ちょろぱ

まじない

おまじないの短歌のコレクションは、「はじめちょろちょろなかぱっぱ」 (集英社 1400円)に収録したため、当面、本に収録できなかったものを公開します。(本が入手しにくくなりましたので、少しずつ追加しています。)

おまじないの歌

おまじないは、圧倒的に「行為」です。

長尻の客を帰すために箒を逆さに立てるとか、霊柩車を見たら親指を隠すとか、人形に釘を刺すとか・・・・・・。

その際に呪文を唱えることもありますが、呪文が短歌の形をしているものは少ないようです。

このコーナーでは、その少ない短歌を中心として、その他の七五音が基調の定型詩を集めています。(そうでないものも集まってしまうので、結局書いてあります。)


●治療の歌

★皮膚病を治す

土もなく水もたまらぬこの土地に何とて草が生えるものかな

※これを三唱して草刈鎌で瘡を刈り取るまねをする。「呪術の本」(学研)で見つけた歌。

なお、「瘡」はクサと読み、「草」に通じ、牛は草を食べる、というプロセスで、皮膚病には「牛」の字が効くことになっている。

患部に牛の字を書き、「ウシウシ草食ってくれ草食ってくれ、アビラウンケンソワカ」と唱える方法もある。

別のところで教わった歌だが

東山逢坂山の谷かづら根切れば枯るるる

というものもある。

★火傷したとき

猿沢の池の大蛇が焼け死にてその葬りを蛸がするなり

これを三度、口のなかで唱えて冷水をかける。「蛸がするなり」がおもしろくて、火傷の痛みや恐怖をやわらげてくれそう。

★喉に骨をさしたとき

鵜の鳥の羽がいの上に觜置きて骨かみながせ伊勢の神風

これを三べん唱えて撫でると抜けるという。


★血止め

父の血の道母の血の道父の血の道血の道止まれ ナムアブラウンケンソワカ

父と母との血の道は血の道止めるその血の道は

等々、地方によって類歌がいくつかある。(「日本俗信辞典」)


★瘡(かさ・くさ)を直す

春の日の永きに草も刈り捨てんとく刈り尽くせ庭の夏草

と書いて藁とともに焼く。

土もなく水もたまらぬこの土地に何とて草が生えるものかな

と患部に向かって三回唱えて草刈鎌で刈るまねをする。

(「日本俗信辞典」)

★目にゴミが入ったときに

目の曇りやがて晴れゆくいほう山これぞ日本一ばたの薬師如来

なむあぶらうんけんそわか

●キツネによる夜泣きを止める

猿沢の池のほとりに鳴くキツネあのキツネ鳴くともこの子泣かすな

あしはらやちはらのさとのひるぎつね ひるはなくとも夜はななきそ

赤ちゃんの夜泣きはキツネのしわざであるという俗信があり、これをやめさせるための歌が各地にある。

唱えたり、紙に書いて貼ったりするもので、男の子なら左の耳、女の子なら右の耳から歌を吹き入れる、

というふうに、詳しく用法が決まっている場合もある。

※冗談ですが、『古今集』にある次の歌。これなど“咳止めの歌”にならないかな。

滝つ瀬のはやき心を何しかも人目つづみのせきとどむらむ


●犬よけ

われは虎 いかになくとも犬はいぬ 獅子の歯噛みをおそれ ざらめや

犬を「去ぬ」(いぬ)にかける。

「戌亥子丑寅」(いぬいねうしとら)と唱えつつ左手を親指から順に小指まで折ってこぶしを作ってこう唱える。 「呪術の本」(学研)で見つけた歌。


●カラスが縁起の悪い鳴き方をした

あほうあほうと鳴くは吉野の森カラス聞く人栄えカラス喜び

闇の夜に鳴かぬカラスの声きけば生まれぬ先の父ぞ恋しき

カラスの鳴き方がなんとなくいつもと違うのを「カラスの鳴きが悪い」と言い、よくない事のおこる前兆とされている。こういうとき唱える呪文歌。

「闇の夜に」の歌は、百人一首を始めるまえの読み手の発声練習の歌としても知られている。


●蜂に襲われたら

わだの原こぎいでてみればひさかたのくもりにまごう沖津白波

蜂に襲われたら唱える歌だそうだ。が、試してみないほうがいい。


●蛇よけ

まだら山まだら わが行く先におるならばやまとの姫に申し聞かせん

蛇よけの歌はたくさんあるが、ナントカ姫が出てくる歌と、「ワラビの恩」うんぬんの歌が多い。

山まだらはマムシ、やまと姫は山みみずで、マムシは山みみずに触れるとからだが溶けてしまうという。

地方によってやまと姫が玉依姫などに変わる。


朝日さす夕日輝く日の本のワラビの恩を忘れたかアビラホレンケンソワカ

昔、蛇が杭に刺さったとき、ちょうどワラビが頭をもたげ、そのはずみに蛇を杭から抜いてくれたことがあり、それが「ワラビの恩」なのだそうだ。


●虫よけ

千早ふる卯月八日は吉日よかみさけ虫の成敗ぞする

これを紙に書いて便所や台所に貼っておくと、うじ虫や悪い虫が出ないという。

さかさに貼ったり、虫の字をさかさに書くのが秘訣とされた。山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』のさし絵にもある。


●羽蟻よけ

双六のおくれの筒に打ちまけて羽蟻はおのがまけたなりけり

羽蟻が出るときにはこの歌を書いて、「フルベフルヘト フルベフルヘト」と唱えて貼っておけば止まるという。由来談がありそうな歌だ。

他に、変な理屈で説得する歌もある

虫扁に義理の義の字を持ちながら人の座敷へ入るは御無礼

●悪い時間に爪を切るとき

天竺に爪の供養が始まって卯・亥・巳・未に爪を嫌はず

「卯・亥・巳・未に爪切るな」と言われているが、どうしても切らねばならないときはこれを唱えれば安全。

●悪い夢を見た時に

見し夢を 漠の餌食と成すなれば 心は晴れて 有明の月

BBS(閉鎖)に寄せられた情報。

荒乳男の狩る矢の前に立つ鹿も違へをすれば違ふとぞ聞く (吉備真備)

(夢違誦文歌 =悪い夢をたがえる歌・・・荒々しい男に狩りの矢で狙われた鹿でさえも前足を違えて立てば、その矢をそらすことができると聞いている。)


●夕占に立つときの歌

ふなとさへゆふけのかみに物とはば道ゆく人ようらまさにせよ

(・・・岐神・道祖夕占の神様にお尋ねする時は、道ゆく人たちよ、 占いの語を正しく言ってください。)

辻に立って、往来の人の発する言葉で占いをするときの呪文。


●湯浴みをしている間に鐘を聞いた時の歌

宵のかねつかざるさきにゆあみよとみみつまなくにいひてしものを

(日暮れの鐘をつかないうちに湯を浴びよと耳をふさがないで言っておいたのに)


●道で百鬼夜行に会った時の歌

かたしはやわがせせくりにくめるさけ手酔ひ足酔ひ我酔ひにけり

(固い岩だ。私がせっせと働いて作った酒を呑んで、手も酔った、足も酔った、私はすっかり酔ったよ)


●道で死人を見た時の歌

玉やたがよみぢ我行くおほちたらちたらまたらにこがねちりちり

(誰の人魂ですか。私が夜道を行くと、大路をふらりふらりと、黄金も魂も散り散りばらばらになって行くとは・・・意味不詳)


●人魂を見た時の歌

魂は見つ主は誰とも知らねども結びとどめつ下かひの褄

(人魂を見た。その主は誰かわからないが、着物の下前にその魂を結びとめてやった。)


●ぬえが鳴くのを聞いた時の歌

よみつ鳥我が垣もとに鳴きつなり人みなききつ行くたまもあらじ

(冥途の鳥がわが家の垣根で鳴くのを聞いた。皆がそれを聞いた。けれど冥途に行く魂は あるまいよ)


●しし虫の鳴くのを聞いたときの歌

しし虫はここにはななきししらははかししにしづがとにゆきてなきをれ

(しし虫はここで鳴いてくれるなよ。死にそうだというのなら、向こうの家の門前に行って鳴いておれ。・・・「ししらはは」は意味不詳。しし虫は馬追虫のことか。)

「しし」と鳴くのを「死々」と聞きなして、忌んで呪歌を唱える。


●蛇にかまれそうになったときの歌

東や高間の山にふねつくるをろちいくかたのきまへをかし

(東方の高間山に酒樽をすえて酒を呑ませてあげるから、大蛇よ、行く方向をそちらに変えてください。

・・・「ふね」は酒樽のこと。)


●胸病誦文歌

胸の上の植木をすれば枯れにけりこひの雨ふれ植木はやさむ

(胸の上に植木をしたらたちまち枯れてしまった。こいの雨よ降ってくれ。植木を生やしたのだから。)

胸の病気になったときの歌。胸に棟、恋に乞いがかかり、もとは雨乞いの歌らしい。


●酒を醸造する時の歌

中臣の太祝詞ごとと言い祓へあがふいのちも誰がためになる

(中臣の太祝詞を唱え穢れをはらってお酒を供えた代わりに長く延ばしていただいた命も 誰のためなのだろう。)

・・・もとは、最後の部分が「誰が為に汝」で、誰のためだろう、あなたのためだ、の意だったらしい。万葉集に家持の作とある。


●夜外出するときの歌

やちまたや( )まもりやちまたやゆめがちまたやわがこしなすな

(道の角の神よ、( )を守ってわが子を死なさないで下さい。)

( )内には守ってほしい者の名前を入れるだろう。やちまたとは、 道が八つに別れるところ。


●馬の腹の病気をなおす歌

しらなみをとりしのきみのみとかどにつなぐ我が馬たれかかどはむ

(とりしの君の門前につないでおく私の馬を誰がかどわかすのか。・・・意味不詳)

しほやまにしほづかつくるしほづなにわがうまつなぐうまのはらやむ

(馬が腹を病んでいるので、塩を山のように、塚のようにたくさん盛り上げて、塩の綱でつないでおこう。)

馬の腹の病には塩を薬にした。


●庚申せでぬる誦文

しやむしはいねやさりねやわがとこをねたれぞねぬぞねねどねたるぞ

(けしからぬ三尸の虫は私の寝床を去ってどこかへ行ってしまえ。私は横になったが眠らないぞ。眠らないが横にはなったぞ。)

しやうげらがねたとてきたかねぬものをねたれぞねぬぞねぬぞねたれぞ

(さまたげるものが寝たとみて来たか、決して寝ていないぞ、寝ていても眠っていないぞ、寝ていないが起きてはいないぞ。)

これらは“庚申待ち”をしないで眠るときの歌。庚申(=かのえさる)の夜には、洗髪、髭剃、洗濯、肥料撒き、狩り、漁、肉食、性交などは禁止され、しかも、寝ないで起きていなければならなかった。

道教の“三尸の説”によれば、その晩に眠ると体の中に住むという三匹の虫が天に登って天帝に人間の罪を告げ口するという。だから寝ないでいるわけだが、うっかり眠ってしまったときは、この歌を唱えることになっていた。

「話は庚申の晩に」と言って、ふだんの日は無駄話をつつしむかわり、その日だけはみんなでおしゃべりを楽しんだ。 この日の交わりでできた子やこの日に生まれた子は、泥棒になるとも言われ、石川五右衛門はこの日にできてこの日に生まれたことになっている。

また、この日に生まれた子は泥棒にならぬよう、「金」のつく名にした。そのため夏目漱石は「金之助」と名付けられた。

関連川柳

こらえ性なくて盗人はらむなり

庚申をあくる日聞いて嫁困り

庚申の宵から寝るは世捨て人


●火の用心

霜柱氷の梁に雪の桁雨の垂木に露の葺草

12月12日に12歳の子供がこう書いて台所に貼る。

地方によっては柱や門口に貼るなど違いがある。(「日本俗信辞典」)


●泥棒よけ

泥棒は門より外のほととぎす 家に亭主は有明の月

●戸締りの歌

寝るぞ根太 垂木たのむぞ 梁もきけ 何事あらば 起こせ戸と壁

夜戸締りをするときに、寝ている間の加護を家屋に呼びかける、こんな歌を唱える習慣がある。

地方によって多少文句が違う。

「何事あらば」を翌朝起きたい時刻に言い換えるバージョンもあるそうだ。


●髪切りにあわぬ呪文

ちはやぶる神の氏子の髪なれば切れども切れじ神の力に

江戸時代に、目が覚めてみると髪の毛がざっくり切られていた等の、“髪切り”の噂が 流行した。

これにあわぬための呪文。


●嫌な男と切れる呪文

我念ふ君の心ははなれつる我も思はじ君も思はじ

しつこい“嫌な男”と縁を切りたいときの呪文。(これは俳人の佐々木美季さんから聞いた)

また、俳人の高橋龍さんから、これに関連して、古代には、「我」と「君」と「念」の合わせ文字を器の底に書いて水などを飲むということをしたと聞いた。


●望みの時間に目を覚ます

ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く舟をしぞ思ふ

目覚まし時計のない昔にも、朝寝坊の人はいた。 『古今集』にあるこの歌、三回唱えて寝ると望みの時間に目が覚めるという。寝る前に上の句を唱え、起きてからすぐに下の句を唱えるという方法もある。

人丸やまことあかしの浦ならばわれにも見せよ人丸が塚」と続けて唱えることもあったそうだ。

柿本人麿の歌として流布しているが、本当は小野篁が隠岐国に流されるときに詠んだ歌らしい。


子供のときのこと、目覚まし時計が壊れて困っていると、祖父が、

「六時に起きたければ枕を六つ叩いて寝なさい。ちゃんと目が覚めるよ」と教えてくれた。

ほんとうにちゃんと 目が覚めた。


●いい初夢をみる

長き夜のとをの眠りのみな目覚め波のり船の音のよきかな

作者不詳の有名な回文短歌。

いい初夢を見るために、大晦日に七福神の絵にこの歌を書き添えて、枕の下に入れて眠る習慣が明治時代まであった。さかさに読んでも同じである回文には、なんとなく神秘的な効果を期待できそうだ。舟が無事に港に帰ることを祈る歌だとも言われる。


なお、めでたい夢の順番はこう覚える。

一富士、二鷹、三なすび、四扇、五煙草、六座頭

●猫が帰ってくる

立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

飼い猫がいなくなったら、戸口にこの歌を書いた紙を書いて貼っておくと、きっと帰ってくるという。

在原行平の歌だが、なんとも意外な実用性があったものだ。「まつとし聞かば今帰り来む」という部分が、なんだか新聞の尋ね人みたい。夜更けにその貼り紙を見あげて涙ぐむ家出猫の姿が思い浮かぶ。 (江戸時代の猫は歌の教養もあったんだ!)

いなくなった猫を心配してこのようなおまじないをした江戸時代の人たちの、やさしさや心のゆとりが味わいぶかい。

●なくした針を見つける

清水や音羽の滝は絶ゆるとも失せたる針の無きことはなし

針をなくしたとき、この歌を三遍唱えてから探すと必ず見つかるという。こういう歌はよく昔の大歌人の作ということになっていて、これは小町作なのだそうだ。

(「探す目には見えない」ということがある。「ないない」とあせって探すと目に入らないものだ。だから、こういう行動をしてワンクッション置くのは、それなり効果があると思う。)

関連川柳

針一本音羽の滝で見つけ出し

歌よみをして尋ね出す小町針

●こんがらがった糸をほどく

モシャシャのシャ、シャシャモシャシャ、モシャシャなければ、シャシャもシャもなし

糸がこんがらかったとき唱えながら解くと、容易にほぐれるという歌。

五五七七だから短歌でも何でもないが、すぐに唱え方の要領がわかる。いらだちを抑える効果はありそう。

●自分だけのおまじない

自分だけのジンクスとか、何かありそう。

★検眼表

「ちょろぱ」のご感想でいただいたハガキ。(2003・03・19)

コナルカロフニレコヒニフ

この呪文みたいなものは、検眼表の右端にあるカタカナ。

小学生のころ覚えてしまっていまだに呪縛が解けない不死身の七・五(で覚えている!)。

呪いの効あっていつも視力は2.0だった。」

うーん、これは雑学のところに書くべきかもしれないが。


●行事の歌

★春袋

天地を袋に縫ひて幸いをいれてもたれば思ふことなし

「蜻蛉日記」にある年頭の寿歌。

この「あめつちの袋」は後に、初春に「春」を「張る」をかけ、幸福を多く取り込むことを祈って上下を縫い合わせて作る「春袋」というものになった。 春の縫い始めに袋を縫って歳徳神の供え物にする風習からさらに、新春の貯金始めに巾着を縫って子供に持たせる風習も生まれた。

「いろいろの欲のはじめは春袋」

★産養(うぶやしない)の祝い歌

君が代を七彦の粥七返り祝ふ詞にあえざらめやは

源俊頼の『散木奇歌集』に産養の七夜を祝う歌として載っている。

王朝貴族社会の生誕の儀礼のひとつに「廻粥(めぐりがゆ)」というものがあった。

★名越の祓いの歌

六月の名越の祓いする人は千年の命延ぶとこそきけ(拾遺集)

茅輪潜(くぐり?)という行事で唱えたという。この歌を唱えつつ人形を持って輪をくぐり、人形に息をかけたりし、罪や穢れ、厄災、疫病神などを人形に負わせて、祈祷して川に流す。

同じ行事かどうかわからないが、

水無月の 水無月の 夏越の祓いする人は

千年の命延ぶとこそきけ

輪は越えたり お祓いの この輪越えたり

という歌が、「建久三年皇太神宮年中行事」の六月晦日「輪越神事次第」というものにあるそうだ。

また、別の人から、住吉神社の輪の潜り方は、左・右・左と三回まわり、そのたびに次の歌を唱える、と聞いたが、確認はしていない。

1回目 思ふこと皆つきねとと麻の葉をきりにきりても祓ひつるかな

2回目 水無月の名越の祓いする人は千年の命延ぶとこそきけ

3回目 宮川の清き流れに禊(みそぎ)せば祈れることのかなはぬはなし

(一回目の歌は和泉式部の歌と言われる。)

★菊の宮廷行事の歌

仙人のおる袖にほふ菊の露うちはらふにも千代はへぬらむ

行事の名前は不明だが、菊の綿を使った宮廷行事があり、そのとき唱える歌だという。菊の花を覆った綿で顔や体をぬぐうと不老長寿を保つといわれたらしい。

さらに、この綿を小児の襟首の内に入れると、病気をしないと言われたそうだ。

★若水を汲むときの歌

あらたまの年たちかえるあしたには若やぎ水を汲みそめにけり

若水は立春または元旦の朝に汲む水で、呑めば邪気を払い、無病息災でいられるという信仰があった。これは落語「かつぎや」にある、新年に井戸神に唱える呪文歌。

呉服屋五兵衛という“ゴヘイかつぎ”(縁起を気にする人)の主人が、使用人の権助に、井戸神さまに燈明をあげ、この歌を唱えて、「これはわざっとお年玉でございます」と言ってきなさいと教え込む。

でも権助は、「目の玉のでんぐり返るあしたより末期の水を汲みそめにけり、これはわざっとお人魂」と、ひどく縁起の悪い言いまちがいをするのだ。


●戦勝を願う歌

この御代は西の海よりおさまりて 四方には荒き波風もなし

足利尊氏が、1336年西国の大軍を率いて京に向かう途中、長門住吉神社に立ち寄っておさめた歌。

新田義貞との戦いをひかえていたが、あえてこう歌った。


●のろいの言葉

「この鉤は おぼ鉤(ち)、すす鉤、貧鉤、うる鉤」

『古事記』『日本書紀』の海幸山幸の話には、のろいをかける呪文が出てくる。

山幸彦が、いじわるな兄の海幸彦に借りた釣り針を返す場面で、海神に教わったこの呪文を唱える。

これは「心ふさがる鉤、心くるう鉤、貧しい鉤、愚かな鉤」といった意味で、兄の釣り針の威力を失わせるものである。しかも、後ろ向きで釣り針を手渡すのだが、それは人を呪うしぐさであったという。


●イタコの神おろし

東北のイタコが死霊を呼ぶときの文句。イタコさんごとに文句が違うそうで、以下のようなものだという。

ヤーイナー きょうの水よぶ なんの水よぶ

若き小枝の水よぶ 袖は涙にぬれてくる 裾は露やらぬれてくる

形はみないで声ばかり 姿はみないで音ばかり 七瀬も八瀬も越えてくる

降りて遊ぶや 舞の笏と 物語るかや きたりそうろゆかや

●死人をよみがえらせる

一二三四五六七八九十

と唱え、“布留辺由良由良”とする。

これは、病気や災難からのがれ死人さえよみがえる、という古代の呪法で、“布留辺由良由良”の布留は「振る・震る」であって、生き生きと動くことを意味する。

なにぶん古代のものなので、この“布留辺由良由良”が呪文なのかしぐさなのかはわからないが、呪文だとしても、それらしいしぐさを伴っただろうと思われる。

これは空想だが、もしやそれは、『古事記』のアレだろうか。天の岩屋戸に隠れてしまった天照大御神を誘いだすために天宇受賣命が踊る場面。

天宇受賣命が、「胸乳かきいで裳緒を陰に押し垂れ」て、神がかったように踊ると、八百万の神々が喜んで笑う。その騒ぎに、天照大御神が戸を少しあけて覗いたところを、天手力男神が手をつかんで引っ張りだすわけだが、岩戸に籠もるのは死を意味するから、岩戸に隠れた天照大御神を誘い出すのは、死んだ神をよみがえらせることだ。

その天宇受賣命の踊りとは、「胸乳かきいで」て“布留辺由良由良”とする、つまりオッパイを出してユラユラ揺するようなしぐさだったんじゃないか?

●焼畑の呪言

コバ焼くぞコバ焼くぞ飛ぶ虫は飛べ飛べ這う虫は這え這え

コバは焼畑のこと。

焼畑予定地の山の斜面に火入れをする際、そこに生息する小動物に移動を命じる呪言だそうだ。(長崎県)