高柳重信 評論

書きつつ見る行為

「書き」 つつ 「見る」行為 高柳重信

「俳句」昭和四五年六月:『高柳重信全集Ⅲ』所収

(OCRを使って起こしました。多少文字化けがあり得ます。

長文で、画面ではとても読みにくいため、段落ごとに改行を挿入しました。)


俳論とは、いったい何であろうか。いま、それを求められて、いささか困惑している。敗戦直後、まだ二十歳を幾つも出ない頃には、たしかに、その俳論らしいものを書いたことがあるが、それは、いわば、若気のあやまちのようなものであったろう。


その頃は、正直なところ、俳句形式について、ほとんど何も知らない状態だったから、いろいろと身辺を飾りたてて強がってみたり、無理な背伸びをしたりしなければならなかった。手あたり次第に、詩論や俳論や、あるいは一般の文芸論などを読んでゆき、それで我が身を鎧おうとしたのだが、その多くが未消化であったため、僕自身の言葉で表現することが出来ず、それぞれの著者の言葉が、なまのかたちで出てくることが多かった。その結果として、僕の書くものは、表面的にはいわゆる論のかたちをとることとなったが、実際には、意識的に論を立てるほど、俳句形式を理解していたわけではない。むしろ、まだ充分には身につかぬ寄せ集めの知識が、やむを得ぬ仕儀として、未熟な論のかたちをとったのであった。その証拠に、当時の僕の書いたものは、その後の僕の俳句創作のために、ほとんど実用的な効力を示したことはなかった。


その後、二十数年を経て、現在の僕は、当時とくらべて、多少なりとも俳句形式についての理解を深めているにちがいないと思うのだが、そうかと言って、いま、格別な俳論を書けるような気には、一向になってこないのである。要するに、その二十数年の歳月によって、僕の得たものといえば、きわめて僅かな洞察力にすぎない。


たとえば、俳壇には、こんな説がある。手みじかに言えば、中村草田男の有名な俳句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」があるが、それに先立ち、某氏によって「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句が書かれており、「降る雪や」は、その盗作、あるいは剽窃だ--という説である。


はじめに僕の結論を言うならば、これくらい愚かしい議論はないと思うし、その愚かしさの理由についても、すでに一度ならず書いてきている。もともと「明治は遠くなりにけり」という言葉は誰彼の独占的な所有を主張できるようなものではなかったはずである。この「明治」という言葉は、少なくとも明治から大正にかけて生れてきた日本人にとって、作為的にも無作為的にも、実に、しばしば、多くの喚起を生んできたものである。したがって、その明治が遠くなってゆくという感懐も、かなり普遍的で共通なものであり、しかも、その喚起は、きわめて自然に「明治は遠くなりにけり」という言葉と、ほとんど同じ言葉で、随時、随所に行なわれたと思われる。それは、また、この言葉が、随時、随所に、その場、その時の感情的な限定を受けて、やや鮮明な感懐となり、自他ともどもに対して喚起カを発揮していたことを意味する。しかし、この言葉だけを、まったく無限定な状態で客観的に眺めるときには、かなり雑多な感情を未整理のまま包含していて、その方向も定まらぬように揺れ動いていると思わざるを得ない。人によっては、「明治」という言葉に、それぞれ正反対な感情を喚起される場合も考えられるから、それが遠ざかってゆくという感懐にも、おのずから対立したものが生まれてきて、何の不思議はないのである。


そこで、問題は、この「明治は遠くなりにけり」に、如何なる詩的限定、あるいは俳句的限定を加えるかにかかってくるわけだが、それを某氏のように「獺祭忌」としてしまったのでは、連想範囲が正岡子規とその周辺に限られて、この言葉の内包しているものを、非常に小さな時のなかに閉じこめてしまうことになる。こうして、みずから小さな枠のなかに閉じこめておきながら、やや大袈裟に言えば、当時の日本人の大多数の普遍的で共通な感懐を盛るにふさわしい「明治は遠くなりにけり」という青葉を、某氏一人の所得にしようとしても、それは、はじめから無理な願望であった。そこへゆくと、中村草田男の「降る雪や」は、この「明治は遠くなりにけり」という言葉が、その裾野を最大限にひろげてゆけるように、見事な詩的限定を行なっている。それは、本来、「明治は遠くなりにけり」という言葉が内包していた感懐のすべてせ、少しも失なうことなく、やや情緒的に過ぎるけれど、鮮明なイメージを持った一個の表現としての客観性を、はっきりと獲得しているのである。この結果、「明治は遠くなりにけり」という言葉が、中村 草田男の占有すべきところとなったのは、理の当然であろう。しかも、それにとどまらず、この「明治は遠くなりにけり」は、この中村草田男の作品が書かれて以後は、それによっていっそう鮮明となったイメージを伴ないながら、もう一度、日本人すべての手許へと帰ってきたのである。


以上のような僕の考えは、あるいは危険な独断として、強い反対意見を持つ人々もあるかもしれないが、僕は僕なりに、こういう判断こそ、戦後の二十数年の間に、僅かに僕の身についたものだと思っている。


しかし、現在の僕は、「獺祭忌明治は速くなりにけり」と「降る雪や明治は遠くなりにけり」の二つの俳句について、僕なりの弁別は出来るけれど、その先へは一歩も進むことは出来ないのである。もちろん、僕は、「獺祭忌」から「降る雪や」までは、幾つもの海や山を越えてゆかねば行きつかぬほどの距離があることを書くことも出来る。また、某氏の俳句は、言いとめると同時に簡単に言いおおせてしまっているから、そこに書かれた文字を通して、その向こう側に何も見えてこないので、要するに駄目なのだ、などと言うことも出来るだろう。そして、更には、やや、したり顔で「獺祭忌」から「降る雪や」までの距離のなかに、俳句表現に関する一切の問題が包含されている、などと説くことも出来るにちがいない。


たしかに、そうにちがいないのだが、もし、本当に実用的で有効な俳論を書こうとするならば、この「獺祭忌」にかわる「降る雪や」を、どうしたら発見できるかということを、はっきりと言いとめなくてはいけないはずである。だが、おそらくは、現在の僕のみならず、明日の僕も、明後日の僕も、まず不可能であるにちがいない。もっとも、俳壇では、この段階に至ると、誠心誠意だとか、感動に忠実であれだとか、あるいは、泥にまみれるまで対象に没頭せよだとか、きわめて精神主義的な言葉が安直に乱発され、それが、そのまま、有益な俳論として通用してしまうようである。しかし、それを言っている当人が、その説をどれほど信じているのか疑わしいし、現実に彼等の書きあげる俳句を見ると、その御利益のほども、軽々しくは信じられないような気がするのである。


それを思うと、俳論というものは、誰が書いてみても、およそ不毛な感じが濃厚である。僕が、いま、「我が俳論」として求められたものを、すでに紙数の三分の一を費やしながら、なお、非常なためらいのなかで持てあましているのも、そのためである。


思えば、しかし、この俳論というものの持つ不毛さ加減について、漠然とではあっても知りはじめたのは、かなり昔のことであった。僕が、敗戦直後の数年間、青春の客気のなかで書きつづけた幾つかの文章にも、その翳は充分に見られる。たとえ、如何なる求めによるにせよ、その不毛の業をつづけてゆくということは、およそ素面のままで耐えられるものではない。当然のごとく、なにがしかの仮面が必要となる。


その点を、僕なりに振りかえってみると、僕自身は、仮構の伝説をみずから創りあげることによって、その不毛の業に耐えていたようである。たとえば、僕は、「大宮伯爵の俳句即生活」をはじめとする「伯爵」の伝説の霧の彼方で、幾つかの文章を書いているが、それは、俳論らしきものを手放しでロ走るという、いわば気はずかしい行為を、どこかで緩和しようとする意図から出ていたにちがいない。ただし、「伯爵」伝説などを、みずからの手で創りあげるということも、いま、かえりみると、やはり気はずかしさの点で、それほどの差はないように思えるのだが。

いまの僕は、うまい具合に、その伝説の大半を忘れつつあったが、ともあれ、それを少しばかり思い出しながら、この「我が俳論」を更に進めてゆくことにしよう。


まず、「伯爵」伝説の前史を思い浮かべてみる。周知のように、僕たちの世代の多くは、あの戦争中に、それぞれの俳句に出会っている。それは、例の新興俳句運動がようやく全盛期を迎え、一方、後に人間探求派と名づけられた俳人たちが、みずからの姿勢を次第に明確にしようとしていた昭和十年頃から、敗戦の決定的となった時期にかけてである。僕の場合は、はじめて作品が活字になったのは昭和十一年であり、まだ中学一年の三学期になったところで、これは、やや年少に過ぎるかもしれないが、他の人たちも、大半は二十歳を待たずに、俳句に手を染めているようである。


これは理由のあることで、その頃の二十歳という年齢は、現在の青年たちには、とうてい理解することの出来ないような、特別な意味を持っていた。二十歳になれば、健康な青年たちは、兵士として戦場へ赴くための特殊な環境のなかに閉じこめられ、そこで戦闘の訓練を受けたのち、やがて戦場へと送られてゆくのであった。そこは、言うまでもなく、いつも死というものが背中あわせに存在している場所であり、事実、多くの青年たちが、そこで死んでいった。戦場からの招きが来ないような若者は、おおむね病弱であった。その頃の若者たちは、現在では想像もつかないほど、少年期から青年期にかけて、なぜか、胸部疾患にとりつかれやすく、頬と唇だけを赤く染めながら、青白く痩せ細って、病院や療養所の門をくぐつて行った。そして、遂に戦場から帰って来なかった友人たちと同じ数ほどの友人たちが、そこから、ふたたぴは生きて出て来なかった。


要するに、その頃の青年たちは、健康な者も病弱な者も、ともに二十歳を前にして、それぞれの明日に死の影を見ていたのであった。そうかといって、ようやく少年期を脱しつつ、やや物心がつきはじめてから、いよいよ死と対峙する日までの、その僅かな猶予が残されている期間といえども、特別に何かが許されているわけではなかった。


学生も生徒も、絶えず、きぴしく監視され補導されていたのである。大学生は、講師の都合で休講となった時間を、校舎付近の喫茶店に入って過ごそうとしただけで、学生狩りという名の理不尽きわまる干渉を受け、中学生は、通学の途中、いつも同じ駅で会う女学生と口をきいただけで、きぴしい補導を受けなければならなかった。本屋の店頭で手にとる本も、次第に言語統制を経てきたものばかりとなり、自分たちのささやかな発言の場として、なけなしの金を持ちよった同人雑誌も、いろいろな手段で存続を妨げられてしまうのだった。このような、いわば、何も始まらないうちに、何もかもが終わってしまいそうな環境のなかで、僕たちの世代が、ようやく掴みとった唯一のものが、この俳句だったのである。したがって、その頃の僕たちにとって、俳句というものは、非常に切実な何かであった。


いま、僕の手許には、つたない筆跡で墨書され、みずからの手で製本された句帖が残っているが、それを、あの激しい空襲のさなか、それこそ本気になって肌身はなさず持つていたことを思い出すと、何とも憂鬱な気持になってくる。僕は、昭和十七年に胸部疾患にとりつかれたため、戦場へ駆り出されることだけはまぬがれたが、そのかわり、数次にわたる東京の大空襲と、それから疎開先の前橋の空襲を、すべてを身をもって体験することとなった。そんな時には、いつも微熱に悩まされながら、十貫ぐらいに痩せ細った僕のことを、身辺の唯一の若者というだけの理由で、しきりに頼みにする老人たちや女たちに囲まれて、僕という人間のせめてもの生きている証しのように、その僕の句帖と、それに書かれた幼稚な俳句が、常についてまわっていたのである。


実を言うと、僕は、この句帖の存在を、ずっと忘れていたのであった。それが、図らずも、現在、高校二年の我が娘が、どこやらから見つけ出してきた古ぽけたボール箱のなかより、突如として出現したのである。その同じ箱には、小学校で同窓だった二三人の幼な友だちの女文字の葉書や手紙なども、きちんと整理されて入っていた。それも、また手づくりの製本で、各頁ごとに貼られた葉書や便箋は、たとえば年賀状や、簡単な時候の挨拶であったりして、まことに他愛ないが、おそらく、それは、僕にとって、初恋の遺跡のようなものであり、あるいは、それに準じたものであったのだろう。そのなかの一通には、女学校の作文の時間に短歌を作らされたと言い、「文想の滑れし乙女か鉛筆を噛みて隣りに囁きにけり」などと誌されてあったりした。発信の年月日を見ると、これは彼女が女学校三年の時であり、したがって、僕の中学三年の時でもあった。これは、いまだに漫画本に読みふけっている我が娘よりも、二学年も下級の時期である。この、現在は、その行方も運命も知るところのない少女のたどたどしい手紙を含めて、僕のささやかな秘帖のごときものも、たぶん、あの空襲のなかで、僕の肌身につけられていたにちがいない。そうとなれば、その時、同時に肌身につけられていた僕の句帖と、それに書かれていた俳句が、どんなものであったかは、ここに具体的に書かずとも、容易に想像がつくであろう。


それは、きわめて切実な何かであったが、かならずしも俳句でなければならなかったというものではない。もし、ほかに持って逃げるに足るものがあったなら、たぶん、それを肌身につけていたにちがいない。しかし、その時の僕は、執着すべき何ものをも持つに至らないほど、まだ、何も始めてはいなかったのである。それは、まさに我が身の不毛の証しであった。したがって、そこに書かれている俳句そのものの巧拙にも、特にこだわる必要はなかったであろう。そして、あまりにも稚なく、未熟すぎた僕の場合は、いわゆる俳論のたぐいなど、そこに介入の余地がなかったと思われる。こうして、あの戦争が終わった時、僕は二十二歳になっていた。


しかし、戦争が終わると、事情は、やや変化した。敗戦直後の悲惨さは、戦争中のそれと大差はなかったとも言い得るが、人間が互いに武器を執って殺しあうという事態は、とにかくも遠のいていったのである。飢餓の苦しみはあったとしても、たいていの人間は、それをうまく切りぬけてゆくだけの知恵や才覚を持っていた。彼等は、不安と混乱のなかにいたが、それでいて、どこか漠然とした期待と、奇妙な開放感を、あわせて感じていた。昨日までは、そこにいる唯一の若者という理由から僕を頼りにしていた老人や女たちは、それぞれ、いっそう頼りになる若者たちを見出していた。そして、僕は、もっとも頼りにならぬ者、むしろ足手まといに過ぎない者へと、急速に転落していった。そればかりか、いま、生きているように見えるのは幻影であって、それは死人のまやかしではないかとさえ、心の底で感じているふうでもあった。たしかに、僕自身の死への傾斜は、戦争が終わったということとは、まったくかかわりなく、いっそう激しくなってゆくばかりであった。


戦後の社会の状況は、あるものは急激に、あるものは徐々に、明日に向かって変化 してゆき、人々の運命も、そして希望も、それとともに推移していったが、僕自身にとっては、たぶん明日は死んでいるであろうということのほうが、いつもながら、はるかに確実な手ごたえのある予兆であった。したがって、僕は、周囲がどう変化しようとも、もっとも素朴に僕自身でありたかったし、俳句を書くという行為は、依然として、そのための、ほとんど唯一の手だてであった。要するに、その頃の僕の俳句は、僕が死んだのちも、更にしばらくは生き残るにちがいない人たちに送る、いわば、さよならの合図であった。


同じ頃、石田波郷は「夜半の雛肋剖きても吾死なじ」と書いているが、「吾死なじ」というほどの強い意志は、僕にとって、まったく無縁のものであった。もし、それほどの強烈な意志ではなく、もっとささやかな願望などがあったとしても、それを、そのとおり言葉にして、俳句表現のなかに書き入れようとは、決して思わなかったろう。


僕の場合は、何といっても、さよならの合図であった。しごく速度を落としたまま、駅のプラットホームから出てゆく列車の窓を開けて、特に意識して僕を見送りに来ているのでもない人たちに、静かに手を振ってみせるというような、そんな感じの合図であった。それは、たしかに、静かな合図であったが、その静かな合図に一切を集中しようとした僕は、いま思えば、それなりに健気であった。その健気さのなかで、せめて明日の夜明けまでは生きていたいと念じながら、もう一つのせめてもの廉いを、せめて石川啄木の生きぬいた歳月だけは、僕もまた生きていたいという思いにおきながら、僕は、ひたすら、処女句集『蕗子』の俳句を書いていたのであった。その句集は、僕が啄木の享年に達した時に出版された。そして、僕と俳句形式との健気な交流も、そこで終わったような気がする。その後の僕と俳句形式との交流は、昔日の初々しさを失ない、どうも、しつくりとはいかないようである。


死ぬはずの生命を、いつまでも永らえるということは、実に奇妙な感じのものである。よく下世話には、これから後は死んだ気になって、その余命を大いに励むなどと言うが、そんなことは嘘っ八である。それに、いちばんいけないのは、死ぬはずの生命が続いていると言っても、それは、かならずしも生きているということを意味しなかった点である。世俗的な意味では、やはり何もすることはなく、何をすることも許されない日々の連続にすぎなかった。したがって、僕は、僕自身に対する初々しさを失なって、その後は、何となくうつらうつらとした心持で、時折りは俳句形式について考えてみるというのが、おおよその日常となつてしまった。それも、あるいは、生きるために俳句を思うということになるのかもしれないが、その思いからは、急激に切実さが姿を消していった。そして、その頃から、僕の俳句を思うとき、俳句形式について語るとき、次第に狡猾さの度を増してゆくのであった。おそらく、この時期を境として、僕の俳句は、その他の多くの人たちと、かなり違うものになっていったのではなかろうか。


もちろん、ちょっとした外観のみによって考えようとするならば、僕が『蕗子』の時代に書いたものも、当時の俳壇の一般的な習俗とくらべると、かなり奇異に感じられたかもしれない。普通は一行で書かれている俳句が、もっと悪意的に、一句一句ちがったかたちをとり、いわゆる多行表記で書かれており、その上、時に一句にも長短があるとなると、常識的には、非常に異端に見えても仕方はなかったろう。しかし、その反面、俳句形式に対して、たとえ、それが単なる別れの合図であるにせよ、なにがしかの思いを託そうとしている点において、また、努力次第によっては、その思いを託することが出来るに違いないと、どこかしらで信じている点において、その後の僕よりも、他の多くの俳人たちの方に、はるかに似ているような気がするのである。


その『蕗子』に収められた作品について、いちばん、はつきりしているのは、それらが、まだ、本当に「書かれた」ものと言いがたい点であろう。それらは、要するに、書かれるに先立って、すでに、かなり明瞭なかたちで、ある種の既成の言葉になってしまっている。ある種の発想があり、それが、ある種の言葉と早々と癒着してしまった段階で、容易に俳句形式に出会っているのである。したがって、そこに出現する俳句形式は、いつも、何らかの意味で、すでに存在していたものであった。言い方を変えるならば、すでに存在している俳句形式のパターンのうち、どれか一つに出会った瞬間に、たちまち一句が成就してしまうような、あの発想と呼ばれるもの、あるいは、発想に先立つ感動などというものを頼りにして、それらは書きはじめられていたのであった。更に言い方を変えるならば、それは、作品を書きはじめるに先立って、すでにに感じていた何か、あるいは、すでに見えていた何かについて、非常に大きな比重をかけ、むしろ、それを適当な言葉に翻訳するというかたちで、楽天的に制作を進めてゆくやり方であった。


やや極瑞に言えば、そこに生まれてくるのは、書かれるに先立って、もう大部分が決定済みの世界である。言葉に書かれることによって、ただ一度だけ、はじめて出現する世界ではなかった。したがって、それは、外観的な大きな差異があったとしても、作者と言葉との関係から眺めるならば、俳壇で普通に「写生」と呼ばれているものと、まず大差はなかった。同様に、いまも俳壇では、僅か十七字の私小説や十七字の言論が存在すると期待している人たちが見られるが、そういう人たちとも、基本的には大差がなかったと言うべきだろう。


これは、僕の率直な私見であるが、俳句のように単純化と普遍化を最高の詩法とする形式では、その技術を一つ一っ数えあげていっても知れたものである。まして、一人の俳人が、その資質に見合う範囲で会得できる技術は、いっそう知れたものであろう。また、その表現が可能な領域も、きわめて狭小であろう。それを充分に思いながら、表現の一回性ということを厳密に重んじてゆけば、その巧拙にかかわらず、たかだか一人の作家が百句ほども書いてしまえぱ、ほとんど尽きてしまうにきまっている。あとは、ただ、退屈な繰りかえしだけである。しかも、多くの俳人たちは、その最初の一句から、誰かの繰りかえしではない俳句と完全に無縁の状況の中で、遂にその人の作品を書かないままに死んでゆくのである。しきりに俳壇で珍重する多作なるものも、その正体のあらましは、これに過ぎないだろう。


この状況は、それぞれの俳人たちが、各自、書くべき多くのことがらを所有していると信じており、それを適切な言葉えらぴによって作りあげることが、すなわち、俳句であると確信しているかぎり、いつまでも続いてゆくにちがいない。だが、その書くべきことがらと信じているものも、大胆に概括してみれば、要は人の世と人の生命のうつろいやすさからくる或る種の感懐のようなものである。これは、すでに二度三度と書いてきたことであるが、十数万年の昔に出現し、数万年前に絶滅したと言われ、その名も旧人と呼ばれているネアンデルタール人でさえ、その人の世と人の生命のはかなさを嘆くだけの知恵と感情を持っていたそうである。彼等は、その激しい猫背をいっそう前かがみにし、極端に蟹股の膝を更に屈しながら、まさにロダンの「考える人」と同じかたちで、しばしば憂愁に沈んだと思われるが、そればかりでなく、死んでいった肉親たちを哀惜するための儀式めいたものまでも、すでに身につけはじめていたという。それを思うと、現在の俳人たちが、日頃から書くべきことがらと確信してきたものも、彼等と大差はないようである。ただ、しごく不明瞭な発音と、きわめて単純で不完全な言葉しか所有していなかったのと較べて、現在の僕たちは、僕たちよりも遥かに長く生きてきた形式と、そして、それよりも更に長命な言葉そのものを、現に持っているわけである。


そして、この言葉というものは、長命なるが故に、おのずから聡明となってきた部分のほかに、その生い立ちからもたらされたような聡明さを、依然として持ちつづけている。嘗つて、僕たちの祖先が生きていた頃の自然は、人間に対するあらゆる恩寵の源泉であったが、同時に残酷な殺戮者でもあった。すなわち、自然は、人間にとって偉大で悠久な自然であったが、併せて、その真意を容易に量りがたい恐るべき超自然をも孕んでいたのである。それに対して、人間は、あまりにも卑小な自然にすぎなかった。普通の状態では、超自然の声を聞くことも出来ず、超自然に呼びかけ訴えることも不可能だった。その切実な状況のなかから、人間同士の日常の用を足す言葉とは別の次元の或る種の言葉が求められた。その言葉は、いつか超自然の通力を孕むことを期待されながら、激しく祈られ、練られ、鍛えられてきた。僕たちの祖先たちは、数千年の歳月を、その特殊な一種の神聖な言葉だけを頼りに、洪水も旱魃も疫病も、その他のあらゆる困難をもしのいできた。そして、いまは、次第に、多くの新しい知恵が、それに代わりつつある。だから、現在の僕たちは、雨乞いの祈りによって雨が降ることはないという知恵を、すでに所有している。しかし、必要なときに必要な場所に雨を降らせる知恵は、まだ身につけてはいないのである。もちろん、僕たちは、神聖な言葉の御利益に代わるべき、充分に実用的な知恵を数多く獲得してきている。それは言うまでもないが、考えようによっては、それもこれも言葉から生み出されてきた知恵ではないだろうか。


ともあれ、言葉は、依然として、僕たちの節穴のような目が捉えるものよりも、いっそう奥深い何かを喚起することが出来るようである。特に、俳句形式のような極端に短かい詩型が、いまもって何らかの表現を獲得することが出来るかもしれないと夢想する場合には、とても、卑小で小賢しい人間の頭ばたらきや手わざぐらいでは、はじめから問題にならないような気がする。一人の作者が、はじまりから終わりまで、一貫して自分のカだけで俳句を「作る」ことが出来るなどという考えは、少なくとも僕にとって、あまりにも滑稽に思われる。


これは冗談ではなく、『蕗子』以後の僕は、まさに文字どおり、言葉を書くだけであり、そして、きわめて稀に、そこに書き並べられた書葉のなかに、何かを「見る」だけであった。したがって、現在の僕には、発想というほどのものもないし、その発想に先立っての何ものかに対する感動のようなものもない。僕にとって、感動とは、時に言葉のなかに何かを見た場合の感情である。要するに、僕は、ある時、一つの言葉に出会う。それは週刊誌の愚劣な実話小説の一行のなかに於いてでも、生物学の教科書の見出しのなかに於いてでも、あるいは、テレビの画面に流れるテロップの断片に於いてでも、何でも構わない。出会ったという思いは、その言葉が僕の眼に入った瞬間、その言葉が現に置かれてある前後の言葉と関係なく、その文脈とも無関係に、その言葉の独立した意志の働きのように、もう一つの言葉を浮かぴあがらせてきたときに、たしかな手応えとして響いてくる。


そして、このあとは、ちょうど十七字の分量のコップのなかに、すでにある言葉が招いている言葉を次々と流しこむだけである。流しこまれた言葉は、次々と溢れ出し、そのコップのなかの言葉は、少しずつ微妙に変化する。こんな作業を、現実に紙の上に文字を書いてゆくというかたちで行なっていると、ふと、何かが見えたような気がする瞬間がある。僕が、その言葉を通して、何かを見たと信じ、それを見たことによって、なにがしかの感動めいた興奮が生まれたとき、それは僕の作品として書きとめられる。したがって、この作業に加わっているのは、俳句形式と、その形式に反応しながら自由に流れてゆく言葉と、それを書きとめてゆく僕の手である。普通、俳人たちが俳句形式に参加するために動員していると信じているような部分は、僕にあっては、ある一瞬、何かを見るためにだけ待機しているのである。あるいは、僕の場合は、俳句を「書く」というよりも「見る」というべきかもしれない。そして、この「見る」行為だけが、僕の制作の根幹であり、併せて、僕以外の人たちの作品に対する僕の批評と鑑賞の原点になっていると考えていいのかもしれない。しかし、実際には、俳句表現というのは、まさに千番に一番のかねあいで、自他いずれのものに対しても、ごく稀にしか、何かを見ることはないのである。


所詮、僕にとっての俳句は、不毛な僕に対する不毛な愛情からはじまり、不毛な形式に対する愛着として、いまなお不毛な連続をくりかえしているにすぎないようである。