高柳美知子

思い出3-4

思い出すことなど 3 高柳美知子


大塚仲町の家の二階は、八帖と四帖半の部屋が廊下をはさんで向かいあっていました。床の間のある八帖の方は客間で、四帖半が兄の勉強部屋です。正面の、庭に面した窓ぎわに大きい勉強机がすえられ、向って右側のもう一つの窓からは、私たちきょうだいの通った窪町小学校の屋上がよく見渡されました。壁面はすべて、びっしり本をつめこんだ本箱でふさがれていて、天井に近い場所には、画用紙にハシゴと太陽と蛇と人間を線画で描いた絵がはってありました。


今思えば、なんの変てつもない、ごくありふれた勉強部屋にすぎないのですが、幼い者の眼には、不思議な魅力と刺激にみちみちていて、兄の留守にそっと忍びこむことは、当時の私のひそかな愉しみごとでした。


地球儀を回したり、積みあげられた昆虫や蝶の標本箱、押し花などをのぞきこむことも興味深いことでしたが、なによりも私の心をときめかしたのは、第一に、そのたくさんの本でした。


最初は、「よみかた」の宿題をこなすために、『大言海』や『百科辞典』を本箱からひっぱり出していたのでしたが、そのうちに、小説をぬきだして読みふけるようになっていきました。小学生の幼い頭が、なにを、どれだけ受けとめ得たのか、はなはだ疑わしいわけですが、今だに、あの狭い四帖半--といっても、当時の私には、結構広く思えたものです--で、われを忘れて貢を繰ったあの本、この本の装丁、大きさ、紙の手ざわりまでが、今なお、はっきりと思いおこせます。


『若い人』『麦死なず』『天の夕顔』『晩年』『何が彼女をさうさせたか』『蒲団』『如何なる星の下に』『放浪記』『銀の匙』『狭き門』『緋文字』『虞美人草』『一握の砂』『田園の憂鬱』『故旧忘れ得べき』『多甚古村』『女生徒』『右大臣実朝』・・・・・・etc。


思い浮かぶまま、順不同で書き記してみたのですが、実際の本箱には、作者別、ジャンル別、あるいはシリーズ別といったふうに、きちんと整理されておりました。朔太郎やリルケ、西条入十といった詩人たちの詩集の他に、アルスの発行による北原白秋の全集がでんとあって、赤い皮の表紙のぜいたくな肌ざわりが気に入った私は、わからないながら、よく引っぱり出して眺め入ったものです。もっとも、この白秋の本は、おそらく、父が購入したものであったでしょう。


そういえば、わが家には、この他にも明治文学全集、児童文学全集、戯曲全集、あるいは世界の秘境を集めた写真集のようなもの等が階下の四帖半の棚にびっしりと並んでいました。たしか、兄のエッセイにも、わが家にあったこれらの全集について触れているのがあったようですが、本当に・父は何のために、こんなにたくさんの本を貫い揃えたのであつたか・・・・・・私が記憶している限り、父の愛読書は、もっぱら、吉川英治や久保田万太郎といったものでした。しかし、フーちゃんの証言によると、「おじいちゃんはときどき、ラブレターがわりに、気に入った本の気に入った箇所に赤線を引っぱって送ったのだそうだ。それも当時そんな本を読んでいる人はそうとうススんでたんじゃないかと思われるモーパサンの『女の一生』だ」 (高柳市良・芳野・重信追悼遺稿文集「いまひとたぴの」)ったそうですし、私自身も本箱の隅にあった村山槐多の本に父の署名があったことを見ていますので、ひょっとしたら、若い日の父が、自分のために買い求めたと思われなくもありません。しかし・・・・・・兄、重信については、特別の思い入れがあった父のことですので、このおびただしい全集の類は、やはり、兄がいつか読むであろうことを願って、さいふの底をはたいたのに違いないと、私には、どうしても思われてならないのです。


さて、話を兄の本箱にもどしましょう。

兄の本には、きまって、「恵幻子」の蔵書印が押してありました。石けんや、さつま苧で、兄自身が作ったものです。生活の身のまわりのことは、一切、人まかせで、浴衣などを裏がえしで着ていても一向に頓着しない兄でしたから、ずいぶん不器用な人間と思われていたかも知れませんが、こうした細々した細工は、かなりの名手で、私の夏休みの宿題であった家のミニチュア作りにも、ずいぶん手を貸してくれたものでした。


たくさんの兄の蔵書から、私がお下りでもらった本が二冊あります。一冊は西条八十の『少年詩集』、もう一冊は、たしか山川弥千枝という名の女の子の遺稿集であった(らしい)『薔薇は生きている』です。兄の本箱からそっと抜き出して読んでいるうちに愛着が湧いてきて、それで兄にねだったものでした。おそるおそる、兄にきりだしたところ、「ああ、いいよ」とあっさりいわれて、ずいぶんと拍子ぬけしたことを思い出します。


兄の蔵書は、こうした文学書の他に、部厚い歴史書がかなりありました。私には、あまりにむずかしくて歯が立たず、吉田松陰、藤田東湖、神皇正統記、平泉澄といった背表紙の文字を眺めるだけでした。他の文学書の多くは、戦災で灰になってしまったのですが、これらの書籍は、群馬の母の実家で、私たちと共に敗戦を迎えました。アメリカ軍の上陸に備えるのだといって、兄が、これらの本を大きな壷に入れて畑の中に埋める作業を黙々と行っていたのを覚えています。今にして思えば、あれらの書物は、すべて皇国史観に基づくものであったわけです。


若い日の兄のなかで、文学と皇国史観は、どのように交錯・共存していたのであったか、また戦後、それをどのようにとらえ直していったのか、大変、興味のあるところです。あるとき、吉田松陰の(らしい)教えを兄が毛筆で書写し、それを和綴じにしたものを、何気なく開いてみたところ、一番最初に目に飛びこんできたのは、兄自身の血でしたためた誓詞と高柳重信の署名の文字でした。血書、血判というものを私が目の当りにしたのは、後にも先にも、この兄のだけです。

思い出すことなど 4 高柳美知子


いとこのシーちゃん (静子・兄はシー公と呼んでいました)の卦報が届いたのは、昭和の暮色たれこめる昨年十二月のことでした。思いがけず脳腫瘍を患い、さらにその手術後にひきこんだ風邪がこじれて肺炎を併発してしまったのです。兄が亡くなった頃はまだまだ元気で、『いまひとたびの』(高柳市良・芳野・重信追悼遺稿文集)には次の言葉を寄せてくれました。


「この平均寿命が伸びた今日、還暦を迎えたばかりで遠いところヘ逝ってしまうなど、ちと早すぎます。私とは丁度六ヵ月違いで、同じ屋敷内で、兄と妹の様に育って来た二人です。翌九日のお通夜の日は、たまたま私の満六十歳の誕生目だったのです。お線香の煙の向うから温かみのある笑顔で『しーこう、お前もお婆になったなあ』といっているようにおもえてなりません。

日頃はおたがい疎遠であっても、冠婚葬祭の時など、もう昔の子供の心にかえって話し会える心やすさは、いつも本当の兄妹の様に接していたせいでしょうか。私が今でもプロ野球観戦が好きなのも、もとはといえば、まだ学生だった重信さんに連れられて、後楽園に通ったからなのです。また、神宮競技場へは、陸上競技をよく見に行きました。そんな時は、わずか六ヵ月違いというのに、すっかり兄さん気取りで御機嫌よかったものです。」


シーちゃんの言葉にもあるように、わが家とは大塚仲町で隣り同士、しかも庭が共有でおたがいの出入りはすべて縁側からというふうで、いとこというより、きょうだいのような感情を持ちあって暮らしてきました。とりわけ、兄重信とは生まれ年が同じでしたから、ひとつ乳母車で双児のようにして育てられたようです。兄のエッセイ「大塚仲町」には、この当時を伝える次のようなシーンがあります。


「その頃、僕の隣りの家には僕と同じ年齢の従妹が往んでいて、しばしば二人一緒に一台の乳母車に乗せられていた記憶がある。それを押すのは郷里の群馬県から出てきた十四五歳の子守娘で、あるとき一面に氷の張った池の上を、その乳母車で渡ろうとしたのであった。いくら厚く張っているように見えても、所詮は東京の氷である。たちまち氷は割れて、乳母車の中の二人も、子守娘も、ともども池の中に落ち込んでしまった。」


シーちゃんの母親つな子は、私たちきょうだいの父市良の姉にあたります。といっても、祖母とよが生んだのは市良とその弟の恭次郎叔父の二人だけですから、祖父信五郎と先妻との間に設けられた娘のようです 。しかし、祖父の筆になる「高柳家の記録」には、

「長女つな子 明治三十年九月二十四日生 剛志村下武士中島八三郎ニ嫁ス」

とあるだけで、生みの母親の記載はありません。祖母の欄も、

「妻とよ 佐波郡武士村中島良八二女ナリ 明治三十二年十一月十八日入籍ス」

とあるばかりで、はたして祖母が後妻であるかどうかは判然としません。そのあたりのことがたしかめたくて、シーちゃんの法事のおり、久々に顔をあわせた親戚の面々に尋ねたのですが一向にわからず、かんじんのアーちゃん(シーちゃんの弟の昭。兄はアー坊と呼んでいました)も首をかしげるばかりです。

「あの勝気なとよおばあさんだもの、先妻の名前を書くのを承知しなかったのさ」

と、いうのが、そのときの大方の考察だったのですが、さて ・・・・・・ 。こういうとき、兄がいれば、「それはねェ ・・・・・・」と、たちどころに事態は解明されてしまうのですが、それももうかないません。なにしろ兄は、こういうことにもきわめて通じておりました。長男であったこと、他のきょうだいと年齢が開いていたこと、そしてなによりその風格といったものがそうさせるのでしょうか、親戚の大人たちの間でも兄は一目置かれていて、高柳家の準家長という位置におりました。「重信さん」と、さんづけで呼ばれていたのは、きょうだい中でただひとりです。(ちなみに、次兄は行雄ちゃん、弟はトッちゃん、私はミッちゃんです。) もっとも、小さい頃の兄の呼び名はもっぱら「坊や」であったようで、晩年の母の昔話の一つに「おばあさんは、重信が中学生になってもまだ坊やって呼んでいてねえ、友だちが訪ねてくると、階段の下から『坊やぁ、お客さんだよぉ』って呼ぶものだから重信が嫌がってねえ」というのがありました。


シーちゃんの父親は、私がもの心つく頃に亡くなりましたので、その顔立ちをかすかに覚えている程度ですが、大人たちの話の聞きかじりによると、祖母の弟なのだそうです。そういえば、前述の「高柳家記録」には、たしかに祖母の実家は武士村の中島姓ですし、つな子伯母の嫁ぎ先も下武士の中島姓です。これも聞きかじりですが、祖母の実家は近在近郷に聞こえた大きな機屋だったそうで、小さい頃、私も祖母に連れられて何度か訪ねた記憶があります。庭に大きな倉のある立派な家でした。祖母の弟、つまりシーちゃんの父親がこの家をどうして継がなかったのか知る由もありませんが、細面の物静かな祖母の姉が婿養子をとってその家で暮らしていました。兄の句集『山海集』の中の一文「不思議な川」に登場する猫いらずを飲んで死んだ若い女性は、この家の跡取り娘です。シーちゃんの家から東京の女学校に通っていたところを無理矢理呼ぴもどされて、心に染まぬお婿さんを押しつけられての果ての自死でした。文中の死化粧をして寝かされていた二階家とは、シーちゃんの家のことです。この事件を、兄は母芳野から「幾度となく聞かされた」と記していますが、私にはその覚えはありません。にもかかわらず、私の胸の奥にもこの自殺した女性がまあちゃんという名を持つ人であることがたたみこまれているのは、おそらく、母が兄に語っている傍で聞くともなく聞き入っていたのでしょう。


ところで、母の実家である福寿院は、同じ剛志村の小此木(おこのぎ)というところにあります。寺の跡取り娘であった母と父との輝やけるについては、「思い出すことなど」の (1) で多少は触れておきましたが、わが高柳家をめぐる相聞と愛憎の人間ドラマは、どうやら群馬県佐波剛志村がもっぱらの舞台になったようです。子どもの私たちは、そんなことなどに何の頓着もなく、祖母と田舎に行くときは武士の家、母と行くときは小此木の福寿院を自明のことにして嬉々としてついていったものです。大塚仲町の兄の部屋の押し入れの行李には、四百字づめの原稿用紙に書き込んだ小説の綴りこみがつまっていて、その表紙には、「小此木 武士」「佐波 剛志」のペンネームが記されていました。兄の留守に盗み読むのをひそかな愉しみにしていたのですが、子ども心にもこのペンネームは、何やらやぼったくて、兄はどうしてもっとしゃれた名前をつけないのだろうと心中おおいに不満でした。今になれば、祖父母、父母のふるさとに寄せる兄の思いの深さに感じ入るばかりです。


それにしても、祖父、祖母、父、母、兄につづいてシーちゃんまで逝ってしまい、淋しい限りです。しかし、身辺から灯りがひとつ消えたぶん、あの世とやらは賑いをみせて、すでに先着の兄が「シー公、ちょっと早いんじゃないの」などと、またぞろ、兄貴風を吹かしているのかもしれませんね。