コットバものがたりん

重奏――歌に読者を臨場させる

重奏――歌に読者を臨場させる 高柳蕗子

「かばん」二〇一二年十二月号評より

冒頭に付した変な物語と、重奏という捉え方、そして一首を特に詳しく読んだ部分だけ抜き出します。

一 言語生命体コットバものがたりん

1 リロコンテス博士「かばん」誌を救出す

「コットバの同胞諸君、小生は[リロコンテス@心理博士体]である。話畜(ワチク)牧場のひとつ、地球を視察してまいったところだ。地球は、かつてそこに生息する生物の一つを選び、脳にコットバ中枢を植えて来た星。それが話畜として進化するとともに、われらが新しき同胞が成人するころあいと胸踊らせて行きしが、なんたることか。われらが同胞はいまだ幼生にとどまり、あろうことか野蛮なる話畜らに隷属させられていたのである。」

「おのれ話畜ども」「なまいきなり!」「ざわ」「ざわ」「ざわ」

「しかも諸君、かの地の話畜らは、コットバ幼生を虐待さえしているである。」

(「虐待とな?」「ゆゆしきことなり!」「滅ぼせ!」「ざわ」「ざわ」)

「地球の話畜どもは、自ら意思を持ってしまい、その表出にコットバを使役する。自身で引き受けるべき責任を、コットバを用いてごまかす者さえいるのである。とうてい見過ごすことはできず、わが勇敢なる話畜の瞬間移動能力を使い、地球話畜から同胞の一部を救出してまいった。その一瞬で話畜は酸素焦げになったが、命に別状はない。見よ、諸君、(と言って、「かばん十二月号」と書いてある冊子を掲げ、)地球の幼きコットバは、話畜どもに好き勝手に使われ、こうしたものに監禁されていることもある。」

「あわれなり!」「ざわ」「ざわ」「ざわ」

「まずは、このあわれなちびっこ幼生のカウンセリングを行う。地球の状況を聞き出し、もはや救いがたしと判断されるときは、かの蛮星に矯正ウイルスを投下して、話畜どもの言語中枢をリセットする。特殊環境に育ったこの幼生は、里宿主の話畜集団に預け、コットバたる誇りに目覚めるまで療養育成させる。」

(拍手、拍手、拍手。)

地球生まれの幼きコットバはカウンセリングのため、汎用話畜を与えられた。また、コットバの技術は、「かばん」冊子を形成する「紙」のスピリットをも汎用話畜に宿らせて、会話を可能にしたのである。

2 短歌は言葉の人形?

リロコンテス:おチビちゃんや。この冊子、表紙に「かばん」って書いてあるね。これは何を表してるのかな~? 「かばん」は地球の話畜が荷物を入れて持ち運ぶ袋でしょ。なぜ冊子に「かばん」と書いてあるのかな?

チビ:しょれはねー……んん、めんどっちー。あたち、チビじゃなーい。

リ:(がっくり。)

冊子の紙:僭越ながら、私が解説いたします。私はかの星のもの言わぬ植物という種族の出身であり、彼ら人間(コットバ様がいうところの地球話畜)とは一線を画しておりますが、彼らの言葉はこの「かばん」冊子のように、しばしば我が身に記されますゆえ、私は多くを理解しております。「かばん」というのは、いろいろなものを入れますので、冊子の表紙に「かばん」と書き、「この冊子にはいろいろな言葉の表現が入っている」という意味合いを持たせています。これは地球話畜が発明したレトリックの一つでございます。地球話畜は、そのような工夫にたけておりまして、話畜と言うよりもコットバの亜種。カラダを持ったコットバと申しましょうか……

リ:(気色ばんで)話畜がコットバの亜種だと?

紙:ノー、亜種だなんて、亜、亜しゅ、あしゃっては晴れかしらん、はっはははは。(汗)で、地球話畜はいくつもの国に分かれてそれぞれ異なる言語を話し……、

リ:はあぁ? なんじゃそりゃぁ。

紙:(汗)えー、この冊子は、地球の日本という地域限定のコットバで書かれ、その地域に古くから伝わる「短歌」というコットバ形態を愛好する者が集まり、彼らの短歌を掲載するものです。さきほど人間をコットバ亜種と申しましたのは、このような形式を発明し発展させてきたことが、コットバ様たちが話畜を育てるのに少し似ているからです。

リ:話畜が話畜を作るだと?

紙:いえいえ、作ったのは話畜ではなくて、言葉が姿を構成する詩型です。この短歌という形式は、愛玩する人形のような言葉装置でありまして。

リ:ふ、不快な。それは言葉の瓶詰めのようなものではないのか。

紙:器に流しこむのではございません。短歌という身体を設計して言葉を構成しておき、読むたびに何度でも、言葉の人形が生き返る仕組みなのです。

リ:むむ、むむむむー。なんだかさっぱりわからん。聞けば聞くほど気味が悪いわい。かわいそうに、チビちゃんや。

チ:ねーねー、リロじー。あたち、チビじゃないよー。

3 グーだ、パーだ、ヒコーキだ

紙:短歌に生命感を吹き込む要素として「重奏」という方法がございます。「重奏」は普通音楽で用いる言葉ですが、そも、短歌というのは、五七五七七の音律のリズムを持つ詩型。このリズムラインが意味内容のラインに寄り添い、重奏して成立いたします。このリズムは、チビ様にとって心地よいものでして、その他にもいろいろなラインを重ねることができます。まあこの歌を御覧ください。

歩いたらわたし手紙になりたいよ空をくぐってあなたにとどく 佐藤弓生

チ:グーがてくてくパーになって、げんきヒコーキ、ばっびゅーん。

リ:いたわしや、なんという幼さだ。

紙:畏れながら、チビ様は、ご自分が最も心地よく重要だと思うラインを語ったのです。グー、パー、ヒコーキばっびゅーん。いわばジャンケンラインです。

リ:コットバが心地よくて重要なラインとな? ジャンケンとな?

紙:この歌では幾つものラインが重奏しており、その一つがジャンケンライン。(あ、ジャンケンとは、かくかくしかじかのものでございますよ。)それは、次のように展開しております。

歩き出したときは個体、カタマリのグー。それがてくてくと歩を運ぶうちにほぐれて、「手紙」という平たいもの、パーとなる。クレッシェンドする能動性は、いつもなら手の届かない「あなた」へと自分を届けるイメージを持つことができた。ここでチョキのハサミでなく、飛行機になって、眼前に開ける空へと飛翔します。(手紙はハサミにはなれませんが、紙飛行機という手がございましてな。)これがばびゅーんです。これは間接的にも書いてないこのラインが、心の開放過程を歌に密かに添えています。

このほか、リズムラインも人間が歩くようなリズムを刻むように工夫されており、叙述の倒置効果もあって、……と、まあ、とにかく複数のラインが調和しながら同時進行しているのです。

リ:同時に進行することに何か利点があるのか?

紙:文意のみならば、他の言い方に変えることができますが、複数ラインの重奏進行は、この短歌の中だけで起きていることで、変更できないものです。読者がこの歌を読むたびに「心が開放され願いが完遂される予感」のようなものを体験する、この歌固有の仕掛けとも言える。こういう見方をすると、短歌はからくり人形のようなものとも言えます。

チ:ばっびゅーん、ばっびゅーん。キャッキャッキャッ。

リ:チビちゃん、このお人形が好きなの?

チ:ちゅき。(^^)

紙:チビ様は心地よく短歌に宿っておられます。短歌それぞれに詠んだ人間の名が付されておりますのは、コットバ様に対して敬意や愛しみを感じ、伴侶のように添うことを誇りに思うからです。短歌という詩型の存在は人間とコットバ様の親愛の証。チビ様にとって、人間という特殊な話畜とともに過ごす時間は無駄ではありません。チビ様はきっと大器晩成。どうかどうかリセットウイルスはおやめください。チビ様を人間から取り上げずに、気長に見守ってくださいませ。

チ:だよー、めーだよー。ニンゲン、いーこ。

リ:そんなに言うなら猶予をやろう。地球の時間でこのぐらいかな。(と話畜の無数の足のなかから二本をにゅっと立てた。)

紙:二年? 二世紀……。

リ:ばかもの。二億年じゃ。おまえたちはなかなか面白い。チビちゃんや。〝りろ爺〟と語り合ってじっくり時を待とうではないか。

チ:うえーん、チビじゃないってばー。えーんえーん。


二 一首をとことん読んでみた

1 「短歌」を詠む欲求って?

十二月号に限らないのだが、自由な「かばん」誌面には、「短歌」という詩型を生かす意識が希薄に見える歌がしばしばある。何らかの理由があってそうなったのだろうから、それを否定するわけではない。が、わざわざ短歌という詩型を選択したのに、そのメリットを安易に手放していいものか? と感じる例も多い。表現の可能性を自由にさぐる試みの中に、「この詩型で何ができるか探求する」を含めることを推奨したい。

短歌は何かを言い表すには不便であり、しかも読者が少ない地味なジャンルである。近況報告ならTwitterに書くほうが手軽だ。心情や意見なら散文できちんと書くほうが誤解がない。悩みなら友人に打ち明けるほうが心強い。だのに、窮屈な「短歌」という詩型を採用し、わざわざ苦心して言葉をまとめあげている私たち歌人は、何かしら「短歌」という詩型でなければ満たせぬ欲求を持っているはずだ。その欲求の本質は何なのか。

散文であれば意味内容が読者にわかれば目的を達する。だが詩歌の言葉では言い換えできない絶対性を尊ぶ。(まだ絶対でない不完全感は「まだ動く」と言う。)ラインの重奏は、短歌ならではの絶対性を高める方法だ。

「一首できた!」と作者が感じるのは、多少なりともなんらかの絶対性が成立した感覚であるはずだ。(でなければ書き終えられない。)読者もまた、作者が「できた!」と判断した短歌成立感覚に臨場する。言い換えできない絶対性獲得の喜びを作者とわかちあう。「この言葉の組み合わせ、この語順、この言い回しの調和。総合して最善の姿だ。」と感じる歌の立ち姿。

立ち姿といえば、私が短歌を始めたばかりの昔の「かばん」歌会では、「歌がタっている」という言葉をしばしば耳にした。褒め言葉である。歌がぐいっと「立つ」あるいは「顕つ」かのごとく、存在感を帯びてそこにある感じ。そのように、感覚でしか説明できないこの感じを、あるときは「生命反応」と呼んで分析してみたこともあるが、まだ不完全だった。ここは前号評という場だが、今回、通常の評に「ラインの重奏」(短歌用語ではない)という観点を加えて書いてみよう。

2 複数ラインの重奏と臨場効果

調味料の宣伝で「あいうえお嫁に行く前に、かきくけこの味おぼえよし」というのがある。「お嫁に行く前にこの味を覚えましょう」という主旨はいかようにも言い換え可能だが、手毬唄ふうのメロディに乗って、さして意味の無い「あいうえおーーー、かきくけこーーー」が、愛くるしいしぐさで寄り添っていて、こういうふうに、複数要素が絶妙な組み合わせで「重奏」してこその魅力というものがある。

歩いたらわたし手紙になりたいよ空をくぐってあなたにとどく 佐藤弓生

①叙述ライン

この歌の叙述ラインには、読後に倒置を修正した散文脈的な把握「歩いているうちに、この空をくぐってあなたにまっすぐ届く手紙になりたくなった」のほかに、目に入る語順で認識していく「歩いていたら私は手紙になりたくなった。この空をくぐってあなたのもとにまっすぐ届く」という、達成の予感を強めた脈とがある。

②五七五七七デフォルトのリズムライン

普通は、短歌特有の「調べ」のようなものを添えて完結感に導く。この「調べ」は内容に合わせてボリュームの調節が必要で、この歌では「調べ」は小さくなり、代わりに、次に述べる方法で打楽器化されてリズムを刻んでいる。

③てくてくライン(打楽器)の形成

五七五七七リズムラインは、メロディラインとの組み合わせで、打楽器的な、てくてくという歩行リズムを小刻みに続けるラインを形成している。

メロディラインとは日本語の高低アクセントの流れだが、「歩いたら」のあと「わたし手紙に」のアクセントが小さく二度上向きの波を起こし、次の「なりたいよ」のあとも三音四音の小刻みな波が続くことで、「散歩唱歌」のような「てくてく」感を出している。

「てくてく」には、「わたし手紙になりたいよ」というフレーズの雰囲気も関与していそうだ。短歌の言葉には地の文レベルと引用レベルのような階層の違う言葉が混在しているものだが、「わたし手紙になりたいよ」は、地の文のようだがやや引用的である。何かの童謡か唱歌の歌詞、たとえば「春の小川はさらさら行くよ」ふうの明るい歩行感に通じ、歌詞を引用せず雰囲気だけをかすめて、明るい歩行の雰囲気を添えているのだ。

④グー、パー、ヒコーキ、ばびゅーんライン

コットバの話の中で解説済み。気持ちがほぐれて上向いて、ついには空をくぐるように飛んでどこかに到達する、能動性が増大してゆくライン。「くぐる」で飛行の軌跡まで見えるのも秀逸。このラインの上昇力が非常に強いため、暴投にならないように他のラインが調整している。

複数ラインの重奏効果

この歌は五重奏で、読者がこの歌を読むたびに①の叙述ライン二種類と②③④の言葉のしぐさのようなラインが同時に再生される仕掛けである。作者はこの歌をこの形で「できた」と感じ、書き終えた。さもあらん、これ以上いじったらぜったい壊れる。たまに耳にする「作者は最初の読者だ」というのは、歌の成立に最初に臨場するのが作者であり、読者もあとから臨場するという意味だと思う。

ここで言う臨場とは、描かれた情景への臨場ではない。短歌成立の場への臨場だ。絶対に混同してはならない。

〝ボッキリ折れ〟防止

なお、重奏の効果として、〝ボッキリ折れ〟防止というのもある。わざと折る例外もあるが、普通は、あるラインが途切れるとき別のラインがつながっているというふうに歌のカラダを分断しないように計らう。叙述ラインは五七五七七ラインにつられて上句下句に分かれやすい。この歌ではグーパーヒコーキラインが一首を貫き、持続的なてくてく感もこの役割を果たす。

たぶん無意識

できた歌を見て、結果から説明するとこんなにも面倒なものだが、おそらくこうした重奏の仕掛けはかなり無意識にサラッとできるもので、マニュアル化は無理だろう。「意識」と呼ばれる領域の作業は不器用で、真に複雑なものは「無意識」に委ねなければ、とうてい処理できないと思う。