が他の地方にもあるという。
あん子顔見よ 目は猿まなこ ヨイヨイ 口は鰐口 閻魔顔 アーヨーイヨーイヨー
お前顔みよ 牡丹餅顔よ ヨイヨイ きな粉つけたらなおよかろ アーヨーイヨーイ ヨー
歌のけんかで済まなくなった例をあげよう。
『日本書紀』によれば、武烈天皇が皇太子時代に影媛という女性を娶ろうとデートしたとき、影媛の恋人である鮪臣がやってきて押しのけるようにして間に入った。鮪臣はそのころ国政をほしいままにしていた平群大臣の息子である。
太子は、鮪臣に向かって、
潮瀬(しほせ)の波折(なをり)を見れば遊び来る鮪が鰭手(はたで)に嬬(つま)立てり見ゆ
(潮の流れている早瀬の波の重なりを見ると、遊ぶように来た鮪のそばに私の妻が立っているのが見える)
と歌を詠み、ここから歌の応酬がはじまる。
長いので、歌意だけ書こう。
鮪「私の八重の垣の中に自由に入りたいとおっしゃるのか」
太子「腰に垂らした大きな太刀をいま抜かなくても、いつかは影媛と会おうと思う」
鮪「大君は立派な垣で媛を囲おうとするだろうがうまくゆくまい」
太子「鮪の柴垣は立派に見えても、地震があればすぐ壊れるだろう」
そして影媛に対して、 「琴の音に神が影になって来るという影媛、玉ならばあわびの真珠のようだ」
という歌をおくる。
鮪臣は影媛にかわって歌を返した。
「大君の帯の布が垂れる、そのタレじゃないが、たれか別の人に思いをかけることありませんのに」
これでついに怒った太子は、大伴金村と相談し、数千の兵を率いていって鮪臣を殺しちゃったのである。
『古事記』にも鮪臣のからんだよく似た話がある。
『日本書紀』は官選歴史書としてより記録性を重視して書かれたはずだが、編者の舎人親王のセンスなのか、
ものすごく大事なことのようにこういう出来事が記してあって、読み物としても飽きない。
歌でライバル対決をさせたい人が作った話だろう。
入定(思いをしずめ心を統一する。転じて聖人の死)する弘法大師(空海)に、伝教大師(最澄)がこう詠んでよこした。
空々と虚空の空に入りもせで心せばくも穴に入るかな
(虚空の空ではなく、心せまいことに、ただの墓穴に入るんですか)
すると弘法大師はこう詠み返した。
空々と虚空の空に入るものを穴と見るこそ心せばかれ
(虚空の空に入るんですよ。これが穴に見える人こそ心が狭いんじゃないの)
天皇の体を祓った人形七つを七か所の川で流す「七瀬の祓い」という行事があった。
そのうちの一か所の津の国の川で、かの有名な西行が麦粉を食べてむせかえっていた。
馬にのった侍がそれを見て、
この河は七瀬の河と聞くものをお僧を見ればむせ渡るかな
と、「むせる」を六瀬にかけて詠んだ。
この河は七瀬の河と聞くものをめしたる馬はやせ渡るかな
西行は、侍の馬が「痩せ」ているのを八瀬にかけてこう歌を返したのだそうだ。
こんなふうに、西行はこ のテの話の世界で人気者である。
東下りする西行が、熱田明神に
千早振る神も偽りあればこそあつたと聞けどあまり寒さよ
(あつたなのに寒いじゃんか、神様なのにウソはいけないですよ)
と詠んだら、神殿の奥から返歌があった。
西行は西へ行くべき人なれど、東へ行くはこれも偽り
「熱田というに寒きは如何」「西行というに東へ行くがごとし」という問答である。
源信の法談中に大雨になり、ひどい雨漏りで聴衆が立ち騒いだ。
そこで一首。
昔より伝へてきくも今見るももり屋は法の障りなりけり
(ったくもう、〝もりや〟は昔から法のさまたげになるね。)
雨もりの「もり屋」には、物武弓削守屋※が掛かっている。 ※敏達天皇の時、悪疫が流行したのを、仏法伝来の故として、仏像を壊した人物。
すると虚空より声がした。
もる雨にぬれても法をふかくきけ雲も涙を惜しまざりけり
さすが仏様。器量が上みたい。
蜀山人が上方への旅の途中、入相のころに駕籠の火が消えてしまった。下僕が近くの家へ火をもらいに行くと、
「名高い狂歌の先生なら、火を乞うにも狂歌でやってくれなければ」
と言われた。大先生は火をもらうのも大変だ。
そこで一首。
入相にかねの火入れをつき出せばいづくの里もひはくるるなり
(お寺が鐘を突きだす頃はどこの里も日が暮れるように、夕暮れに火を貰おうとしてかねの火入れを出せば、どこの里だって火をくれるものさ。)
鐘と金属の火入れ、鐘を撞くのと火入れを突き出す、日暮れと火をくれるのを掛け、困っているときに歌を詠めといういじわるにも、ちょっと報復しているように見える。
兵法に秀で、江戸城の築城でも名高く、詩歌においても当時一流の文化人として知られた太田道灌だったが、最期は扇ケ谷上杉定正の別邸の湯殿で謀殺された。
『雨中問答』(湯浅常山)によれば、そのとき不意を襲った敵が「かかる時でも歌が詠めるか」と言うのに対し、
かかる時さこそ命の惜しからめかねてなき身と思ひ知らずば
と、槍に刺されながらも詠んだとされている。
大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
(大江山へ行く生野の道は遠いからまだ天の橋立を踏みもしないし文も見てないわ)
(この歌の最後を「まだふみもみず、かかのきんたま」とする冗談をどこかで聞いて、以来、これを見るたびに思い出すようになってしまったのはどうでもいいことだが、)
ピシャッとやりかえす歌でもっとも有名な歌は、これではなかろうか。
なにしろ文部省唱歌「三才女」に、次のエピソードごと取り上げられているぐらいである。
あるとき、小式部内侍が歌がうまいのは、母親(和泉式部)の代作だろうといううわさがたった。
権中納言四条定頼が、「お母さんからの手紙は読みましたか」とからかうと、小式部内侍は御簾からのり出して定頼の袖をとらえ、即座にこの「大江山」の歌を詠んだ。
定頼は「こはいかに」と驚くばかりで、返歌ができずに逃げてしまった。自分から仕掛けて返歌ができないのはすごくかっこ悪い。
小式部内侍は「やったぜ!」という得意満面を扇でかくしただろう。
このように、意地悪を仕掛けておきながら歌を詠み返されちゃう、という話はなかなか愉快だ。
『宇治拾遺物語』に、山の番人が木こりの斧をとりあげて、「何かうまいことを言えば返してやろう」とからかったら、意外にも、木こりがちゃんとした歌を詠んだ、という話がある。
いじわるな山番は、
「ううううと呻きけれど、えせざりけり」(ううううと呻いたが返歌できなかった)
というかっこわるいことになって、斧を返したそうだ。