全歌集書評

― ことばの万華鏡・ことばの罠・ことばの迷路 ―『高柳蕗子全歌集』を読む

馬渡 憲三郎 (まわたり けんざぶろう・詩人・芸術至上主義文芸学会会長)

法光寺文芸誌「月光」第4号より

 (画面で読みやすいように段落ごとに空白行を挿入してあります。)


『高柳蕗子全歌集』(以降『全歌集』と略す)には、『ユモレスク』『回文兄弟』『あたしごっこ』『潮汐性母斑通信』、および「『潮汐性母斑通信』以後の歌」とされる『漂流トランプ』とが収められている。各歌集の刊行年月は、正確なところは不明だが、それぞれの歌集の「あとがき」、ないしはそれに類する文章に記されている日付あたりだろうか。ちなみに、『ユモレスク』は「昭和六十年一月」、『回文兄弟』は「一九八九年九月」、「『潮汐性母斑通信』は「二000年九月」だが、『あたしごっこ』と『漂流トランプ』には、それらがない。


こういうことは、作品を読むうえでの必須条件ではないが、『全歌集』の成り立ちへの関心からである。もっとも、こんな遠回りをしないでも、『全歌集』の成り立ちは「全歌集あとがき」を見ればわかる。それによると、「評論に夢中になって、かれこれ六年、短歌を作っていない。」ということだから、『全歌集』に収められた歌群は、『全歌集』刊行時から「六年」前までの作品というわけである。また、作歌を始めたのは、「私がこれらの作品をつくりはじめたのは、六年ほど前である。」(『ユモレスク』の「あとがき」)とあるから、昭和五十四年ごろからかと推測される。してみると、『全歌集』には、およそ二十二年間にわたる作品が収められていることになる。


二十二年間という月日が、作歌歴からみて長いか短いかは、作歌体験のないわたしには、よくわからない。が、興味を惹くのは、作歌の根底において変わることなく一貫するものが読みとれることである。それは、〈ことば〉への関心などということではいいきれないほどの、徹底した〈ことば〉への執着である。ことばによる表現活動に携わる者であれば、ことばに執着するのは当然ではないかという声が聞こえてきそうだが、『全歌集』にみられるものは、いささか様相を異にしている。それはある意味で、伝統的な短歌的世界の破壊すら試みているのではないかと思われるほどである。


かって、俵万智の『サラダ記念日』(一九八七年、河出書房新社)が公刊されたとき、その口語短歌の斬新さが、歌壇での毀誉褒貶に止まらず、いわば社会的な現象になったことを思い出す。それは、作者の思いとは関わりなく、少なくとも短歌人口の増大に一翼を担ったように思う。つまり、短歌がより身近なものになり、生活化したのである。


そうした現象をわが国の文芸において、どう位置づけていくかの用意は、いまのわたしにはない。ただ、きわめて個人的な体験を述べるならば、短歌にたいして、たんなる一読者でしかなかった者が、短歌を作れるかもしれない(実際のところは一首もできなかったというのが、実情だった)という気持にさせる何かがあったのは否めない。


『全歌集』には、『サラダ記念日』とは異なってはいるが、短歌へのそういう親近感がある。それは、なによりも〈ことば〉の多面的な機能性を、実に興味深く表現しているからである。

瓜売りは瓜の顔して橋の上一つまた一つ投げ落とす瓜


お月さまもほほえむ金貨の冷たさにふるえる泥棒だぢづでどろぼう 


ウ音を効果的につかっての「瓜売り」の顔といい、「金貨の冷たさにふるえる泥棒」の様子といい、なんとなく笑いをさそってくる。瓜を「一つまた一つ」と投げる行為のおかしさは、その行為の理由を問うことを無意味にする。また、「だぢづでどろぼう」に意味はなさそうである。しかし、「ふるえる泥棒だぢづでどろぼう」をくり返し音読していると、意味を超えた笑いがこみ上げてこないだろうか。笑いだけの笑いが心地よい。 


引用した二首は『ユモレスク』からだが、歌集のタイトルがすでに、象徴的である。ちなみに、タイトルのhumoresquは「夢想的・諧謔的な性格の小曲」(広辞苑)を意味しているし、集中の章立てに用いられている「ユモレスク」、「ブルース」、「ララバイ」、「カノン」、「ソング」、「マーチ」、「スウィング」のいづれもが音楽用語である。


そうしたことと『ユモレスク』の作品とが無関係とは考えにくい。そこには、作品から短歌的意味の簒奪すらが企てられているように思われるのである。それは、ことばのもつ機能としての意味性と映像性とを、より純粋化しようとすることである。そのためには、ことばを日常の散文脈的な論理性から、ことばの音としての価値ーここでは便宜的に音価と名づけるーに転位させることである。そうした一例を、つぎのような歌に見ることができる。


追憶のつまらぬ穴を嘴と指で拡げる小鳥と小鳥屋

青息で海青くする海亀の肺を潰して採る回春剤

流刑星姿かわいい生き物をブタと名づけて食らう悲しみ


「小鳥」も「小鳥屋」にもある「追憶のつまらぬ穴」(あるいは、それぞれの「追憶のつまらぬ穴」であるかも知れないし、または、「小鳥と小鳥屋」にもかかわりのない「追憶のつまらぬ穴」であるかも知れない)を、それぞれが「嘴」と「指」とで「拡げる」という世界は、歌のなかでのみ存在することである。その材の拠ってきたところは実在するかもしれないが、表現の域においては、もはやそのことは表現の過程で溶解されて、その痕跡はない。ツ音やコ音の音律性もさることながら、これらの歌の生命は、徹底した不在の世界への転位であろう。「青息で海青くする海亀」とは、きわめて詩的な発想だが、それを一瞬にして笑いのなかで無化してみせるのは「回春剤」である。詩的世界と日常的な世界との瞬時の衝突に表れるのは、farceの面白さといっていいのではないか。「流刑星」の「食らう悲しみ」の歌も同様である。


こうした方法で、ことばの音価と映像性との背後に日常的な意味を埋没させ、そこから新たな個性的な意味を創造しようとする試みを、『ユモレスク』にみるのである。


さらに気づくのは、それぞれの章立てのところで用いられている、先ほどあげた音楽用語の上に付されたことばである。たとえば、「ユモレスク」であれば「ピープル・ユモレスク」といった具合である。以下、アニマル、スペース、センチメンタル、ラブ、ゴースト、オールドと続いている。いま、十三首から成る「ゴースト・マーチ」から引用する。


一人は円一人はうずまき描いている砂地に影をおとせぬ幽霊


章の冒頭におかれた歌だが、「円」を描き「うずまき」を描く砂の動きを、幽霊の動きとして着想したところが斬新である。その幽霊が「影をおとせぬ」と詠われたとき、すっと納得させられる。あるいは、


死出の山こえる頭上をふとよぎる遠い日の紙飛行機の影


「死出の山」と「紙飛行機」という時間や次元を異にするものの対比から、転生に向かう道すがら、ひよっとしたら起こりうるかもしれないという想像をしてみる。すると、そこには穏やかな哀しみすら感じられるのである。


また、章題にふさわしくさまざまな「ゴースト」が詠われるが、全体的には妙に生身のにんげんを連想させる。


マンションの死体今夜も魂が鍵穴抜けて海を見にゆく

家々の押入の中でおとなしく肋骨などを数える骸骨


遊魂する「死体」といい、「肋骨」を「数える骸骨」といい、それはわれわれ自身のすがたでもあるようだ。「マンション」から「海」へゆく「魂」は、いわば人工的世界から非人工的世界へのわれわれの希求のように思われるのである。であれば、それは今日的な人間願望の投影と考えても一向におかしくないのではないか。また、「肋骨」を「数える骸骨」のイメージには、幼い日のかくれんぼがダブってくるようだ。鬼になかなか見つけてもらえなくて、息をころして腕組みしたときの、指先にふれた肋骨の感触が想起される。


こういう読みは、いずれも作者の意図に反した誤読にはちがいないが、そういう勝手な読みの楽しさが読者の特権でもあろう。


ところで、『回文兄弟』の「あとがき」のつぎのような文章は、作品の「特徴」がどこにあるかを、直裁に語っているようだ。少し長くなるが引用する。


この本に収録した作品の多く(残念ながら全部ではない)には、ホクロなんぞより目立つ特徴がある。回文、しりとり、駄洒落、沓冠といった言葉遊びだ。さかさに読めばおもしろい出鱈目な人名地名だの、「東南西北白発中」を一字ずつ隠したものなど、言わなければ誰も気がつかないようなものも含まれている。これは、言葉遊びとしてはあまり凝ったものではない。むしろ、ポーカーや麻雀の「役」みたいなものを意識して仕掛けたいたずらの「オマケ」だ。(中略)

こんな「役」は作品の表現上、何の役にもたたないけれど、お菓子の味が「オマケ」によって損なわれるものでもない。


なかなかウイットにとんでいる。たしかに、「オマケ」で「お菓子の味」が「損なわれ」はしない。むしろ、オマケがお菓子を魅力的にすることだってある。


たとえば、「回文兄弟」の章では、十首が納められていて、「一郎」から十郎」が、それぞれの歌に詠み込まれている。たとえば、「一郎」は、


絶望より脱帽だよと一郎は禿に虹たて「浦和で笑う」


と詠まれ、「十郎」は、


晩年の家出たくらむ十郎をはなれぬ背景「鷺なく渚」


と詠まれている。


括弧で括られた「浦和で笑う」や「鷺なく渚」は回文である。手品の種明かしみたいで興ざめだが、その括弧のなかを平仮名に書きなおすと「うらわでわらう」となり、「さぎなくなぎさ」となるのである。つまり、上から読んでも下から読んでも同音となるように仕掛けられている。そういう仕掛けは和歌や連歌や俳諧などにもあって、回文歌、回文連歌、回文俳諧などとそれぞれ称されている。そのあたりの詳細は、鈴木棠三の中公新書『ことば遊び』(昭55・6)に譲るが、正月の縁起物である宝船の「ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな」などは、よく知られて回文歌であろう。


ところで、作者のいう「言葉遊び」の歌を読みながら思ったことは、短歌の実作者たちはこれらの作品をどう評価するのだろうかという一点だった。

実作の経験のないわたしには、「オマケ」と短歌という形式との関係が興味をひいたのである。換言すれば、やや、乱暴だけど、作品における内容と形式ということに関るだろう。


この問題をめぐる論理は多く、作品の芸術的評価において、内容と形式とのいずれを優先するかというような、形式主義、内容主義的なものから、形式と内容との統一を強調することによって、形式と内容に定義を与えようとする美学論まで含めると、形式論はかなり拡大される。しかし、作品における形式は、依然として手づかないままであるようだ。


この倨傲な形式に挑戦するかのように、さまざまな芸術破壊運動が行われてきたことについては述べるまでもない。そういう芸術破壊運動のなかには、芸術が芸術でなくなるギリギリの境界線を歩み、一方、芸術でもないものが芸術になりうるギリギリの境界線を歩くというようなことも、いわば今日的な問題としてはある。しかし、形式に対して試みられたさまざまな破壊運動は、かえって芸術のもつ形式の不死身な倨傲さを見せつける結果となっているようだ。つまり、芸術に対する新しい運動が、つねに形式破壊という方向に進められているということから考えても、芸術における形式のウエイトは重量的であることを示唆しているようでもある。


勝手な想像だが、「オマケ」とは、短歌のもつ形式破壊への果敢な挑戦だったのではないか。ここでいう形式とは、三十一文字という音数ではない。形式については、かつて歌人児山敬一が「新短歌の一般論」(だったと思うが、いま資料が探し出せないので、正確でないが)で述べていたことが思い出される。そこでは、「水が一つのうつわに盛られている。うつわがその形式、水がその内容なのではない。うつわに限られて、水がそこにかたちづくる幾何学的な曲面形を、もし形式とみるならば、その内容は、その曲面形にしたがって、かたちづくられた水そのものの立体である」という意味のことを述べていたと思う。比喩的に語られている児山の言の重要な点は、形式には外面性と内面性とがあることを指摘していることである。


「言葉遊びとしてはあまり凝ったものではない。」というかずかずの「オマケ」をもつ作品を評価することは、わたしの手にはあまる。しかし、作者が「お菓子の味が『オマケ』によって損なわれるものでもない。」とする自負は、そういう視点に立つときに肯けることではないか。


いうまでもないが、歌人は「オマケ」を「意識して仕掛けて」いくことで、短歌の音数的な形式の破壊や、自由律的な短歌を目指そうとしているとは思われない。歌人の意図は、児山のことばを借りれば、「水そのものの立体」の表出にあったように思われる。そうしたものとして、「家族」に「ぼくんち」とルビを付した章に収められている十二首から、いま五首を引用する。


祖父(じーちゃん)の得意な手品 猫(たま)のために震える指で取り出す金魚

祖母(ばーちゃん)は加齢とともに虚言癖こうじて暮らすままごとの国

祖父(じーちゃん)に死を許さない祖母(ばーちゃん)の饒舌をさえぎる鳩時計

くしゃくしゃの新聞紙に似た祖父(じーちゃん)の霊魂も来る一家団欒

祖父(じーちゃん)の遺した蝉の標本が鳴くよと言って祖母(ばーちゃん)斃れる


「祖父(じーちゃん)」や「祖母(ばーちゃん)」以外に、「母(かーさん)」、「父(とーさん)」、「伯父(あいつ)」、「猫(みけ)」も「家族(ぼくたち)」の一員として登場する。


引用した五首に詠われている〈家族〉が、歌人の実在の家族かどうかというような、いわば素材論的なことには興味がない。実在であってもなくてもいい。惹かれるのは、「祖父(じーちゃん)」や「祖母(ばーちゃん)」が、実にリアルに表現されていることである。「猫(たま)のために震える指で」「金魚」を「取り出す」「祖父(じーちゃん)」にせよ、その「死を許さない祖母(ばーちゃん)の饒舌」や「虚言癖」などは、われわれが目にする日常的な光景である。それだけに、それぞれの歌は現実を鋭く抉っているといえる。


しかし、だからといって、これらの作品を高齢化社会へのクリティカルなものとすることもない。それより、「手品」「ままごとの国」「鳩時計」「くしゃくしゃの新聞紙」「蝉の標本が鳴くよ」といった表現が、現実的な光景よりはるかに強烈なリアリスムの世界を形成しながらも、瞬時にある種の暗さから明るさへ転換させていることに意義があるのではないか。つまり、作品化された〈家族〉像は、先の引用歌に続くつぎの二首をもって閉じられている。


少女(ばーちゃん)をお迎えに雨雲つれて蝙蝠傘の少年(じーちゃん)が来る

ひとりずつ切り抜けば白い裏みせてまるまってしまう写真の家族(ぼくたち) 


「ばーちゃん」や「じーちゃん」は、「少女」や「少年」として顕れてくるし、写真に映っている家族を一人づつ切り抜いていくと、残るのは「白い裏」だけである。


ここには物語の濃厚な時間が流れている。「祖父(じーちゃん)に死を許さない祖母(ばーちゃん)の饒舌をさえぎる鳩時計」を境として、その前後に〈生〉と〈死〉が配置され、「少女(ばーちゃん)をお迎えに雨雲つれて蝙蝠傘の少年(じーちゃん)が来る」で時間の遡及があり、写真から「家族(ぼくたち)」を切り抜くことで、物語は閉じられていくのである。


われわれの〈生〉の実相というものは、詠われた〈家族〉のようなものではなかろうか。それはまた、記憶の実相でもあろう。


このように見てくると、歌人は〈短歌〉を〈物語化〉させることにおいて、短歌の一人称的な独白(モノローグ)による抒情性や詠嘆性を、その〈物語〉の内的な世界に閉じこめてしまっているように思われるのである。「水そのものの立体」とは、そういう〈物語化〉という様式である。ただそのとき、気になるのは詠ってきた〈私〉の行方である。家族の写真を切り抜いてしまった〈私〉が、あの「写真の家族(ぼくたち)」の一員となるためには、〈私〉を〈物語化〉する以外にない。



その歌集が、なんとも不思議な「献辞ごっこ」と「あとがきごっこ」をもつ『あたしごっこ』だ。


夥しい人名が書き連ねられた四頁余にわたる「献辞ごっこ」は、「その他、今まで出合ったすべての人、犬、リス、金魚、鈴虫のみなさんに献じます。」で閉じられ、実に多種多彩な内容である。「ニワトリをトウトウトウと呼んでいた隣の中里のおばさん」、「ママがくしゃみをしたら驚いて腰を抜かした三毛猫パタポン」、「あたしと毎日遊んでいたせいで仲間外れにされた赤っ毛の長島君」、「家庭内暴力の長男を殺してしまった国語のS先生」、「社会のモングラー先生」、「『時間よごし』など造語がみごとな独創的保健婦の為壮さん」などなどである。いってみれば〈ごっこ〉による編年体的な自分史ともいえる。この愉快さは、読者を〈あたしごっこ〉へとまんまと引きずりこむ吸引力としての仕掛けでもある。


その「献辞ごっこ」に続くのは、各歌のなかに必ず「あたしの○○」と表現した五十二首、他に「あたしを○○」が二首と「あたしに○○」が一首の五十五首の作品群の「あたしごっこ」である。その最後の作品は、


顔かいてあげるからのっぺらぼうにおなり、あたしの読者のみなさん 


である。


これだけ多くの〈ごっこ〉を読みつづけると、読者はいつの間にかどれが自分の顔だか判らなくなってくる。似顔絵を描くとしたら、急進的であれ、遠心的であれ、結果的には「のっぺらぼう」になるのではないか。


誰かしらつまづく音で毎晩のありかが知れるあたしのバケツ

亡霊に号令かけてうらめしやを順に言わせるあたしの廊下

沖を泳ぐ父を見てから皮一枚下でときどきあたしは鮫

生きているかぎり乳房を大切に洗うおまえはあたしのママ

豪雨のなかそっとはぐれてゆく気配 馬のかたちのあたしの一人


〈ごっこ〉が、何かを真似する遊戯であることはいうまでもない。しかし、〈あたし〉を〈ごっこ〉するとは、どういうことなのか。在りえた〈あたし〉を〈ごっこ〉するのか、あるいは在った〈あたし〉を〈ごっこ〉するのか、あるいは在って欲しかった〈あたし〉を〈ごっこ〉するのか。おそらく、「あたしごっこ」には、そのいずれもが詠われているように思われるが、重要なことはその判別ではない。先の引用歌にも見られるように、「つまずく音」を耳にする〈あたし〉、「亡霊に号令」をかけている〈あたし〉、「鮫」になる〈あたし〉、「乳房を大切に洗う」「ママ」を見つめる〈あたし〉、「そっとはぐれてゆく気配」が「馬のかたち」であると感じている〈あたし〉と、さまざまな〈あたし〉をとらえていることである。つまり、〈ごっこ〉することでのみ可能な〈あたし〉による〈あたしの物語〉が表出されていることである。もし、ときとしてそれらの作品から痛々しいものが感じられるとすれば、その〈あたし〉がわれわれが体験する姿として、真実だからであろう。文学的な真実の迫真性といってよい。「あたしごっこ」は、文学的真実としての《私》の発見がある。

また、『あたしごっこ』には、「あいうえおごっこ」という章の歌群もある。


穴ひとつあけて阿呆があの世へと謝ればおつり アキアカネ出る

妹の生霊がいないいないバア いやまて僕に妹いない

から、


笑いぐさ 忘れ形見は悪い子で腋臭の鰐をわざとかわいがる


があり、さらに、


合掌だ!合掌じゃない 頑固さはがらんどうゆえがんばれ骸骨


と続き、


ポルカやみポツンちっぽけポチが見たポンヌ図法のぽんこつ世界


で閉じられる。まさに、〈ことばごっこ〉の壮観さである。

ところで、「あとがきごっこ」には、


言葉から書きたいことを探しあてていく『あいうえおごっこ』と、内容から考えてから書く『あたしごっこ』との二つで、同じテーマを追求しようということになった。

―これは短歌の実験ではなく、自分の実験なのだ。あとがきと短歌は、右足と左足を交互に出して歩行するような関係にしたかった。


という文章があって、創作の意図が述べられている。さらにそれに続く文章を読んでいくと、《ごっこ》を選んだ歌人の想いが感じられるようだが、本当のところはどうだろう。歌人の仕掛けた「ごっこ」に、わたしはまんまと嵌っているのかもしれない。



『全歌集』には、これまでふれた歌集以外に、『潮汐性母斑通信』と「『潮汐性母斑通信』以降の歌」の副題をもつ「漂流トランプ」とが収録されている。これもまた、先にいう「自分の実験」といえるような気がする。とりわけ「潮汐性母斑通信」に付された「生まれなかった兄」のつぎのような文章は、『全歌集』の核心にふれているように思われる。


言葉を発しようとすると、いろんなことが明瞭になろうなろうと群がり寄ってきて、「どうだ、言えまい書けまい」とからかう。そして、次の瞬間に、なんだか世界が逃げてゆく気がする。私と世界が二人でする鬼ごっこだ。


ここには、表現者として〈ことば〉と「鬼ごっこ」する歌人の声を聞くようである。まさに、『全歌集』は「どうだ、言えまい書けまい」という「からかい」に、ときにはことばの罠で、あるときはことばの迷路で作り上げた「世界」ではないか。それが読者にはことばの万華鏡として見えるのだが、万華鏡の向こうに佇む歌人の、《あたし》を見落としてはならないだろう。



巻末に所収作品の「あいうえお順索引」と「キーワード索引」が付されている。面白いのは「キーワード索引」で、「この索引は、すべての語句で検索できるわけではありません。登場人物・動物、多出語、印象に残りやすい語を選んで作成しました。」と注意書きがあるが、なんともユニークな索引である。一例だが、「人物神仏」では「職業など」、「神仏妖怪など」、「その他」と分け、「職業など」は九十の異なる職業人が、「神仏妖怪など」は三十七の神仏妖怪が、「その他」は五十八が登場するのである。


『全歌集』を駆けめぐるこうした〈ことば〉は、それだけでもすでに表現となっていて、読む者をして飽きさせない力がある。久々に、〈ことば〉の魅力を堪能した歌集であった。