歌が事態を好転させたという逸話や伝説を集めました。
こういうのを「和歌の徳」といいます。
行きかかる来かかる水のはねかかる足軽いかるかる悲しがる
下女がまいた水がお侍の着物にかかってしまった。怒ったお侍が「そこへなおれ、手打ちにいたす」といきまいている場面。
折よく蜀山人が通りかかって、こう詠んだところ、あたりの人々がどっと笑って、手打ちになんかする雰囲気ではなくなってしまった。
「ある」を畳み掛ける滑稽、身分の低い侍が弱い女性にいばっているという指摘、加えて、「かる」というのは『仮名手本忠臣蔵』にも出てくる名で、「手打ちだなんて、 お芝居じゃありまいし」となだめる効果もありそうだ。
一富士に鷹匠さんになす粗相(そそう)あはれこの事夢になれかし
旅籠に鷹匠の一行が休んでいたところ、ある僧が誤って鷹をおどかしてしまい、騒動が起きてしまう。
この鷹匠は「御鷹匠」と言って幕府のお役人、鷹もただの鷹ではなく「御鷹」だった。
鷹匠はひどく腹をたてたが、幸い御鷹も無事であったので、僧が、上の歌を詠んだら許してくれた。
「一富士二鷹三なすび」をうまく詠み込んであり、縁起もいいから、いかりをおさめないわけにはいかなかったのだろう。
「歌に免じて」という物事の解決法があったのだ。
秘蔵の常世の松は枯れにけり己が歳を君にゆづりて
秀吉の気に入っていた松が枯れてしまったとき、曽呂利新左衛門が詠んだとされる歌。
「松は寿命を殿にゆずって枯れたんです。これはめでたい事なのですよ」という縁起なおしである。
「齢を君にゆずる」とするものが古歌にはけっこうある。
たとえば定家にも、
「わが道をまもらば君をまもるらむよはいはゆづれ住吉の松」
(私たちが和歌の道を守れば、和歌を好む後鳥羽院を和歌の神である住吉の神が守ってくれて、
社の松が齢をゆずってくれるだろう)がある、と知られていた。
歌で秀吉を天皇と同じに扱うのだから、縁起なおしと同時に、ご機嫌をとる歌でもあったのだ。
なお、曽呂利新左衛門は実在の人物ではないらしい。朝鮮出兵に夢中になる秀吉を、
「太閤が一石の米買ひかねて今日も御渡海明日も御渡海(五斗買い)」
といさめるなど、トンチ話で有名である。
一方、こうしたエピソードのなかの秀吉はしばしば、すぐに不機嫌になる世話の焼ける殿様だ。
側近が知恵をしぼるのを楽しんで、わざとむくれて見せているようでもある。自分のために詠ませた歌で機嫌を直すなんて、いかにも殿様らしい贅沢ではないか。
その秀吉も、木下藤吉郎時代は立場が逆だった。
ある元日、信長のお膳に箸が片方しかなかった。
さあ大変。
「誰のしわざぞ」と怒るのを、秀吉が「それは諸国を“かたはしどり”になさるべき瑞相です」と言って、信長の立腹をしずめたという話がある。
月毛には心にかかる雲もなしよしあしそとて何か捨つべき
上記の曽呂利新左衛門によく似た伝説的逸話を持つ実在の人物がいる。細川幽斎だ。才知で秀吉を喜ばせた逸話がいろいろ伝えられている。
秀吉が薩摩に出陣するとき、立派な月毛の馬が献上された。ところがこの馬に、毛並みの良くないところがある、と言う者がある。
すると幽斎が、「古来歌は凶を転ずることがあります」と言って、縁起直しに詠んだのが上の歌。
「月毛といえば月にかかる不安な雲はなく、つまり心にかかる事もないという吉兆であって、
毛並みのよしあしは気にするな」
というような意味だろう。秀吉が喜んだのは言うまでもない。
「殿様の機嫌をなおす」は話のネタとして好まれたのだろう。似たような話がまだある。
朝鮮出兵で、さあたくさん兵を集めようという折、梨が献上された。
こんなとき「なし」では景気が悪いと、例によって秀吉は不機嫌になる。
そこでかの幽斎が、とっさに 縁起直しの歌を詠んで丸くおさめた。
味方にはつはものばかり蟻のみのよする敵はなしとこそ思へ
(「なし」とは、敵が“蟻のみ”で、恐るるに足る敵“なし”という意味だと思いましょうよ)
歌で偉い人の怒りをしずめる話は万葉集の昔からある。
安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が念はなくに
(安積香山の影まではっきり見える山の井みたいに、あなたに対する私の心は浅くはありません)
陸奥の国に遣わされた葛城王が、役人の接待の不行き届きに機嫌が悪くなった。
すると、ある采女が盃と酒を持ち、上の歌を詠んで怒りをしずめたという。
さらに古事記にも似た話がある。
三重采女が捧げ奉った大御盞に葉が入っていたのに腹をたてた雄略天皇が、彼女を打ち伏せ刀を頸にさし当てた。ずいぶん怒りんぼうな天皇がいたものだ。
三重采女は即座に、「纏向の日代の宮は云々……」と、みごとに長歌を詠んで許されたそうだ。
即座に長歌ってすごくない?
木と竹とあわせる物は底が親 たが何いほと侭にして桶
底=其処、誰が=箍、桶=置け
桶屋で、母親と息子が喧嘩をしているとき、家主がとりなしに詠んだという一首。
底=其処、誰が=箍、桶=置け、という、桶の縁語がたくさん入っていて、
「親は木と竹をまとめる桶の底のようでなくちゃね。誰が何を言おうと聞き捨てておきなさい」
というようなことをいっているようだ。
誰かが息子の素行について母親に告げ口でもしたのが発端なのだろう。
みかり野の我は雉とぞ成りにけるけんけん地にてほろほろと鳴く
太閤検地では、あの細川幽斎も、担当地域を検地して回ったらしい。
エピソードの世界では、歌の才だけで秀吉に仕えているような印象だが、普通の仕事もあったわけだ。
その取り調べのきびしさに音をあげたある寺の住持が、ひざまづいて上の一首。
「検地の調べのきびしさに、私は雉のようにほろほろ泣けてきます」
という泣き落とし。幽斎はこの住持の申立てを受入れたという。
こういう話の真偽はあやしい。
しかし、幽斎は当時ただ一人の「古今伝授」の継承者であったことから、命拾いしたことがある。
歌に恩があるから、歌で許しを乞う者がいたとしたら、金品よりは効果的だったかもしれない。
なお、ケンとかホロとかは雉の鳴き声で、けんもほろろ、つっけんどん、という言葉は、どちらも雉の鳴き声に由来するものそうだ。
老いはてて雪の山をばいただけどしもと見るにぞ身はひえにける
『拾遺和歌集』にある話。
大隅の国のある老人が笞刑になるところを、 上の歌をと詠んで、許してもらったという。
白髪を雪に例え、縁語である霜と笞をかけ、笞を恐れて震えるのを「冷える」と言い換えていて、ずいぶんうまくできた歌だ。
毛利元就に似たパターンの話がある。厳島合戦の捕虜を皆殺しにした際、歌を詠んで命乞いした二名だけを許した、というのだ。
アラビアの説話集『千夜一夜物語』では、夜毎に乙女を侍らせては殺すことにしている王に召されたシェエラザードが、おもしろい話を千一夜続けて、ついに王の殺意を失せさせる。
日本ではそういう気の長いことをしなくても、歌一首で首がつながった。(笑)
※「歌に免じて許す」という習慣はなくなったみたいだ。
いまでも、裁判のときに被告短歌が紹介される例があるが、少なくとも掛詞のトンチで状況を言い換える、なんていうのは、今では全く通じない。だから被告人の詠むのはたいてい殊勝な歌で、それで多少は情状酌量を得られるのかもしれない。
昔の逸話の場合、「歌で許される」のは、必ずしも同情を得るためだけではなかった。和歌にはなにがしか神聖さがあり、工夫をこらしてうまい歌を詠むことは和歌の神に対する手柄であり、和歌の神に免じて許す、ということだったのだろうか。
薩摩潟沖の小島に我ありと親には告げよ八重の汐風
思ひやれしばしと思ふ旅路にもなほふるさとはこひしきものを
平家物語の名場面のひとつだ。鬼界ケ島に流された康頼、成経、俊寛。
俊寛以外の二人は助かりたい一心で、熊野詣をまねて熱心にお祈りなどをしていた。
すると二人は、不思議な夢を見たり、
「千はやふる神にいのりのしげなればなどか都へ帰らざるべき 」
(神に熱心にお祈りをして都に帰れないということがあろうか、必ず帰れる)
と、虫喰いで(!)書いてある熊野神社の葉が飛来したりした。(神様の手段はすごいなー)
これに励まされた康頼は、千本の卒都婆を作り、名前などとともに上記の歌を書いて、「一本なりとも都へ伝へてたべ」(一本でいいから都に私たちの思いを伝えてくれ)と流す。
これはちゃんと都に届けられ、康頼と成経は許される。
卒都婆に短歌を書いて投げ瓶のように使うというアイデアも奇抜なら、葉に虫食いで神託を書いてよこす神様もなかなかのもの。
俊寛一人は許されずに島に残されちゃったのだった。
紫の数には入れど染残す葛の袴のうらみこそしる
(紫を許されたはずなのに、袴の裾以外は染め残さねばならないなんて、葛の葉が白い裏を見せることからよく「うらみ」に掛けられるが、まさにそのうらみだなあ)
町人で蹴毬のうまい者が、ついに「惣紫」という免許を得た。これで蹴毬のときに紫の袴の着用を許されるのだ。
ところが結局、町人だという理由で、紫は裾だけしか許されなかった。彼は嘆いて、「うらみ」に掛かる葛の葉を、さらに袴と掛ける上記の歌を詠んだ。
するとこの歌に免じて、彼は特別に全部紫に染めた袴を許された。
上の決定にたてつくのは良くないのだが、うまい歌でソレトナク言うのは逆に賞賛され、超法規的効果があったようだ。
唐土(もろこし)の宰予は昼も眠りけりせめて与斎は許し給はれ
主君に近侍して話相手をつとめる才知にたけた者を、“咄(はなし)の者”といった。彼らの才知を伝える話もある。
さる大名に召しつかわれている与斎(よさい)という小坊主が、夜詰のときに居眠りをして叱られた。
すると“咄の者”が、上の歌を詠んでとりなした。
孔子の門弟の宰予(さいよ)が昼に居眠りをして師に戒められた、という論語の故事から、宰予と与斎は名が反対だし、夜の居眠りは許してやってほしいという歌だ。
先にあげた幽斎にも、茶碗をこわした坊主を歌でとりなしたという話があり、「坊主を歌で助ける」という小咄の類型があるようだ。
殿様だって、いつも怒っていたいわけでもないのだが、甘いばかりではしめしがつかない。うまいトリナシがほしいときもあっただろう。
「許してやってほしい」とストレートに言われたのでは、臣下の意見をやたら受け入れるようで格好がつかないが、「歌に免じて許す」なら面目が保てるし、ちょっとかっこいいのかもしれない。
この寺の時の太鼓は磯の浪おき次第にぞ打つといふなる
殿様自ら歌を詠んで、下の者の失敗を許した話もある。
将軍足利義輝が、京都の四条道場というところに陣をとった際、僧が寝ぼけて九つのときに打つべき太鼓を、七つのときに打ってしまった。
呼び出された僧が、折檻を恐れおののきつつも正直にわけを言うと、殿様が上記の歌を詠んで許し、僧に銭を与えたという。
「沖」と「起き」、「浪打つ」と「時を打つ」が掛けてある。
銭まで与えたのは、おまえの居眠りのおかげでうまい歌が詠めたということだろう。
こぬ人を待つ井(胃)の浦の夕飯に焼き塩鯛の身を焦がしつつ
幽斎の家来、松井佐渡守の話。
料理人が料理に手間取り、しかも塩鯛を焦がしてしまって、ひどくすまながったとき、上の歌でなぐさめた。
古歌の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくや藻塩の身もこがれつつ」をもじって、待たされても焦げていても、それをネタにしてこんな冗談歌が詠めるぐらいだもの、俺はちっとも怒っていないから気にするな、と言っているのだ。
紙に人の目を書いて釘を刺したものが麻布稲荷の神発見された。
ぞっとした神主がそれを取り捨てて、
目を書て祈らば鼻の穴二つ耳でなければきく事もなし
(「人を呪はば穴二つ」ということわざを掛け、耳じゃないから聞かない、つまり呪いは効かない)
と書いて貼っておいたところ、次の日、今度は耳を書いて釘を刺してあった。
これも取り捨てたが、 このときは智恵内子(狂歌師の一人)が、
目を耳に返す返すも打つ釘のつんぼう程も猶きかぬなり
の歌を詠んで(「つんぼうほども利かぬ」は当時流行していたフレーズ)貼りつけ、呪いをくじいた。
すると相手はしつこく、今度は藁人形の一面に釘をさしたものを置いていったため、
こんどは智恵内子の夫である元の木網が一首詠んだ。
稲荷山きかぬ祈りに打つ釘は糠にゆかりのわらの人形
藁は糠に縁のあるもので、「糠に釘」は効果がないよ、とやっつけた。それでやっとあきらめたらしく、いたずらが止んだという。
賀朝法師(比叡山の法師らしい)が人妻のもとに忍んで通っていたところ、女の夫に見つかってしまった。そこで一首。
見投ぐとも人に知られじ世の中に知られぬ山をみるよしもがな
夫の返歌。
世の中に知られぬ山に身投ぐともたにの心はいはで思はむ
なんで返歌なんかすんの。(笑)
カッとなって拳を振り上げたようなときも、歌心のある者にとって、歌が返せないのは恥なのだ。だから腹立ちを抑えて歌を詠む。間男のうまい作戦、という話。
倉の内にいかなる河のあるやらんわがおく質の流れぬはなし
美濃に宗湖(そうこ)という連歌のうまい男がいた。貧しくて、質屋においた小袖を受けだすことができないうちに冬が来てしまった。
そこで、上の歌を書いて質屋に送ったら、
「詩をつくって酒を買ったという盧山の遠公(中国浄土教の創唱者慧遠)のようだ」
と言ってくれて、小袖をもどしてくれたという。
柳屋という刃物類を扱う店があった。主人は禅学を好んでいた。
ある日禅僧が来て、毛抜きを手に取り、「これは喰うか」と尋ねた。「喰う」とは毛抜きがしっかり毛を挟むという意味である。
禅学好みの主人が 「本来空」(万物は本来空だから毛抜きももとより喰うよ) と答えた。(ちょっと物知りを鼻にかけたわけだ)
すると禅僧はこう詠じて、毛抜きを持っていってしまった。
空ならばただくれなゐのはな毛ぬき柳が見世は見取なりとも
禅語に「柳は緑、花は紅」というのがある。屋号の柳屋の緑を見取(好きなものを選ぶ)、花は紅を「くれない」とかけ、「ほほう、ご主人は禅語を知ってるんだね。ハナ毛抜きはただではくれないものだろうが、屋号が柳屋だから見取でいいよね」というわけだ。
これなら毛抜きの一本ぐらいただでやってもいいかもしれない。
御無心はむかでの手ほど申せどもまたこのたびも俵十たべ
(もうむかでの手ほど幾度もお世話を受けていますが、むかで退治をした俵藤太じゃないけど、今回も俵を十ばかり下さいな。)
ある者が嵐で被災し、ふだん贔屓にしてくれる金持ちに米俵を無心してこう詠んだ。 調子のいい奴である。
『醒睡笑』にある話。この歌で米俵をもらえたかどうかまでは書いてない。
摩訶般若はなみ女の奇特かな 宗祇
一二も済んでさんの紐とく 宗長
難産で大騒ぎしている家のところで、通りかかった飯尾宗祇と弟子の宗長がこの句を詠んだら、とたんに無事生まれたという。
御伽草子の『和泉式部』では、道命という男が和泉式部に惚れ込んでしまう。
そこで柑子売りに化け、和泉式部の侍女に、一首詠んでは柑子をひとつ渡す、というふうにして、二十首ほど数え歌にして恋心を詠んでみせる。
一つとやひとりまろ寝の草枕袂しぼらぬ暁もなし
二つとや二重屏風の内に寝て恋しき人をいつか見るべき
三つとかや見ても心の慰までなど憂き人の恋しかるらん (以下略)
これに感心した和泉式部が、この男のあとをつけさせ、後に自ら訪ねてゆくとか、その後、道命は実は和泉式部の子だったとかいう奇妙な展開をしてあきれかえるのだが、少なくとも柑子売りのこの場面はかっこいい。
卑しい者が身分の高い女に歌で勝って結婚するといった、逆シンデレラ的な昔話が各地にある。これは「兵庫ぶし」にある話。
人夫の利左衛門がお姫様白滝と歌を詠み合う。
まず、白滝姫。
雲たにの濁りかからぬ白滝を心なかけそ山田おのこ
(雲や谷の景色で濁るということのない白滝に心をかけないで下さい。山田のおのこよ)
対する利左衛門。
みなづきの稲葉の露に焦がれつつ山田に落ちよ白滝のまえ
(水無月の稲葉が露に焦がれるような気持ちです。どうぞ山田に落ちて下さい白滝様)
この歌で利左衛門はご褒美に白滝様をもらったんだそうだ。
小机はまづ手習いの初めにていろはにほへとちりぢりにせむ
(小机といえば字の習いはじめで、子どもみたいに弱いだろう。そら「いろはにほへと」の「ちりぢり」に逃げまどわせてやるぞ)
これは太田道灌が小机城を攻めたとき(その時七歳だったと書いてある本もある)詠んだとされる歌。これで沈みがちだった兵の士気を鼓舞したという。
夜の海辺を行軍するときに、真っ暗で海の満干がわからず困ったことがあった。
道灌は「潮は干たり。かくかくと詠める歌あり。千鳥の声遠く聞えつ」
(潮は干いている。こういう歌がある。千鳥の声は遠く聞こえる)と進言した。
その根拠の「かくかく」の歌は、浜千鳥の鳴き声の近いか遠いかで潮の満干がわかる、というこの古歌だ。
遠くなり近くなるみのはまちどり鳴く音に潮の満干をぞ知る
別の夜、こんどは利根川を渡らねばならなくなったが、水深がわからず危険だった。
このときも道灌は、「かくかくの歌あり」とちょうどよい古歌を思い出す。
底ひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て
要するに浅いところは波がたつというわけだ。みんな波音の荒いところを選んで無事に渡れたという。
※太田道灌といえば、かつてはコロンブスらと並び称される重要人物だった。
「太田どかんが破裂して、山からさいふがコロンブス、さいふの中はナイチンゲール、お山の鐘がリンカーン、お猿のけつはマッカーサー」という言葉遊び歌のなかで。