重信 そのほかいろいろ

戸田市の高柳重信展

全句集と重信展の裏話

知られざる名作 戸田東中学校校歌

よくある誤解集

その他 重信関係の雑記

戸田市の高柳重信展

平成13年秋から冬にかけて、戸田市郷土博物館で「高柳重信展」が開催されました。


戸田市立郷土博物館

(JR埼京線戸田駅西口徒歩7分)

335-0021 埼玉県戸田市大字新曽1707

048-442-2800

平成13年10月10日(水)~12月9日(日)

図録(800円)


講演 11月17日(土) 演題「高柳さんのこと」

講師佐佐木幸綱 (歌人・早稲田大学教授)


この49日間で2965人もの方が観覧されました。

図録(写真がいっぱい載ってます)はまだ多少残部があるそうです。(平成15年1月19日時点)

必要な方は、郷土博物館にお問い合わせください。

全句集の編集委員の一人、高橋龍さんは、 時間の許す日は会場にいて、ひそかに「説明係」をしてくださいました。


また、この企画展を担当されたのは、戸田市郷土博物館の学芸員の香林さん。

これまで「学芸員」という仕事を知りませんでしたがああいう催しは、多くの人の協力を得つつ、細かい根気の要る作業を遺漏なくこなさなければならず、その 一方で、大きな決断力も必要になるので、ずいぶん大変な仕事のようです。

つまり、「学芸員」というのは、まるで船長のような仕事だと知りました。


※戸田市の郷土博物館は、ときどきこうした企画展を開催しています。

併設の図書館は、ゆったりしたスペースで椅子がたくさんあり、のんびりいろいろな本を読むのに最適。

勉強や調べもの用の机が2階にあり、1階で借りた本を2階に持ってあがってじっくり調べ物をすることもできます。

全句集と重信展の裏話

(2001年5月から2002年5月末までの約一年分です。)

編集委員

岩片さん 寺田さん 龍さん +高柳蕗子


2001年5月19日

第一回編集会議 お茶の水ルノアール


編集委員は岩片仁次(主幹・・・ご本人はこのような肩書きが好きじゃないとか)・寺田澄史・高橋龍という、名だたる「重信通」三氏。重信早押しクイズなんぞやったら、上位三位は間違いなしというメンバーです。


岩片さんの用意した詳細なレジメに仰天。もう頭の中には、新「全句集」ができあがっているようです。

寺田さんも高橋さんも、さすがです。

「初版本の○○という句が」と言っただけで、三人ともその該当本の該当ページを目に浮かべているのですから、話がすごく早い。

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6月16日

第二回編集会議 上野精養軒

曇天の屋上レストランで、三人のおじさんたちは、まずはカレーを食べました。

岩片さんは明け方に目が醒めるタイプ、寺田さんは完全に夜型。龍さんは仕事の関係もあって不規則。

だからというわけでもないけれど、一時に集合した時点で昼食を済ませていたのは私だけだったのです。

句はすでに入稿済み。今日は岩片さんが作った各章の注や略年譜、後書きなどの原稿のチェック。

すべてはデータを持っている岩片さんにおんぶにだっこ。秋に向けて、ぐんぐん句集ができてゆきます。

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8月4日

第三回編集会議 新宿紀伊国屋のそばの喫茶店

初校の約半分が出た。四人で別々に赤ペンを入れたものを持ち寄る。

句は旧かな正字。でも正字といっても時代によって変遷があるらしい。「それは正しいが古すぎる」「自分が小学校で習ったのはこの字だ」「これは正字、これは正字の略字」「これは正字に見えて実は誤字」等々、六〇代の三氏も一致しないことがある。あーもう、じゃんけんで決めてねー。

原本のままにすればよかろうと思うだろうが、活字が揃わない時代の出版物には、活字の使用上、ときに妥協があったのだ。

もちろん、今作っている全句集もフォントの都合で制限がないわけではないけれど、最善を尽くそう、という気持ちは一致している。

そういった調子でどうにか初校の半分が終わった。先は長そうだが、けっこう楽しい。次回は9月はじめの予定。

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9月1日

第四回編集会議 場所は前回と同じ新宿の喫茶店。前夜44名の死者を出した火事現場のそばだ。

初校の残りを持ち寄る。やり方も前回と同じ。

旧かな正字じゃなくていい文章まですべてそうなっているために、直しがえらく大変だ。表記ばかりが気になって本当の誤植を見落としそうだ。

句はすべて正字にすると初めに決めてある。「日本海軍」や「山川蝉夫句集」は原典の句が正字ではないのだが、それは活字がなかったからそうしただけで、本当は正字にしたかったのだ、と考えるからである。

(けれども、私にはその二つの句集が読みやすく、すでに正字ではないほうで覚えてしまった。確かに正字の方がなんとなくかっこよく見えることが多いけれども、「恐竜」という字を「恐龍」と直すのには抵抗を感じる。想起する姿がぜんぜん違う。

ホームページへのアップは――いつになるかわからないが――、誰でも読める普通の字で統一しようと思った。)

終わってから、前日届いた戸田市郷土博物館の図録の校正刷も見る。なかなかかっこいい図録になりそうだ。

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9月13日

郷土博物館からポスターが届いた。わ、かっこいい。うちにはスキャナーがないし、あってもやり方がわからないので、ここでお見せできない。残念。

(後日注・ポスターの顔の部分を写メールで写して、このHPのトップ画像に使いました。

これは展示の中の大きなパネル写真。

写メールってかなりブレるもので、「ちょっとパパ、写真のくせに、動かないでよう」って感じでした。)

博物館の重信展ご担当の香林さんはすごく熱心。夜の9時半ぐらいになってもまだ職場にいて、ファックスなどで連絡をくださる。連日残業みたいだ。お子さんもいるのに、申し訳ない。

明日は龍さんが、図録の略年譜の校正を持って、博物館においでとのこと、私も行くことにした。略年譜は、龍さんと岩片さんに頼りっぱなしだ。

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10月10日

重信展初日。会社を早引けして2時半ごろ到着。事務室には顔を出さず、とにもかくにも三階展示室へ。隣の部屋に見覚えのある面々が集まっているのがちらりと見えたが、そちらは無視して、とりあえず一人で見て歩く。

そんなに広い展示室ではないけれども、行き届いた展示だ。関東大震災の日、父を抱いて恐怖におののいたことが書いてある祖母の日記が開いてある。

ざっと見回すだけでも、私が見たことのない写真や色紙がだいぶ展示されている。父が座談会で沢好摩さんと話しているテープを聞けるコーナーがある。

富澤赤黄男(大男だったとか)の羽織を父用に一回り小さく仕立て直した着物(加茂達彌さん所有)と、そのときのハギレを表紙に使って寺田さんが作った句集(寺田さん所有)が仲良く並んでいる。

今日はかなりひどい雨だ。しーんとした展示室をこっそり見て歩いていたら、見つかってしまった。博物館の館長さんがわざわざご挨拶に上がってきてくださり、記念写真。

そのあとちょっと問題が起きた。

さっき書いた赤黄男の羽織と寺田さんが作った句集について、寺田さんが、これは違う着物だと言い出したのだ。

「この句集には羽織の裏地を使ったが、この着物の裏地は違うじゃない」

そ、そんなあ。去年の夏、何軒ものゆかりの方々のお宅をまわって、この二つのものを別々のお宅で見つけたとき、ジグソーパズルのピースが思いがけなくはまったようで、すごく嬉しかったのだ。だのに違うだなんて。

がっかりしながら「図録を訂正しなくては」と、香林さんと二人でガラスケースの中をもう一度見る。あきらめきれない思いだ。それに、見れば見るほど、着物の生地と句集の背表紙の布はそっくりだ・・・背表紙は。

はっとして寺田さんを呼び戻す。

「でも、この背表紙は着物と色がそっくりなんだけど、本当に違いますか?」

「ん? え?」

つまりこうだった。

寺田さんが裏地を使ったと言っていた「表紙」はヒラという部分であった。背表紙はやっぱりこの着物の表地のハギレに違いないと、かわるがわる覗き込んで結論した。

さらにヒラに使った裏地も、おそらくは元の羽織のもので、着物に仕立て直したときに裏地を取り替えたのだろうということになった。一件落着。あー良かった。

隣室を貸してもらって、全句集の話をした。展示品のなかにあった、句を書いたかわらけ」を全句集の函に使ったらかっこいいとしきりに言い合う。そこで沖積舎の沖山さんに電話。

「これを箱の絵に使ったらいいと思うんですよー。すごくいいですよー。って今もりあがってるんですけどー」

「そうですか。近いうちに見に行きますよ」

そんなこんなで四時半に博物館を出る。駅前の「華屋与兵衛」というファミレスへいって、お茶で乾杯しさらにビールで乾杯。岩片さん、高橋さん、寺田さん、それと実は名前があやふやな人が三人。(よくお会いするので今更聞けない・・・。)

みんなより先に帰る私が、「こんなざーざー降りの日に来てくれたみなさまにせめても」と思って会計を済ませて外へ出たら、追いかけてきてお金をくれようとする。(たぶん牛島さんという方だと思う。)

断りきれずに結局受取ってしまった。あとで見たら、私が払ったのより2000円も多かった。あーごめんなさい。もう二度と二度と、気をきかせたりしません。


そうそう。図録もすばらしい仕上がりである。約二年前からこの仕事に取り組んだ香林さんはじめ博物館の担当者の方たちは、全く俳句のことを知らなかったというが、短期間にそうとうのものを読破し、展示に必要な文章などを適切に拾い出してくださった。

大量の文章と展示候補の遺品色紙句集などから、必要なものだけに絞って構成するのは、とても大変なことだったと思う。ただただ感謝感謝だ。(これが800円は安い。親戚に配ると言ったら、重たいだろうからと私の家まで持ってきてくださった。中に文章を書いたとはいえ、どうもすみません、すみません。)

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11月4日

第五回編集会議。再校。郷土博物館の一室を借りた。(タバコが吸えない・・・) 防音された部屋だから、こころおきなく侃侃諤諤ぎゃおぎゃお騒げる。

あいかわらず旧字に悩まされる。それでもこの博物館は図書館でもあって、会議室はその図書館の2階の、辞書や資料がいっぱいあるところの奥なので、でっかい漢和辞典をちょいと拝借。

「弟」という字の頭のツノは旧字なら「ハ」だろうと思っていちいち直したが、どうも気になる。調べてみたら旧字でもツノでいいんだった、なんて調子で6時までやっても終わらず披露困憊。

帰りは駅前のファミレス「華屋与兵衛」。続きは11月23日に。

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11月17日

講演の日。午前中、下の息子の小学校の音楽会があり、それが終わるやいなやいっしょに駈けつけた。エレベーターに乗ろうとしたら講師の佐佐木幸綱先生といっしょになった。展示室付近は人がいっぱいだ。

おお身内が集まっている。叔母(重信の妹)は、北海道から息子とその奥さんを呼び寄せたし、私は私で、あんまり興味なさそうな上の息子とその奥さんを、「おじいさんがどういう人だかこの機会に知っときなさいよ!」とか言って来させた。父の弟二人と群馬の親戚も来ている。地元だから、幼馴染も来てくれている。

もちろん俳人もいっぱい。はじめに目にとまったのは仁平さん、筑紫さん。どこに視線を転じても知っている人がいる。

講演に先立つ講師を紹介は、パパが佐佐木さんについて書いた文章を館長さんが読み上げる形で行われたのはなかなかの趣向だった。

(その文章は岩片さんが提供したものだそうだ。)講演は一般の人にもわかりやすくて、すごく良かった。本当はわかりにくい事柄でも、話を遠回りさせて重ねて説明するからわかりやすい。

でもここは、裏話のコーナー。講師というものは、演壇の机に両手を広げて突っ張って話すものだ。特に佐佐木先生の話っぷりは力強い。声に力が入ると机に突っ張った手にも力が入る。

ところがその机がキャスター付きで、だんだんに聴衆の方に近づいて来るじゃないか!

ときどき先生自ら机を引き戻すが、まただんだんと出てきてしまう。途中で館長さんが気がついて、ストッパーをあてがって動かなくした。ほっとした。

(なんとなく今まで書きそびれたが、この館長さんは、顔を見ただけで、あ、いい人だなとわかる、本当に気さくで親切な方でした。)

講演のあとは駅のそばの「一源」で宴会。佐佐木先生も来てくださった。この会は、龍さんと酒巻さんと大井さんが雑事を引きうけてくれた。

はじめの挨拶は叔母の高柳美知子、乾杯は山本紫黄さん、あとはいろんな人がお話。私はパパの知られざる名作、戸田東中校歌を披露。

香林さんが途中から参加。なみなみならぬ熱意で重信展に取り組んで成功させてくれた功績をたたえ、「夢幻航海賞」を贈ると、岩片さんが言った。(といっても表彰状もなんにもない。賞状作ろうかなあ。)

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11月23日

第6回編集会議。場所は前回と同じ郷土博物館2階奥の会議室。今日はいつもの1時じゃなくて12時からだったことを忘れて寝坊した私は30分遅刻。私が編集人の歌誌「かばん」の12月特大号をその前日に入稿し、気がゆるんだようだ。

(月刊誌「かばん」の編集はきつい。特別号はことに過酷。だから編集人は一年交替になっている。)


今回は前の残りと、フォントの統一などをやるだけなので、少し気が楽だ。

天気がすごくいい。どこかの犬が散歩をねだってか、しきりに鳴いている。

途中のタバコ休憩で一階に降りたら沢好摩さんがいた。横山康夫さんと長岡裕一郎さん(字が違ったらごめんなさい)もいっしょに重信展に来たところだった。

講演も終り、すでに、重信展終了後、貸し出したものの返却日の調整が始まっている。もう残り少ないんだなあと実感する。あと2週間ちょっとだ。

明日もあさっても用事で行けないのが残念だ。

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12月9日

重信展最終日。

いやその前に昨日、最終日前日のこと。岩片さん、寺田さん、龍さん、大高さんご夫妻が見えた。どなたかと待ち合わせたそうだが、その誰かさんは忘れたらしくて結局来なくかった。「華屋与兵衛」で、先週亡くなった三橋さんのお話などをして七時頃まで過ごしたそうだ。

私の方は、頭が「かばん」新年号などでいっぱいだ。書かなければならな文章がいくつもあり、パパのそばにいれば多少は御利益がある気がして、展示会場が閉まる四時半まで残った。

ご利益はなくて、パソコンをいじりながら、併設の図書館で借りた犬の本を読んでいるばかりで時間が過ぎた。ゆかりの人々と会えるのも楽しいが、「パパのそばにひとりでいる時間」も同じぐらい好きだった。これも明日で終わりかと思う。

なんでも終わりがあるんだ。帰ってから、明け方までいろんな文章を書きまくった。

今朝、目がさめたらもう9時10分。これでは開場の10時には間に合わない。いろいろあって、会場に着いたのは結局11時。だいじょうぶ、まだ誰もいない。

もう誰が来てもいいぞと思った昼過ぎ、龍さん、小駒さん、そのあと美知子さん年雄さんなど、いろんな人が来た。写真をいっぱいとり、なんだか昔あったことをみんなで再現しているような、他人の事のようなかんじで終りの時間が来た。帰っていろんなものの続きを書いた。来春こそは「全句集」を完成させなければ。

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2002年1月27日

三人のおじさんたちをリレーして数日前に届いた三校がなかなか終わらない。再校の赤字はおじさんたちが見たようなので、私はできるだけ原典と見比べてやっているのだが、三日目ともなると寝不足で集中できない。


今日は「かばん」の歌会なので、会にはちょっと顔を出し、近くの喫茶店で校正。「不思議な川」をやっていたらついに居眠りしてしまった。

やがて歌会が終わって、「かばん」メンバーが喫茶店にやってきた。親友西崎さん(西崎憲/翻訳家・ミュージシャン)に「日本海軍」のあたりの校正を手伝ってもらった。(西崎さんはその日締め切りの原稿があるのにつきあってくれた。)

彼の新しい目が、句のまちがいを発見。三校だから句にはもうまちがいはないと思っていたのになあ。そうか、こんなふうに、パパの句を読んだことがない人に頼んで、句だけ全部校正してもらうようにすれば良かったんだ。と、思ったがもう遅い。一応全部目を通したし、四人見ていることだし、これで沖積舎に返すことにした。

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2月20日

最終校正。神保町で待ち合わせ。本が好きなおじさんたちは、この町を歩くだけで興奮するらしい。古書店ごとに立ち止まらずにいられない。ともあれ喫茶店の奥に陣取った。最終校正だから、もう、チェックしたところだけ見ればいい。その作業はさっさと終わり、装丁の話などになった。


しかし私はちょっと心配だった。印刷屋さんはパソコンでやっているのだ。私は「かばん」誌の誌面をワードで作っているが、細かい修正をする際に、その場所はちゃんと修正したとして、そのとき削除したものを、いつのまにか別のところに挿入してしまうことがある。ちょっとしたマウスの動きでなんでもない行を消すこともある。

つまり、文字を反転させたところでうっかりドラッグしちゃったり、改行キーを押してしまったりすることがまれにはあり、実際そういう失敗があったからだ。だから一度、ざっと読んだ方が安全だなあと思うのだが、もうそれをする気力はない。


お願いしてある栞の文章の締め切りは今月末。装丁は寺田さんが来月なかばまでにまとめ、帯は岩片さんが考えるということになった。仕上がりは3月中だということだが、誰ひとり遅れずいっさいのアクシデントがなければの話。

4月の発行になるのではないかと思う。

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4月15日

四月といったけれども、栞を書いてくださる方のご都合などいろいろあって、まだできていない。

6月と思えば、まあまちがいないと思う。

箱や表紙の装丁は、寺田さんがやってくれた。画像でみた感じ、すごくかっこいい。お楽しみに。

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5月26日

おととい沖積舎から、もうすぐ本が仕上がるという連絡が入った。ああついに!!!。

気が緩んだから、ちょっと無駄話を書こう。

最近「ヒカルの碁」という漫画を読んだ。マンガ喫茶でちょっと読んだらおもしろくて、ついに今出ている16巻まで全部買い集めてしまった。

おもしろい点はいろいろある。ファッションとか、微妙な感情表現とか。でも興味の中心は、庇護者を失ったあとの主人公の成長についてだ。


主人公ヒカルは、祖父の物置にあった古い碁盤をみつける。そこに宿っていた平安時代の棋士の霊がヒカルの意識に棲みついて、それまで興味の無かった碁を始める。はじめは霊の言うなりに碁を打っていたが、しだいに自分でも打ちたくなり、霊に碁を習いながら力をつけて、ついにプロ試験にも合格するのだが、ある日突然、霊が消えてしまう。


こういう話は、例えば、少しぱっとしない主人公が妖精や動物など、人間以外のものの助力を得る、シンデレラ、鶴の恩返し、ドラエモンのような系列の物語で、「鶴の恩返し」は違うけれども、多くは主人公の自立がその妖精などとの別れと重なる。そして、自立の物語はおうおうにして、そこで終わってしまうのだ。

しかし、この漫画はまだまだ続いているらしい。そこが気に入ったのである。


また、成長の物語では必ずといっていいほど「父」がキーとなっている。ヒカルの父はいるのだけれど、今のところパジャマの足しか出てこない。あまり子供の成長に関心を持っているとは思えず、まったく存在感がない。ヒカルはノビタ君ほどぱっとしない少年ではないが、これといった目的の無い生活を送っていた。平安時代の霊は、ヒカルに目的を見出させ、その成長の手助けをした。


もうひとり、ヒカルのライバルにアキラという少年が出てくるが、この子の父は碁の名人で、存在感の大きい父だ。幼い頃からアキラに碁の手ほどきをし、アキラは父を目標にして生きてきた。彼もいつかはその父からの自立をなんらかのかたちで遂げなければならないだろう。


ヒカルとアキラという名前の対比が、源氏物語の薫と匂宮みたいでおもしろいが、(そういえばあれも複雑に父がからんでいたなあ)、この生い立ちも状況も違う二人が、ライバル関係だけれど惹かれ合い、実は助け合いながら、自立し成長しようとしている。


霊が消えてしまったあと、ヒカルは霊を探して、古い棋譜を見る。そして、霊の碁の力に改めて驚き、「自分なんかいらない。あいつにすべて打たせてやれば良かった。もう自分は打ちたいなどと言わないから、どうか戻ってほしい」と号泣する。そして、碁をやめてしまうのだ。

そう、私にはこの自己否定がよくわかる。


パパの著作権を持つ私は、パパの印税をもらう。そんなとき、

「私が生まれるのでなく、パパが、二倍の命を持って、いまでもこの世界で元気に著作を続けている方がいいんだ」

と、決してすねているのでなく、本気で思ってしまう。自分の文章を書きながら、


「でもパパならもっと上手に、もっと鋭く書けるんだ。より優れた書き方があると知りながら、そういう書き手が現れるのを待たずに、ただ『自分が書きたい』という欲求で、つたない文章を書くなんて、世の中に迷惑をかけるだけのわがままなんだ」

などと本気で考え、泣きたくなってしまうことがしょっちゅうある。


論理的に考えればこれは間違いだ。たまたま父が優れた人間だったとして、なんでわざわざ私と父を見比べる必要があるだろう。父以外にも優れた人はたくさんいるわけで、それをいちいち気にしていられるだろうか? また客観的に見て、総合的には父に劣るとしても、部分的には私独自の力で切り開いた手柄もあると思われる。

にもかかわらず、私の自己否定は深く根付いてしまって、気がつけば「パパに戻ってほしい、そしたら私は全部やめる」と、なんとなく思ってしまっている。


だから、ヒカルがどのように碁に復帰するかが気になる。雑誌ではとっくに進行しているが、私は雑誌を読んでいないので、単行本の次刊の発行を待っているというわけだ。


次刊は六月のはじめに出るので、父の全句集に続いて出るわけだ。どちらもすごく楽しみだ。

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6月8日

本ができあがった!! と思ったら、ああー!もうっ!


世の中、完璧ってことはないもんだなあ。「日本海軍」の項のはじめに、なぜか「日本海軍補遺」の註までいっしょにくっついてしまっていると、寺田さんからメールが来た。


さあ大変だ。編集委員と沖積舎の間で電話とメールとファックスがせわしくやりとりされた。無念のやり場がなく、少々ケンアクなムードが・・・。


しかし、折しもテレビでは連日サッカーをやっている。彼らが、懸命につないだパスのすべてが見事にシュートを決めるっていうわけではない。それでも、選手たちは、嘆く暇なく、まだ生きているボールに向き直る。最善を尽くし続ける。


そうだよ。このミスは、本を作りなおさなきゃならないほどじゃなくて、きちんとした正誤表をつければ、日がたてば我慢できるていどに気持ちが納まるはずだ。

今は、どんな文面で、どんな正誤表をつけるのか、シールをはって訂正する形だとか、とにかく具体的対応を考えなくてはいけない。


あらためて本を見れば、とにかくすごくかっこいい本だ。装丁はさすがテラポール!(寺田さんのことをなぜか子供の時からそう呼んでいる)。箱はきつすぎずゆるすぎず、(よく、いくら振っても箱から出てこない頑固な本があるでしょう。ああいうふうにならないといいな、と思ってた)気持ちよく箱から出てくる。

いろいろあったけど、私たち編集委員のいろんな思いを実現したところがたくさんあって、他のメンバーだったらこうはいくまいと誇れるところがある、いい本じゃないか!

今日は丸山正義さんが訪ねてきてくれて、叔母の美知子宅で会った。父の九中時代のお友達で、「群」の幾冊かコピーしたいとのこと。父とほぼ同い年。娘さんも私と同い年だって。


九中時代、大塚中町の家に丸山さんはしばしば遊びに来て、父といろんな話をしたそうだ。叔母の美知子は、父と友人たちの話がおもしろいので、いつも階段に身をひそめて聞いていたという。

ところで、丸山さんは叔母のことを全く覚えていなかった。普通、友人の家の年頃の妹とかって、ちょっとは気にならないかなあ?

叔母はよっぽど恥ずかしがりで隠れ通したか、丸山さんが女の子なんかに興味がなかったか、それとも・・・?


なにはともあれ、世の中は誰の思い通りにもならない。それはある意味でめでたいことなのだ。私たちは、人智の及ばない世界に所属しているだけなのだ。

その人智の及ばない世界が健在であるならば、例えば私たちの中のおろかな誰かの思い通りに人類が滅びる、ということはない。どのように意義深いことも、邪悪なことも、必ずどこかで破綻しなくてはならない。そういう法則のようなものが、常に私たちを翻弄し、まぜっかえしている。そういうルールなのだ。

だから、いつも新しい局面に直面し続け、最善を尽くし続けなければいけない。終わりなき世のめでたさとは、終わらないサッカーなんだ、うん。

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ところで「ヒカ碁」はどうなったか。

ヒカルは、結局、碁を打てば、その碁のなかで例の霊に会えるとわかって、碁に復帰する。

(そううまくいかないんだよなあ。)

ライバルのアキラと対戦し、互いにライバルであることを確認しあい、いろいろな問題が解決し、物語は一区切りつく。

(ああやっぱり。お話のなかではみんなうまくいくんだ。)

最後にヒカルの夢に、霊があらわれる。そして、扇子を手渡す。バトンのように。

(そううまくいくにはどうしたらいいのか、わかんないなあ)

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7月13日

群馬の墓参り。すごく暑い日。パパの命日のころは梅雨だからたいてい雨になる。生前「僕は晴男だ」と自慢していたことから、墓参りや法事のたびに、「彼は晴男を自認していましたが」という話になってしまうのが常だった。しかし、私が思うに、そもそもパパが晴男だというのは、あまり正確ではないのではないだろうか。


確かにパパは一見悲観的絶望的に見えて実は悲観や絶望には向かわず、「晴れ」をめざす人だ。そういう意味でことさら「晴男」と言ったのかもしれない。


悲観や絶望を口にする人の多くは、あきらめてそこで立ち止まること、これで仕方ないと状況を受け入れること、それ以上の努力から免れることが、自分の責任でないといいたいだけなのだ。世界は悲観的絶望的なもので、自分はそれに気づいたんだと、そう言って努力の放棄したいだけなのだ。

その人は世界を否定して、そんな自分を肯定したのだ。それはちょっとうしろめたいに違いない。だからその後は、自分の選択の正しさをなにかにつけて証明したくなるだろう。ほらね、世界は悲観的絶望的じゃないか、ほらね、ほらね、やっぱりね、何だってうまくいきやしない、と死ぬまでいい続けるだろう。


パパはそういう人ではなかった。パパの悲観や絶望は、ほらねと言いたいためのものではなかった。「どんなに絶望的でも、最後まで、刀折れ矢尽きるまで、状況に立ち向かってがんばらなければいけない」と言っていたし、事実、パパの話が悲観的絶望的に聞こえるのは、状況を正しく把握しようとして楽観を許さないからだったのだ。

パパはそういう自分に自信があり、そしてその自信もまたパパ流にあらゆる楽観を排除したあとの自信であって、その上で「僕は晴男だ」と言ったのだ。


そういう意味でならパパは確かに「晴男」である。しかし比喩に使われた言葉はもとの意図を離れることがある。パパの意図を考えずに「晴男」というものを思い浮かべると、どうしても気になるのが、あまりにも決定的な弱点だ。

晴れるばかりでは農業はできないじゃないか。パパにはそういう弱点(農業には本当に向いていないが)はなく、雨が必要なら雨を降らせようとするのではないかと思う。ゆえに、本当はパパは全天候男である。


それはともかく、群馬に墓参りに行った。

本所の駅で待ち合わせ、タクシーでお墓に行く。墓参りは照れくさい。というか、何かこの行動には自分の内側にちゃんとした根拠がない、というような少し宙に浮いているような非現実感があって落ち着かない。

私だけかと思ったら、どうも三人のおじさんたちも少しそういうふうに見える。なんだかそそくさと線香をあげた。

デジカメで、タクシーの運転手さんに写真をとってもらったときも、なんとなく人事のように気分がおかしかった。「タクシーを待たせているから落ち着かないんだな」と思ったりした。


線香をあげた。写真も何枚か撮った。

さあ帰ろう。そんな感じで本所に戻って蕎麦屋に入った。そして大ボケに気がついた!

私は新しい全句集を持って来ていた。何のためかといえば写真をとるためだ。

だのになぜか、お墓では完全に忘れて撮らなかったのだ。

知られざる名作 戸田東中学校校歌

中学校に入学した日、体育館で配られた「校歌」に、「補作 高柳重信」とあるのをみてびっくり。

「補作」している様子が目に見えるようだった。


私は子供のとき、ちょっとした文章を父と一緒に書いたことがある。その楽しかったこと。文章を適切に書くこと、無駄なく、分かりやすく、立派な文章に変貌させてゆく作業が、すごく面白いことだとわかった。


作詞の落合孝内というのは私の義理の叔父で、英語の先生だ。すでに故人で、棺には昔の「高柳重信全句集」が入れられたと聞いた。作詞が趣味で、こういうことが好きな人である。父の「補作」は、きっと、私が感じたのと同じように、すごく楽しい言葉の体験だったにちがいない。


戸田東中学校校歌


落合 孝内 作詞

高柳 重信 補作

尾花 勇 作曲


1.日毎に仰ぐ遠富士の

白く清らな 望みをそだて

ともに肩よせ ひとすじに

眉にかかげる 高き理想

ああ 東中 われらは学ぶ


2.浮雲あそぶ 荒川の

流れゆたかな 心をたもち

ともに睦びて すこやかに

きたえやまぬは 強きからだ

ああ 東中 われらは集う


3.過ぎし日戸田の野に栄えし

桜草こそ われらが校章

ともに誓いて 忘れじと

胸にともすは 若き誇り

ああ 東中 われらは歌う


この校歌、一見普通だが、まったく無駄がない。

「日毎に仰ぐ遠富士の」というように、短い字数に多くの情報を入れているところがいかにも俳人の手が入っていると思えるし、3番で、市の花である桜草が近辺にほとんど見かけないことを配慮してか、さりげなく「過ぎし日」と断るようなウソのなさが、とても父らしい感じがする。

この歌が、「父の知られざる名作」である部分を含んでいると言っても、落合孝内先生は気を悪くしないだろう。

私はこの校歌によくよく縁がある。高校に入ってはじめの音楽の時間、先生の自己紹介に驚いた。それは東中校歌の作曲者、尾花勇先生だったのだ。


よくある誤解集


1 え、「しげのぶ」じゃないの?


俳人としての「重信」は「しげのぶ」とは読みません。ふりがなは「じゅうしん」としてください。


俳句事典やアンソロジーなど、あちこちに「しげのぶ」とふりがなが付いていますが、俳人としての重信は「じゅうしん」と読みます。


私が祖父(一良)から聞いた話では、大隈重信のように偉い人になってほしくて、曽祖父(信五郎)が父に「しげのぶ」と命名したそうですけれども、

「“しげのぶ”は親族などの間の呼び名で、俳句の世界では“じゅうしん”だ」

と父が言っているのを聞いたことがあります。

俳号だというほどではないけれども、本名の「しげのぶ」とはあきらかに区別して使っていました。

俳句関係の人たちはみんな「じゅうしんさん」と呼んでいましたし、俳句関係の会などの自己紹介でも「じゅうしんです」と名のっていました。

「しげのぶ」でもまちがいとまでは言えないけれど、「じゅうしん」と読むのが妥当だと思います。


2 高柳重信の俳句には「/」がはいっているんだよね?


重信句には多行書きのものがあり、それを誌面の少ないところに引用する際、改行を「/」であらわすことがあるのですが、それを、もともとそういう句だと思ってしまう人がいるようです。

「/」を入れて引用するとき、もし一行でも余裕があるときは、多行書きの改行を/で表したという注をつけてくれるといいのですが。


3 高柳重信と中村苑子が結婚して、その娘が高柳蕗子なんじゃないの?


これは事実ではありません。

重信は昭和28年に、山本篤子と結婚。私、蕗子はその年に生まれました。

篤子とは昭和36年に離婚。その後重信は中村苑子と終生行動をともにしますが、そこに結婚という家族的血縁的な縁は必要ないと判断したのか、入籍はしていません。

「そのぽん」

重信関係 雑記


2004・10・10 ●や★の発案について


年雄さん(重信の弟)から聞いた話と、それについて考えたこと


祖母(重信の母)の二十三回忌で群馬にいってきた。こういうときはいつも、近所に住む年雄さんという叔父の車でゆく。

年雄さんというのは、若いころの父の句集の奥付に、印刷者として名前がある高柳年雄だ。父の11歳年下の弟である。


年雄さんが昔、父といっしょに句集などを作っていたときは、詩や絵の話を接点としていろいろ会話したそうだ。『蕗子』の句を書いている時期、年雄さんが好きな画集を見せるなどしたことがあった。父の若いころの句には、当時父といっしょに見た画集を思い出させる句がいくつかあるという。なるほどそういうところから着想を得た句もあったかもしれない。


また、当時の父の句は多行書きでも、特に、字を絵のように何かの形に並べるものだった。そういう試みはすでに詩の世界ではあったことで、父はもちろん、詩や絵が好きだった年雄さんはそれを知っていた。

父の多行作品は、今は字下げを1字単位でしているが、活字を使っていた当時は、字下げや文字間隔を自在に微調整できた。父はその調製を年雄さんのセンスに任せていたという。


父の句集に、●や★が並べてある妙な句がある。これは、もともとは活字がなくて伏せ字になっていたのを、年雄さんがいたずらして、●や★にしたものである。父はそれをおもしろいと思ったらしく、そのまま句集に入れたという。


父は、高柳家において精神的リーダーみたいな役割の一端を担っているところがあったと思う。家族や親戚のもめごとの解決に、父が無くてはならない存在であったことは、すでに別の場所にも書いたし、父には、弟妹の理解者みたいな面もあったようだ。

妹の美知子が大学受験するとき、昔のことだから女に学問なぞいらないという空気の中で、父が味方して受験できるようになったという。そんなふうに、父は、年雄さんの絵の趣味も応援していたらしい。


戦後、父は雑誌を発行するためGHQに検閲をうけにいって、偶然長谷川秀雄という蕨在住の彫刻家と知り合った。蕨は隣の市である。帰って早速それを年雄さんに伝え、年雄さんは早速たずねていって弟子になったそうだ。年雄さんは、今でも絵を描いている。


そんな父だったからこそだろう、年雄さんには、ほんのちょっとわだかまる思いがあるようにみえる。

年雄さんの先に書いたいたずら(●や★のこと)を、父が黙認してそのまま句集にしたとき、それについて父が何も年雄さんに言わなかったという点だ。

「兄貴は何も言わず、そのまま直さずに句集に載せたよ」

と、年雄さんが話すときに込められるかすかな思い。

父は年雄さんに、たとえばこんな一言を言えばよかったんじゃないだろうか。

「あれは面白いアイデアだね、このまま使うよ」


ある言葉の組み合わせに価値ありと、作者が認めたとき作品になる。父はそういう考え方をする。句は作者が作るというよりも、句に出会い、句ができたと認めるのが作者だと。だから、●や★は、弟のいたずらの偶然の成果であって、それを句と認めるのは自分だと父には思えたはずだ。

だが、価値を見つけて作品と認める以上、ただのいたずらもアイデアに昇格するのだから、いたずら者にも手柄があったといえるだろう。それをヒトコトねぎらう必要があったろう。


しかし、アイデアとしての手柄を無視したことそのものが直接の問題ではなくて、あとワンクッションある気がする。

年雄さんは父を、理解ある兄として慕っていたし、印刷を信頼して任されていることを誇りに思ってもいた。つまり、「兄の手伝いができるのを喜ぶ弟」であるだけでなく、「能力を認められた協力者」としての誇りもあった。

その誇りがあるからこそ、「弟のいたずらの成果は自分のもの」という態度が、いまだにちょっとひっかかるのではないかと思う。


父は通常、相手が子どもでも、理解して尊重する。私に接するときもそうだった。

私は、完全に父に庇護されている心地よさにひたりつつ、対等者として尊重されることが誇りであって、その配慮はあって当前と期待していた。だから、たまにちょっと尊重されなかっただけで、すごく違和感があるのだ。年雄さんも、これに似た感情を抱いているのではないかと思う。


それは、悔しさやうらみではない。パパがカンペキではないことが残念なのであって、大事なものにキズができたような感じなのだ。