ちょろぱ

引用・ニセ古歌など

実用としての引用

歌は詠むだけでなく、引用という利用の仕方がある。

歌を引用する場合は、それで自己の主張を強調したり、印象付けたりするという、何らかの現実的な効果が期待されている。

引用は和歌に限らないはずだが、伝説になっているような和歌引用の逸話もあるし、定型詩だから引用しやすいこともあってか、例はわりあい多い。

成功例、失敗例とある。どんな場合に失敗になるのか、よく見比べてほしい。


●子ゆえの闇

そうそう、引用っていえばね。

叔母の高柳美知子は、女性問題や性教育に関わる仕事をしていて、よく講演をする。

そのとき、工夫するのは話の導入部。 「……という歌がありますが」などと言って話をはじめることがあるという。

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな (藤原兼輔)

(親心というものは闇夜でもないのに、子を思うとき闇夜に道に迷うように理性を失うものだなあ)

この歌は、「子ゆえの闇」 「子の道の闇」と、ことわざみたいに短縮されて、近松などにもよく出てくるのヨ、と叔母は言う。

子どもかわいさのあまり理性を失うこと”を一言で言える便利な言葉で、そういう短縮語の使用自体も引用の一種なんだけれども、家族問題や女性問題の講演のなかでこのことを説明しながら歌を引用すれば、昔からある悩みなんだなあということで、共感が得られるのだそうだ。

●この歌が証拠だ

歌にまつわる伝説のようなものが昔からいろいろあるが、

戦国武将にもけっこう歌の逸話がある。

もちろん、ほとんどは実話ではない。

蒲生氏郷は伊達政宗と領土問題で争った折、『拾遺集』の平兼盛(平安時代の人)の歌を証拠として引用し、勝ったという。

陸奥の安達ケ原の黒塚に鬼籠れりといふはまことか

鬼はどうでもいいのだ。

「ほらね、『安達ケ原の黒塚』と平兼盛さえ言っている。そんなに昔から黒塚は蒲生領である安達ケ原にあったのさ」

という主張だ。

実話じゃないだろうが、「都合のいい古歌をよくも見つけ出してきたものよ」という、伊達政宗の苦笑を思い浮かべずにはいられない。

●天皇の歌の政治的利用?

★ 俳人の高橋龍さんがハガキで教えてくれた事例。

平成九年一月二十五日の朝日新聞朝刊の記事。

自民党竹山裕氏が、政府の農業振興策を問う中で、歌会始での、

うち續く田は豊かなる緑にて実る稲穂の姿うれしき

との天皇陛下の歌を紹介し、

「これこそが豊葦原の瑞穂の国の本来の姿だ」と述べた。

質問に立った平成会の大久保直彦氏が、歌の引用は、「憲法で禁止されている天皇の政治的利用につながるのではないか」と異議を唱えた。

これだけ読むと、大げさな感じがするけれども、“引用”には注意すべきケースもあるのだ。

歌の引用は、ウケれば成功、ウケなければ失敗である。

こんなふうにクレームがつくような場に出すのは、政治的利用かどうか以前の問題で、引用者が悪いと思う。

人の言葉を自分の都合に合わせて利用し、権威を借りつつ、自己の発言の責任を曖昧にする。引用が失敗した場合、歌にはなんの責任もないのに、引き合いに出されたために歌の印象が悪くなる。

重要なことはやはり自分の言葉で語りたいものだ。


●何が言いたい? 曖昧な引用

政治がらみで歌の引用は良くないと思うエピソードがもうひとつある。

日米開戦に向けて大きく踏みだした昭和十六年九月六日の御前会議。議題は、戦争を回避するために外交交渉を続けるか、打ち切って開戦準備をするかであった。

昭和天皇は意見を述べる代わりに、 明治天皇の、

四方の海皆同胞と思う代になどあだ波の立騒ぐらむ (明治天皇)

という歌を引用したという。

でも、この歌は意見の代わりになるだろうか??

●蛍を鳴かせた幽斎 (ニセ古歌1)

実際には存在しない古歌を持ち出した例。

秀吉が連歌で、「奥山に紅葉踏みわけ鳴く蛍」という句を出した。これにはみんなあきれた。蛍は現実にも鳴かないが、詩歌のなかでも普通は「鳴かない虫」として登場する。

※「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」(『松の葉』)や「音もせでみさおに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあわれなりけれ」(『閑吟集』)などなど。

同席していた連歌師の里村紹巴は、権力者とのつきあいでは世慣れた人物だったそうだが、それでも、「いくらなんでも蛍が鳴くのはおかしい」と言わずにいられなかった。

(秀吉には、こんなふうに、側近に機知の答えを期待していたずらを仕掛けるという伝説がたまにある。登場人物はみんな実在の人だが、これもそうした伝説の一つなのかもしれない。)

さて、秀吉はどんどん機嫌が悪くなる。

一同が困り果てたとき、細川幽斎が、「古歌に蛍が鳴く例があります」と言って、次の歌をあげた。

武蔵野の篠をつかねて降る雨に蛍よりほか鳴く虫もなし

幽斎が出したこの歌は、場を救うためにとっさに考えた真っ赤なニセ古歌だった。

(この歌によって救われたのは、秀吉ではなく、里村紹巴の方である。)


細川幽斎は、秀吉のなだめ役としての歌の手柄話にこと欠かない武将である。

当時の第一級歌人であり、そのとき日本でただ一人の、古今伝授継承者でもあった。

そのため、石田三成軍に囲まれ、田辺城に籠城した時には、「いま玄旨(幽斉)命おとさば世にこれを伝ふる事なし。速やかに囲みを解くべき」という後陽成天皇の口ききで救われたのだそうだ。

●百合が「ぐなり」? (蛍を鳴かせた幽斎 の続き)

で、誰が付け足したものか、さっきの話はまだ続くのである。(笑)

そんなことがあってしばらくしたある日、秀吉がまた変な句を出した。

「谷かげに鬼百合さきて首ぐなり」

である。

前のことですっかり懲りた紹巴が、顔色一つ変えずに「結構でございます」と言うと、秀吉は、

「蛍は鳴かないが、百合は“ぐなり”していいのか」

とニヤニヤ。

すると紹巴はすまして、「よい例がございます」と次の歌を引いた。

これはニセ古歌ではない。

わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐなり (『新古今集』慈鎮)

●あやしいけど自信ありげだなあ (ニセ古歌2)

ニセ古歌の話といえば上島鬼貫にもある。

ちょっと見には近きも遠し吉野山

という前句に 、

腰に瓢を下げてぶらぶら

と上島鬼貫が付けた。

すると、「吉野山に瓢、そのゆゑありや」ととがめられた。

(ヘンな取り合わせはいけないとされていた。「なんだその取り合わせは。前例でもあるのか?」というクレームである。

鬼貫は、とっさに、

吉野山花の盛りをさねとひて瓢たづさへ道たどりゆく

という出まかせのニセ古歌を出してすっとぼけ、どうにかその場を切り抜けたという。

※今なら、どんな歌を作ろうと作者の勝手だと言い張れるが、昔はいろいろうるさかった。

特に連歌や俳諧はみんなで共同制作するのだから、同席者が「なんだそりゃ」と首をかしげたままでは先に進まない。

それでも、とっさにニセ古歌をでっちあげて真顔で説明すれば、相手が半信半疑で黙ってしまう場合もあったのかもしれない。 あるいは、少々あやしくても、ニセ古歌をとっさに作る技量や機知に免じるという気持ちが働き、追求しすぎると野暮になる、ということもあったのだろうか。

●宗祇に一蹴されたニセ古歌 (ニセ古歌3)

ニセ古歌作戦も、相手が悪いと通じない。

山名宗全が連歌で、川の前句に蓮の句を付けた。

すると、飯尾宗祇が「川に蓮はどうか。証歌(前例になる歌)があればいいが」と言った。

このとき、宗祇と仲の悪い桜井中務丞基佐という人が居合わせて、

極楽の前に流るる阿弥陀川蓮ならでは異草も無

というニセ古歌を例にあげて、山名宗全をかばった。

しかし宗祇は動じなかった。そんな歌は万葉以後歴代の撰集になく、ニセの証歌だろうと一言のもとに退けたという。

●アラ消えちゃった (ニセ古歌4)

※高橋龍さんから教わったが、謡曲の「草子洗小町」はこういう話だそうだ。

明日宮中で歌合せがあるという日、大伴黒主は相手の小野小町の邸に忍び込んだ。小町が歌合せに出す歌を吟じるであろうから、それを盗み聞こうというのだ。

さて、いよいよ歌合せ。小町が自作の歌を詠み上ると、帝はいたく感心した。

すかさず黒主は、「それは古歌にある」と申し立てる。その歌を自分で書き足しておいた『万葉集』の草子を証拠としてさし出したのだった。

この悪だくみに、しばらくは呆然自失の小町だったが、よく見ると草子のその歌の部分だけが墨の色が違い、行が乱れていることに気がついた。

庭に引き入れた小川があった。小町はその清水で草子を洗ってみた。

すると、他はなんともないのに、黒主の入れ筆した部分だけがすっかり消えてしまった。

「かほどの恥辱よもあらじ」と黒主が自害しようとするのを、小町が「歌道に対するあなたの熱心さは誰もが模範にすべきだ」ととどめ、あとは和歌の道のめでたさを讃えて終わる。そういう話だそうだ。(うちに原典がないのです。すみません。)

和歌は悪用しても(そんな例は本当に少ない)許される。この驚くばかりの寛容さは、和歌の世界の特徴のひとつのだ。

●道灌が歌道にめざめたきっかけ

江戸城を築いたことで知られている太田道灌は、歌人としても名高い。歌道を志すきっかけとなったこのエピソードは、特に有名だと思う。

雨宿りに立ち寄った家で蓑を借りようとしたところ、その家の娘が黙って山吹の花を差し出した。

道灌が意味がわからずにいると、家来が「こういう古歌があります」と耳打ちした。

七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき

「実の」を蓑に変えて「蓑がない」と解く。えらく遠まわしな、歌の引用の応用例である。

道灌は、自分の無知を恥じ、これが歌道を志すきっかけになったという。


●「萎れる」のイメージ

説明しがたい風情を、和歌を例にしてイメージさせるというのがある。

世阿弥の『風姿花傳』に、能の批評用語である「萎れる」について、「説明しにくいから」と、歌を引用しているところがある。

色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける (古今集・小野小町)

「萎れる」のは「かようなる風體にてやあるべき。心中に当てて公案すべし」

(萎れるってこんな感じかな、想像してね)

そう言われても、はて、わかったようなわからないような……。

●「わび」の心

利休の茶の湯の師匠、武野紹鷗(たけのじょうおう)という人が、わび茶の湯の心は新古今集の中の定家麻臣の歌だと言ったそうだ。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮

「わび茶の湯の心この歌にてこそあれ」と申されしとなり。(「南方録」)

※「茶道名言集」井口海仙 講談社学術文庫より。


●暗号電報万葉ラブレター

引用プラス暗号の例。 ※高橋龍さんに聞いた話

「月は上りぬ」(田中絹代演出・昭和三〇年)という映画の中で、恋人どうしが数字を電報で打って、ラブレターがわりにしたところがあったという。

その数字はなんと万葉集の歌番号だった。

三七五五と打てば、

「うるはしと吾が思ふ妹を山川を中に隔てて安けくもなし」(中臣朝臣宅守・巻十五)

六六六なら

「相見ぬは幾く久もあらなくに幾許吾は恋ひつつもあるか」(大伴坂上郎女・巻四)

というわけだ。

●西行の出家の動機

西行は若くして出家しているがその動機は謎である。憶測のひとつに、古歌ひとつをたまたま知らなかったためだった、という、すごく眉唾な話がある。

彼はまだ武士だったころ、染殿という女房に恋をした。やっとデートまでこぎつけて、その別れぎわに次の約束をしようとすると、染殿は、「阿漕であろう」とだけ言って去ってしまった。

西行はこの「阿漕であろう」の意味がわからず、出家してしまったというのだ。

では、染殿は何が言いたかったのか。

伊勢の海阿漕が浦にひく綱も度重なればあらわれにけり

昔、阿漕という漁師が禁漁の場所で夜毎に魚をとっていて、あまりに度重なるうちにばれてしまい、この浦に沈められてしまったというのが「阿漕が浦」である。

つまり、染殿は「たび重なれば浮名がたつわよ」と言いたくて、この歌の一部を引用したのだった。

このとき西行はちゃんと意味がわかって返歌をした、という説もあるけれど、ふられたことに変わりはない。