「泣きながらどうたらこうたら」という短歌をときどき見かける。
「泣きながら」と言う語はそそられる言葉だ。
「どうして」泣いているのか、また構文上、「誰が」泣きながら「何をする」のか、と理由や場面が気になる。それに、「泣きながら」は短歌の韻律上も、置きどころに困らなくて、どの位置でも効果的に使えそうだ。
というわけで、「泣きながら」は、読者というより、まずは歌人をそそる言葉である。優れた題材だから、素直に順当に使えば良い歌ができそうだ。
しかし、「想定は超えるためにある」と思うのは私だけではなかったらしい。
データベース「闇鍋」の近現代短歌データから「泣きながら」を抽出してみたら、「何じゃこの展開は」というビックリ歌が少なくなかった。(笑)以下、分類しながら歌を紹介する。
(2018年5月30日)
※51はけっこう多いほうである。
例えば「叫びながら」はたった2首しかない。
「叫びながら」は音数が悪いかもしれない。(6音の語は5音句の初句と3句の位置には使いにくい。)
そこで、「叫びつつ」「おらびつつ」も混ぜてみたが、それでも10首しかなかった。
追記:「笑いながら」or「笑いつつ」も検索してみたら20首しかなかった。
それは、
泣くに至ったいきさつを語らない歌が圧倒的に多い、
ということだった。
おもしろい現象だと思いませんか。
「泣きながら」は、現在のさまを詠むのに適している語かもしれない。
それに、いきさつの説明は短歌の表現になじまず、せいぜいちょっと暗示するぐらいが妥当なのかもしれない。
※ちなみに、私も、探してみたらすでに2首も詠んでいた。
五里霧中泣きながら蛇振り殺しこの世はいやだあの世もいやだ『回文兄弟』
僕は昔気質だ君が泣きながら産み散らかした卵を売るのさ『潮汐性母斑通信』
歌の出来不出来はともかく、どちらも、泣くに至ったいきさつよりも、泣きながら何かしているそのさまから、追い詰められて壊れかけている様子を描写する、というタイプの歌だなあ。
「泣きながら」は、日常ごく普通に使う表現である。
でも、
〝普通に使う〟表現が必ずしも短歌の中でも〝普通に使〟われるわけではない。
歌人は案外このことに無自覚で、短歌とその他の場面とで、無意識に器用に言葉を使い分けている。
〝普通に使う〟表現が必ずしも短歌の中でも〝普通に使〟われるわけではない。
これは事実である。
この事実は、例をあげて説明すると、そのときはわかってもらえる。
逆に言えば、用例をあげてしっかり説明しない限り、なかなかわからなくて、
すぐ忘れられちゃうような、世話のやける事実だ、ということだ。
ただ泣くのでなく、泣きながらなにかをする。これは冷静でない状態だ。
そのうろたえぶりなどを如実に表す具体的行動を描くと、心の壊れかかっているさまが強調される。
こういう状態の具体的な表現は、なぜか美意識をくすぐられる場合さえある。※1
上記の2首の人物描写は、描かれている行為そのものも印象的な絵になっているが、心が壊れかけていて、それが決壊するダムとか、雪崩のはじまりとか、すごい勢いで散る桜とか、大迫力で美しく崩れはじめるものみたいな感じを伴っている。
短歌には、「悲惨なものを美しく描いて言葉の中で救う」というタイプの歌がある。けれど、上記の2首は救いでなく、むしろ耽美的であるように見える。※2
※1 短歌じゃないけれど、八百屋お七なんかすごく絵になる。人がこわれかかるさま、ひどく取り乱すさまを美意識で受け止める、というと奇異に聞こえるが、そんなに珍しくないかもしれない。
※2 穂村は「泣きながら」が好きなのか、私の手持ちデータだけで5首もある。他にもまだあるかもしれない。
この作者は、形象がみごとに極まる姿を遠慮なく捉える幽かな「人の悪さ」が持ち味だ、とあらためて思う。
さっきの穂村のまなざしから耽美性を取り除くと、こういう感じの捉え方になるかもしれない。
さっきほぼ穂村の歌だったが、とにかく「泣きながら」には崩壊する危うさというイメージがあることは確かだろう。
だから自分を拾い集める、という連想脈がたぐられるはずだ。
心が崩壊する歌があるなら、その逆に、泣きながら沈静化して収束に向かう行為を詠む歌もある。
※私の近現代短歌データの中の「泣きながら」でいちばん古い例。 感極まり方がものすごい。(ハイネもびっくり?)
夢の中で泣きながら何かする、という歌では、切実さや悲しみが薄く、幻想的な歌になる。
夢と書いてなくても、非現実的な味わいが魅力であるような歌群もあるので、ここでは、乱暴な言い方だが「シュール系」と呼んでおこう。
「泣きながら」の歌にありそうで少ないのが、悲しみまたは痛みそのものの表現だ。
さっきカケラを集めるとか沈静化をはかるとかの歌を紹介したが、今ある悲しみまたは痛みそのものを味わう、という歌が案外少なかった。
ことに、痛みに由来して泣くとなると、更に少なくなる。
何かしら泣きたいほど悲しいこと(訃報とか)があり、それを話す相手もいなくて、昼食を食べながら泣けてきてしまう。味が感じられず、でも口の中は変に敏感で、ご飯粒がぞくりぞくり歯に触る感触が気持ち悪い。
私は最初このように解釈したが、少しコミカルな、次の解釈2のほうが好きだ。
「歯痛に泣きながら食事をしている」場面を描写し、痛みというもの、そのぞくりぞくりするいちいちを、素直に受け止めるさまを詠んだ歌。
痛む歯は敏感だ。ご飯の一粒一粒を感じるという描写は具体的で印象深い。大人は普通歯が痛いといって泣かないが、「ひとり」で誰にも見られていなければ、一口ごとに子どもみたいに泣くかもしれない。
解釈1でも2でも、あるいは第3があるのかもしれないが、この歌でいちばん重要なのは悲しみにしろ、痛みにしろ「泣きながらぞくりぞくり受け止める」迫力である。
「泣きながら」という語は、こういう迫力ある表現に適している。だから、多くの歌人がそのように使っているのだと思う。
「泣く」に至ったいきさつに重きをおいている歌は、思いのほか少数で、なかなか見つからなかった。
ストーリーのある連作にする、あるいは詞書を付すなどすれば、歌のなかにいきさつを書かずにいきさつを提示できる。
2011年3月11日の東日本大震災の体験に基づく歌であるとわかるように発表されている。
この歌を含む一連はすべてその震災のことを詠んでいる。だから作者の意図と極端に違う解釈をする余地はない。
ただ、私は、多くの歌を歌集で読むわけでなく、いただいたデータを読まずにいったんデータベースに投げ込んでいて(データベースに自分で入力することは稀である)、この歌も、「泣きながら」というテキスト検索の結果、単独状態で出会った。それでも何を訴える歌なのかは、ある程度はわかったのだった。
震災の歌、それも3・11と特定はできなかった。しかし、車ではいけない場所に「お母さん」がいて泣きながら呼ぶような事態であることはわかる。「事故や災害に巻き込まれた近親者が、まだすぐそこで生きているかもしれないのに、助けに行けない、近寄れないというふうに隔てられた悲痛な状況」であるらしいとわかる。
ゆえにこの歌は、単独でも、特殊な隔てられ方の悲痛な状況ということは暗示されている。
この歌の場面は3.11という巨大な事実群のなかに属す。
けれども、一つ一つの場面は、事実群にまぎれさせたくないほど重要なのだろう。だから詞書にせずに大切にして一つ一つの歌に詠み分けたのだろう。
たとえ連作でも、この歌のように、ある程度は各歌の独立性が必要であると思った。
この歌は、「泣きながら」でなく「泣きつつ」なので対象外なのだが、気に入ったのでいれておく。
「かばん」歌会で次の歌を見たとき、「泣きながら」を使う短歌には、その泣いている人の〝いかにも壊れた感じ〟を描写する歌がよくあるような気がした。
その検証のため、「泣きながら」の歌を集めてみて、このアンソロジーができた。
【step1】シリアスかコミカルか?
(A)認知症など脳機能障害が進行する叔母が、小学生用のドリルも難しくなり、自分の状況を嘆き恐れているさま
(B)叔母が甥か姪の宿題を手伝わされている、という漫画っぽいシチュエーション
この歌は (B)と受け止めるにはコミカルな感じが足りないと私は思った。だから(A)と受け止めるのが妥当だと結論づけた。
【step2】キャラの造形か現実のなまなましさか?
だが問題は「叔母」をどう受け止めるかだ。
(単なる事実、というのは困るけれど、少なくとも母とか姉とかよりは少し距離のある血縁者--「中距離血縁者」なんて言っちゃおうかな--ということは確かだ。)
(X)心の崩壊のありさまを「叔母」という中距離血縁キャラを使って描いている
(Y)叔母(か、それに近い中距離血縁の実在の人)の生々しい現実を報告している歌
※(Z)その他の解釈もあり得るだろう。
私は最初、(X)で受けとめ、造形された心の崩壊のさまを鑑賞する歌なのだろうと思った。
※そういう歌のほうが多いことはすでに上の方で書いた。
「叔母」の語感にある微かなホラーの香りを生かして幼児に戻っていく恐ろしさ強調した歌だと解釈し、その上で、「叔母」と「ドリル」の微妙な付き具合、離れ具合が良いと思ったのだった。
だが!
しばらくして、(Y)と受け止めるほうが自然だ、と思いあたった。
なぜなら、ドリルと言えば数ヶ月前、脳障害の家族の介護をしているある著名人の話が報道され、小学生用のドリルはそのキーアイテムの一つだった(その話では、二年生のではなかったけれど。)のを思い出したからだ。
そういうふうに厳しい現実問題を生々しく報告しようとしている歌だったら、ホラーだなんて言ったら失礼だなあ。困った困った。
歌の状況(A)(B)と叔母の解釈(X)(Y)を単純に組み合わせただけでAX 、AY 、 BX 、 BYの4通りの解釈がある。
※しかも(Z)その他の解釈もあり得るだろうし。
どれを採用しようかと惑いつつ、歌会で作者はその場にいたけれども、意図は問わなかった。
普通は誌面で歌だけと向き合うものなのだから、(A)(B)も(X)(Y)(Z)も、読者自身が自分に対して決断を下すしかない。
作者の意図と読者の解釈がかけはなれるのは構わない。
が、解釈内容によっては失礼になってしまうような事象は、作者の意図と読者の解釈の乖離を回避したいものだ。
作風の定まった有名な作者の歌ならば、読者は迷わないかもしれない。だが、そんな作者は少数である。
読者側の解釈の幅が広いことは抗えない事実なのだから、例えば【step1】ならコミカル感の濃度調節など、受け止め方を判別できるようななんらかの要素で絞り込む配慮はしたほうがいいと思った。
私は、自分では作風が定まっているつもりだ。でもそんなこと誰が知ろう。(もし私が詠むなら、【step1】は(B)として強調する。【step2】は絶対に(X)である。事実を歌の拠り所にしない主義だ。)
(Z)その他の解釈もあり得るだろう。いままとまらないのだが、(A)(B)×(X)(Y)という論理空間でない捉え方がありそうだ。
本日(2018年5月末)はここまで考えました。他に良い用例や考えが出てきたら追記します。
2018年6月1日、内容は同じですが、文言を微修正しました。
2019・1・16追加
穂村弘『水中翼船炎上中』2018