ちょろぱ

教訓歌・道歌

教訓の言葉はあまり人に好かれないように思える。

しかし、よくできた教訓の言葉の多くには、あらがいがたい威厳があり、あるいは、不思議なワザをかけるような強い説得力を持っていて、案外魅力的である。

教訓の歌の効力や価値は、その威厳や説得力といった魅力で決まるのだ。

その説得力は、比喩のうまさや、おもしろいレトリックから生まれる。そのあたりを鑑賞しながら読むと意外な面がみえて楽しい。

なお、出典を示していないものは、原典などが未確認のもの 。

武道で心の修養

●柔術の道歌(らしい)

掘らぬ井にのぞかぬ人の影さしてたよらぬ月と映る月影

何の教えかよくわからないが、「柔よく剛を制す」というから、その境地を語っているのかもしれない。

ところで、このレトリックは、有名なこの歌にそっくりだ。

闇の夜に鳴かぬカラスの声きけば生まれぬ先の父ぞこいしき(百人一首の発声練習に使うナンセンス歌)

ナンセンス歌のテイストは禅問答のような不思議さに通じるかもしれない。


●剣術の道歌

稽古とてほかに求むる道もなし心の塵をはらうばかりぞ

東郷重位が師から教わったという歌。


世はひろしことはつきせじさりとてはわがしるばかり有りとおもうな

一刀流目録にある道歌で、現代でも剣道を学ぶ人が教わるそうだ。

●フランス人も暗唱(^。^)

以下BBS(閉鎖)より

「教訓歌・道歌のコーナー読んでいて昔読んで印象深かった歌を思い出したのでネットで調べてみました。調べて出てきたサイトからの引用です。

『快川 紹喜(かいせん じょうき)の言葉には、

滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に(朝日新聞5月26日夕刊)

というのがあるらしい。フランスで柔道を教えている83歳粟津正蔵さんが門弟に日本語で教えているとか。』

柔道の稽古前にフランス人の弟子達全員でこの言葉を暗唱するらしいです。

※快川 紹喜 かいせん じょうき《くわいせん ぜうき》

生年不詳 室町末期の臨済宗の僧。武田晴信に迎えられて甲斐の恵林寺(えりんじ)の住職。信長に攻められ焼死。

そのときの偈(げ゙)

心頭(しんとう)滅却(めっきゃく)すれば火もまた涼し

比較的知られている教訓歌


●わりと知られている教訓歌

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 讎は敵なり 武田信玄

さすが殿様といった感じで威厳も十分だし、比喩もうまい。

(その本歌取り?

いしがきの小石大石持合ひて御代もゆるがぬ松ケ枝の色 日比翁助)


明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは 親鸞

教訓歌にはちょっと早口言葉めいたものがある。

え、何がどうしたって? と考えて、じっくり意味を考えさせ、アーなるほどと納得させる効果があるようだ。

堪忍のなる堪忍が堪忍かならぬ堪忍するが堪忍

なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり

人多き人の中にも人ぞなき人になれ人人になせ人

人の非は非とぞにくみて非とすれど我が非は非とぞ知れど非とせず

今今と今という間に今ぞなく今という間に今ぞ過ぎ行く


わがよきに人の悪きがあればこそ人のつらきはわが悪きなり

(人によくすれば人も自分によくしてくれる。人が自分に辛く当たるのは自分の仕向けかたが悪いのだ)

この歌は今ほとんど知られていないが、

我が軒に人の割木(薪)のあらばこそ人の割木は我が割木なり

(他人の薪を勝手に焚いた言い訳)

などと詠み変えた小噺があり、かなり広く知られていた時期があったと思われる。

暗いと不平を言うよりもすすんであかりをつけましょう

宗教番組で耳にした。思わず、そりゃそうだ、と思ってしまう。7775のどどいつになっていることは意外と気づかないのでは?


みのるほど頭を垂れる稲穂かな

本当に人格の高い人は腰が低く、いばらないものだということわざ

山川の末に流るる橡殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

(命を捨てたつもりでがんばれば、活路を見いだせる)普通は下句だけで通用する。

三度炊く米さへこはし柔らかし思いのままにならぬ世の中

(日に三度も炊くまんまさえ固すぎたり柔らかすぎたりする。そのように世の中は思いのままにならないものだよ)

狂歌だが、教訓の歌のように使われる。


手習いは坂に車を押すごとし

このうしろに「油断をすればあとへもどるぞ」と付くこともある。


親の意見となすびの花は万に一つの無駄もない

ことわざ。どどいつ調。

ことわざをあげたらきりがないけれど、ことわざの多くは短くて、

いつまでもあると思ふな親と金

のように575の長さがあるものは思ったほど多くはないようだ。

ただし交通標語のようなものには575がよく使われる。

飛びだすな車は急に止まれない

※遊びに夢中の幼児が、この標語で飛びだすのをやめるとは思えない。

大人の期待を言葉にしただけの呪文だ。

これに対して

飛び出すぞ子どもは急に止まれない

というのがあるそうだ。このほうが教訓歌としての出来は上である。

教訓の歌いろいろ


●流行歌でお説教?

流行歌にはけっこうお説教くさいものがある。


負けない事、投げ出さない事…………それが一番大事 (それが大事)


涙の数だけ強くなれるよ…… 見るものすべてにおびえないで …… (TOMORROW)

信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つくほうがいい(贈る言葉)

求めないで 優しさなんか 臆病者の言い訳だから (贈る言葉)


何せうぞ くすんで 一期は夢ぞ ただ狂へ (閑吟集) 昔の流行歌です。

流行歌じゃないけれど、

金剛石もみがかずば 玉の光は添わざらん

人も学びて後にこそ まことの徳は現るれ

時計のはりの絶間なく めぐるがごとく時のまも

光陰惜みて励みなば いかなる業かならざらん

作詞: 昭憲皇太后 (明治天皇の皇后)

箸とらばあめつち御代の御めぐみ祖先や親の恩を忘るな

これも流行歌ではないけれど、戦時中の学校で昼食前に唱えさせられ、家でも唱えるように奨励されたという教訓歌。

置き場がないので、ちょっとここに置いておきます。

●校歌はたいていちょっと教訓的

戸田東中校歌 (作詩・落合孝内 補作・高柳重信)

※管理者の出身校です。

日毎に仰ぐ遠富士の 白く清らな希望を育て

ともに肩よせひとすじに 眉にかかげん高き理想

ああ東中われらは学ぶ

浮雲あそぶ荒川の 流れゆたかな心をたもち

ともに睦びてすこやかに きたえやまぬは強きからだ

ああ東中われらは集う

過ぎし日戸田の野に栄えし 桜草こそわれらが校章

ともに誓いて忘れじと 胸にともすは若き誇り

ああ東中われらは歌う

●釈教の歌

人の身は得難くあれば法の為のよすがとなれりつとめ衆生すゝめ衆生

四つの蛇五つ物の集まれる穢き身をば厭ひ捨つべし離れ捨つべし (仏足石歌)

仏足石は、奈良薬師寺境内にあり七九四年に建立された石碑。

インドにあった仏足石の写しが唐から日本にも伝えられたもので、碑面に五七五七七七音の歌が二一首刻んである。仏足石を賛美する歌や、衆生が仏の跡を拝んで仏道にはげむことを願う歌。

このように昔から釈教の歌というものがあり、勅撰集にも収録されているが、

仏の賛美に重点がある歌もあるし、釈教が歌の題材であって「道を説く」つもりではない歌もあるため、必ずしも教訓的ではない。

佛は常にいませども現ならぬぞあはれなる

人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ 今様

仏は常にいらっしゃるが、目にすることができないから、いっそうしみじみと感じられる。

静まりかえった暁に、ほのかに夢のなかに姿をお見せになるのだ。

というような意味だろう。(管理者は古語が苦手:笑)

釈教の歌はときに哲学的な思索に導くものもある。

世の中は夢と思うも夢なれや夢を迷いというも夢なり

●宗教家の歌

宗教家の歌には、教義を説くもの、心のいましめを説くものがある。

ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし(空也)

とも跳ねよかくても踊れ心駒 弥陀の御法と聞くぞうれしき (一遍)

月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ (法然)

後の世のきづなとなれる妻子程せめて仏の恩をたうとめ (法然)

極楽をねがふおもひのけぶりこそ迎への雲とやがてなるらめ(源信)

南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ (一休)


六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり

独むまれて独死す 生死の道こそかなしけれ (略)

たましゐ独さらん時 たれか冥土へをくるべき

親族眷属あつまりて 屍を抱きてさけべども

業にひかれて迷ゆく 生死の夢はよもさめじ (略)

すべての思量をとゞめつゝ 仰で仏に身を任せ

出入る息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申べし

これは一遍上人が作った、七・五の句が一九二句続く 和讃、「百利口語」のほんの一部。

引用部分だけ要約すれば「死ぬときはひとりぼっちで、もはやこの世のものに頼れないのだから、

仏に身をまかせて南無阿弥陀仏と唱えよう」ということ。さすが時宗の開祖の作とあって、ただならぬ迫力がある。


●啓蒙

(前略)

狭き国土に空地なく、人民恆の産を得て、富国強兵天下一、

文明開化の中心と、名のみにあらず其実は人の教の行届き、

徳誼を修め知を開き、文学技芸美を尽くし、都鄙の差別なく、

諸方に建る学問所、幾千万の数知らず。彼の産業の安くして、

彼の商売の繁盛し、兵備整ひ武器足りて、世界に誇る太平の、

その源を尋ぬるに、本を勤むる学問の、技に咲きたる花ならん。

花見て花を羨むな、本なき枝に花はなし。一身の学に急ぐこそ、

進歩はかどる紆路、共に辿りて西洋の、道に栄る花を見ん。

福沢諭吉の和讃形式の、西欧文明に関する啓蒙書『世界国尽』。「欧羅巴洲」の章の一節。

「花見て花を羨むな、本なき枝に花はなし」という 後半のお説教に注目だ。


●「極楽は意外に近い」と説く歌

仏教の教えとは離れてしまいそうだが、「大切なものは身近にある」という教訓は、「青い鳥」など、

世界中にあるのではないだろうか。

極楽ははるけきほどと聞きしかどつとめていたる所なりけり(仙慶)

極楽は西にもあれば東にもきた道さがせみな身にもあり (不詳)

極楽は眉毛の上の吊し物あまりの近さに見つけざりけり (道元)

極楽をいづくの程と思ひしに杉葉たてたる又六が門 (一休)

●かぞえうた

かぞえうたはもと俗謡で

「一つとや、一夜明くれば賑やかで、お飾り立てたり松飾り」

といったものだが、

「一つとせ人は見かけによらぬもの」など、教訓的な替え歌がたくさん作られている。

一つとせ 人と生まれて学ばねば 人の人たるかひぞなき (明治初期の「勧学かぞえうた」)

一つとや 人々一日も忘るなよ はぐくみそだてし親の恩 (幼稚園唱歌集。明治20年)

一つとや 人と生まれて忠孝を かきては皇国の人でなし (小学唱歌。明治25年)

一つとや 人々忠義を第一に あおげや高き君の恩 国の恩 (尋常小学唱歌。明治44年)

一つとや ひとりで早起き身を清め 日の出を拝んで庭はいて水まいて (初等科音楽。昭和17年)

「一つ出たわいのヨサホイのホイ 一人娘とやるときにゃホイ親の許しを得にゃならぬ」

も、スタイルは教訓的数え歌だ。

健康食品の「皇潤」にも数え歌があってCMで歌っている。

「皇潤数え歌」

一つ、一粒 願い唄

二つ、二粒 ファイトと 声をかけ

三つ、身軽に 軽やかに

四つ、よき友 いつまでも

五つ、命の 輝きを

六つ、無邪気に 微笑んで

七つ、仲良く 腕組んで

八つ、八粒 明日のため


●朝寝坊に意見の狂歌

朝顔の花の眉ずみ寝耳に目さませとてこそ口すさみけれ

これを朝寝坊の人に短冊に書いてやったら、げにかたじけなきと喜び改めた、という話を何かの本で読んだ。


●酒場のカレンダー教訓歌

まきつける種に心のなき人ハ秋のみのりハ得られざりけり 涯菩薩

大衆酒場のカレンダーで見たと友人に教わった。