高柳美知子

兄重信のこと

兄 重信のこと 高柳 美知子

-お兄ちゃん。

そう、呼んでいた。重信は五人きょうだいの一番上、わたしは四番目で、十歳程の年が開いていた。大人になってからの十年は差ほどのものに感じないが、子どもの頃は決定的である。わたしが小学生のとき、兄はすでに大学生であった。


兄の部屋は二階にあって、本がいっぱい並んでいた。読書が何より好きだったわたしは、童話や少女小説を耽溺する一方で、兄の留守をみはからっては、兄の部屋にそっともぐりこみ、そこに並んでいる大人の小説を手当たりしだい抜きだしては読みあさったものである。


『転落の詩集』(石川達三)『狭き門』(アンドレ・ジッド)『虞美人草』(夏目漱石)『天の夕顔』(中河与一)『若い人』(石坂洋次郎)等など、今でも、それらの本の装丁や、置かれていた場所まで目に浮かんでくる。それは、男女の愛のシルエットをそっとのぞき見ているような胸のときめきーとでもいうのだろうか。


兄の部屋には、さらに一層の禁断の木の実があった。押し入れの中の小さい行李で、兄が原稿用箋に書きつづった小説や詩が幾篇も入っていた。小此木武士(注:小此木は母の実家のある地名。武は祖母の実家のある地名)のペンネームがまぶしかった。そしてもうひとつ、机の一番下の引き出しには、女友達から届いた手紙が、きれいにスクラップされて入ったいた。今思えば、二十前の少年少女の淡い交情といったもので、何ほどのこともないのだろうが、ひそかに人の心をのぞきみる罪の意識と、ラブレターなるものに直接ふれるおののきは、まさしく禁断の木の実そのものの味。


兄のところへは、よく友人が集まった。そして、集まればもう議論だった。階下の部屋まで、そのカンカンガクガクぶりは伝わってくる。その中でひときわ流暢な弁舌は、これはもう兄に決まっている。わたしはそれが嬉しくて、そっと暗闇の階段にかがみこんでは、じっと聞き入ったものだった。 兄は、家族の者たちにもいろいろと話を聞かせるのが上手だった。父は、外ではけっこう座持ち上手であったそうだが、家では仏頂面をきめこんでいた。それより、あまり家にいなかった。そうした父にかわって、兄が、わが家の実質的な家長であった。


そういえば、わたしの小学六年の保護者面談に兄がきてくれたことがあった。受験する女学校をどこにするかを最終的にきめる大事な面談であった。なぜ、父母でなく兄だったのか…今となっては全く覚えがないのだが、さっそうと教室に兄があらわれたあの日の嬉しさと恥ずかしさと誇らしさは今も忘れられない。(注:このとき、兄は20歳)


「美知子はおれの亜流だ」。兄は、こういってよくわたしをひやかした。でも、まったくのところ、そうなのである。兄の話すこと、やること、そして兄の読む本-そのどれもどれも、わたしを惹きつけずにはおかないのだった。まるで魔法にかかったように、そこに吸い寄せられてしまうのだった。そして、自分でもそれと気づかずに、兄のように、兄のことばでしゃべっている…。

兄の訃報を知った高校時代の友人から届いた便りには、「あなたはいつもお兄さまのことを話しておられましたね」と記されていた。先日、久しぶりに出会った大学時代の男友達もまた曰く、「君は、デイトしても、兄さんのことばかりしゃべっていたっけなあ」。


本当に、わたしは兄に夢中だった。戦争が終わっても兄の結核は一向に良くならず、とうとう、戸田の家で寝たきりになってしまった。そこで高校生のわたしはひそかに、「ニーチェの妹たらむ」と思い決したのだった。哲学者のニーチェの妹は、その生涯を兄のめんどうを見ることで捧げたという、ならばわたしもまた……の思いであったのだ。(注:ニーチェの妹の話をしてくれたのは兄である。)


戦後まもない当時は酷い食糧難。兄に少しでも栄養のあるものをと、わたしは日曜日になると隣の蕨町まで自転車を飛ばして、卵を買いあさりに走り回った。少しでもおいしく食べてもらおうと、料理の本と首っぴきで腕もふるった。わたしがあれほど料理づくりに一所懸命になったのは、後にも先にも、あのときをおいてない。


母の葬式(注:母芳野の死は兄の亡くなる九カ月前であった)が一段落したあと、兄は、部屋を見回しながらつぶやいたのだ。「美知子と暮らすのもいいなあ。外国には、兄と妹が一緒に暮らす例が多いんだよ」「うん、いいねえ。そうしようか…」。


兄とふたりで暮らす晩年-なんだか、思いがけない果報が転がりこんできたようで、母の死の悲しみも薄らいだような気になったのだったが…。

兄、重信-それは、わたしの精神のへその緒。最初の恋人。そして、もしかしたら、わたしの最後の恋人になったかもしれない人。