高柳重信 評論

俳句形式における

前衛と正統

俳句形式における前衛と正統 (「国文学」昭和五十一年二月)

※高柳重信全集(立風書房 S60年発行)よりスキャン

ご注意:画面では読みにくいため、段落ごとに空白行を入れています。原文に空白行はありません。


正岡子規の俳句革新運動以後、昭和五十五年の現在の俳壇に至るまで、この俳句形式に新しい意図と願望を託そうとした俳人たちや、そのおのずからなる集団的な行動は、決して少なくはなかった。しかし、それらの俳人たちのうちの誰と誰とが、また、どのような集団的行動が、いわゆる前衛の意識を明白に持っていたかということになると、実はあまり定かではない。


いま普通に考えられている子規の俳句革新運動の概略とは、幕末から明治にかけて、蕉風を口にしながらも完全に形骸化した月並宗匠たちの俳句に対し、開化的な写実主義の方法を新しく導入することで、その低俗な観念の類型を打破しようという試みであったろう。もちろん、子規は、開化的な明治の人たちの多くがそうであったように、一方で何ものかへの復古的な精神を堅持していたので、丹念に俳諧の古典を遡りながら、月並宗匠たちの芭蕉に対する愚かな俗解を正そうとし、蕪村その他の俳人の復活と再評価にも、大いに努めたのである。それは、あるいは、前衛にして、且つ正統を強く自負せんとした気概の現われと言うことも出来よう。


子規の俳句に対する考え方は、みずから手を下して行なった厖大な俳句分類による貴重な知見と、卓抜な洞察力によって支えられていたため、わずか十七字前後にすぎない極端の詩型の運命について、そこで数学的に可能な言葉の組み合わせのすべてを計算しても、おそらく数十年のうちにあらゆる作品を書き終って、すぐに尽きてしまうであろうと予言しながら、なおかつ、かなり積極的なものであった。あるいは、そのような知的で冷静な判断があったからこそ、あまり閉鎖的に十七字のみ有季のみを固執することなく、より柔軟に俳句形式の領域を考えようとしたと、むしろ言うべきであろうか。したがって、子規は、それほど遠くない将来に俳句の日没を予感しながらも、そのとき勇気に満ちて、新しい俳句の夜明を告げわたっていたことになる。


だが、いまにして思えば、この子規が告げわたった新しい俳句の夜明は、それを鼓吹した子規自身や、それを身近に開いて発奮した人たちが、そのとき漠然と思い描いていたよりも、はるかに重大な意義を暗示するものであった。その新しさは、実は革新的であると言うよりも、むしろ革命的でさえあった。


周知のように、子規は、非芸術きわまるものとして俳諧の連句を否定した。なぜ連句が非芸術なのかについての子規の見解には、もちろん、その是非をめぐって数多くの疑義を呈することが可能である。しかし、とにかく子規が、その後みずからの判断によって、従来の発句とは異なった新しい何ものかへの出発を行ない、それを俳句と呼ばうとしていたことだけは、疑う余地のない確かな事実であろう。


連句を否定するということは、すなわち、脇以下の一切の付句と完全に絶縁して、いさぎよく独立自存の一句のみを目指すことである。言うまでもなく、すべての発句に、いつも脇以下の付句が付随していたわけではない。事実、多くの発句は、付句なしの単独のかたちで存在し、その単独の一句のまま鑑賞されてきている。また、直ちに脇以下が付けられるのを待ち受ける状況の中で、まさに発句として挨拶に徹したものがある一方、のちのちまで単独のかたちで存在することを予期したように、やや円環的な一句完結の言語構造に近づいたものもあった。同じ発句とはいっても、それが制作されるときの状況に応じて、作者の言葉に対する姿勢は微妙な変化を見せていたのである。しかしながら、子規のように連句を否定し、はじめから一切の付句を拒絶しようとすることは、それと本質的に異なるであろう。それは、もはや連句の発句が独立したというよりも、まったく新しい詩型の誕生を告げわたっていたと見るべきであった。


端的に言えは、子規が新しい詩型としての俳句を提唱したあとの俳人は、同じ俳人の名で呼ばれてはいても、それ以前の俳人とまったく違う存在になっているはずであった。この新しい俳句形式に専念する俳人は、それ以前の俳人が連句の脇以下において存分に駆使できたような、七七という魅力に富んだ言葉の旋律を失なったほか、実にさまざまなものを断念したことになるのである。このとき誕生した俳句形式は、むしろ、その数々の断念によって、未知なる前途へ旅立とうとしていたのであった。だから、厳密に言えば、このとき、いまだ俳句は一句も存在せず、いわば既知なる発句に取り囲まれた状況の中で、俳句にかかわる諸問題が論じられつつあったのである。したがって、俳句形式は、その作品が出現しないうちに、はやばやと予見的に名づけられてしまった不思議な一ジャンルであった。そのことを深く思うならば、このときの子規には、まことの前衛にふさわしい勇気と、まことの正統にふさわしい洞察とが、まさに二つながら兼ね備わっていたと言うべきであろう。


ただし、子規自身の遺した作品が、従来の発句とくらべて、どれほどの差違があったかは、かなり疑問である。連句の否定と、それに付随するさまざまな断念の結果、あるべき俳句として考えられるものの極限について、まだ子規の想像力はほとんど育っていなかったようである。したがって、未知なる俳句との出会いを目指した子規の作品は、一応は発句から遠ざかろうとしていても、せいぜい発句もどきにとどまるものであった。しかも、子規は、それが窮極の俳句ともいうべきものと非常に大きな隔たりを持っていることを、ほとんど自覚していなかったようである。そして、このとき、子規ばかりではなく、まだ誰も、その名にふさわしい俳句と出会った俳人はいなかったのである。


したがって、この俳句革新運動は、子規の死によって、大きく二つに分裂してしまうのであった。そして、子規が俳句形式に対して持っていた積極的な抱負を、より積極的に推進しようとしたのは、子規の高弟の一人、河東碧梧桐である。


碧梧桐が行なった全国的な行脚の旅は、そのころ三千里と呼はれて異常な人気を獲得したが、それは単に地理的な行脚にとどまらず、いまだ俳句形式にとって処女地ともいうべき領域への方法的な行脚でもあった。これは、やがて新傾向の俳句として急速に普及していったが、その特色とするところを、いま手みじかに言いとめることは難かしい。なぜなら、まさに碧梧桐は行脚の人であり、俳句に対する考え方も、それについて主張するところも、その時々の閃きに応じて刻々と変化し、遂に終生とどまることがなかったからである。それは、まだ見ぬ俳句に出会うための、いわほ当てどのない放浪の旅であった。そして、それを内から支えていたものは、その未知なる俳句に是非とも出会いたいという激しい情熱であったろう。碧梧桐も、また、俳句は発句と異なるということ以外に、俳句の所在について具体的には一切の心あたりを持たなかったのである。


もちろん、さまざまな言挙げは行なわれたが、要は、従来の俳句形式(というよりも発句の様式)が、まぬがれがたき属性のごとく身に纏ってきたもの、いわは発句的な一切の既成概念を、次から次へと脱ぎ捨ててゆくことであったろう。それは、あまりにも心情的に前傾しすぎていたが、とにかく前衛的な心意気の激しい燃焼であった。


この新傾向の俳句が、流行性の熱病が蔓延するように全国を席巻してゆく光景は、実にすさまじいものがあった。このような短時日の間に俳壇が変貌してしまう事態は、のちに新興俳句運動の抬頭に際し、もう一度見られるだけである。


それにしても、この渦中にあった俳人たちを、その内面から揺り動かしていたものは何であろうか。おそらく、はじめは、従来の俳句表現には見られなかった言い廻しや語調などを求めて、いわば日に見える範囲でさまざまに字句の工夫を凝らしているうちに、おのずから俳句形式に託すべき何ごとかが、長い潜在の眠りから目覚めてきたのであろう。やがて、それに託すべきものは、いわゆる風流韻事の類ではなくなり、より社会の状況に密接し、人間の内面の欲求に深くかかわる何かとなっていったのである。それは、いつの間にか胸中に生まれ育ってやまぬもの、いわは文学そのものであった。


したがって、この新傾向の俳句は、明治末年から大正の初頭にかけて、絶えず新しさを求めて揺れ動いた末に、荻原井泉水と中塚一碧楼の二人に代表されるような自由律俳句へと、次第に発展しつつ収斂されてゆくが、そこに当時の社会主義運動の実践者や、きわめて精神的な求道者の姿を見ることも、また当然であったろう。


自由律俳句の全盛期は、たぶん大正時代にあったにちがいない。それは、ロマンチックな人道主義と、ほとんど純真無垢に近い社会主義と、繊細で厭世的な魂が縋りつくように求めるストイックな信仰と、それぞれに当時の社会の状況を反映した俳人たちが、真剣に一途に精神の火花を散らした一時期であった。それらの俳人たちにとって、この時代は、少なくとも主観的には、どうしても書かずにおれぬと信ずる何かがあまりにも多かったため、十七字の桎梏から解放された自由な短詩型は、まさに手頃な表現の具であったろう。


しかし、本当に書くべき多くの思いを胸中に育ててしまった人たちにとっては、やがて隣接ジャンルの短歌より長い長律の作品が出現するようになっても、それは遂に尽きることがなく、絶えず手ぬるく、まだるこしい感じのいらだちから逃がれるときはなかったのである。その満たされぬ思いを救うものは、ただ一つ、一刻も早く俳句と訣別し、身をもって実践的な活動に加わることであった。また、自虐的なまでにストイックな信仰心を高めてしまった人たちは、おのずから寡黙を愛するようになり、十七字の俳句定型よりも更に言葉を惜しむ短律へと傾斜してゆくのであった。


そして、わずか十五年の大正時代が終ったとき、長律の作品は跡かたもなく滅び去り、尾崎放哉を見事な典型とする短律の作品だけが残ったが、たとえ自由律俳句といえども俳句形式の思想は、本来もっとも餞舌から遠いものであろうことを思うならは、それも一つの必然であった。その放哉が大正の元号とともに消えていったとき、率直に言って昭和の自由律俳句には、破滅的な放浪をつづける種田山頭火と、あとは社会主義の実現を目指して燃える栗林一石路と橋本夢道などが残っているだけであった。


ちなみに言えは、この三人の自由律俳人は、のちに新興俳句運動が、昭和十五年から十六年にかけて国家権力によって弾圧されたとき、奇しくも期を同じくして山頭火は、遂に寿命が尽きて世を去り、一石路と夢道は、やはり弾圧を受けて沈黙を強いられることになるのである。


それは、まさしく碧梧桐の前衛的な精神を継承した者にふさわしい運命であり、おのずから滅びるときに滅びてゆくことを自覚していたかのごとき軌跡は、この自由律俳句運動も、また立派な正統であったことを充分に思わせるのである。それにしても、俳諧の連句と訣別し、発句にあらざる俳句を目指す試行が、その方向の如何によっては、かくのごとき困難な状況を招来することになるかもしれぬなどとは、おそらく子規も予想していなかったであろう。


一方、いまの世にいう有季定型の俳句は、碧梧桐の鼓吹する新傾向の俳句が、その新しい境地を展くのに激しさを加えてゆく頃、このままでは正統の俳句形式は完全に崩壊してしまうのではないかと深く案じた高浜虚子が、散文の世界で予期したほどの成功を収め得なかったこともあって、にわかに俳壇復帰を企てた大正初年を、その紀元と言うべきであろう。


はじめ虚子は、飯田蛇笏や原石鼎などの詩情ゆたかな俊才たちの活躍に期待しつつ、有季定型の遵守を強く主張しながらも、また同時に主観の尊重を説いて、新傾向や自由律俳句とは別種の新しみの発見を意図したが、なぜか途中から徐々に説くところを転じて、いつの問にか客観写生を提唱するようになってしまった。おそらく、このときの虚子は、真に主観を尊重した独創を重んずる俳句の実践は、いわは少数の傑出した俳人たちにのみ可能であり、その他の凡庸な俳人たちは、たちまち月並俳句の低俗な観念世界に逆戻りしてしまうばかりであることを、逸早く見抜いていたのであろう。だが、このような考え方と、それに基づく行動は、少なくとも前衛的な精神から遥かに遠いものであった。


したがって、そこでは季題趣味の洗練などが主に説かれたが、その結果、大正中期の有季定型俳壇は、同時代の自由律俳句の真摯な文学精神の昂揚とは好対照をなすように、およそ人間の精神生活や現実の社会状況とは無縁のかたちの、実に弛緩した退屈な作品が氾濫し、まったく停滞してしまうのである。このような虚子の姿勢は、連句の発句から脱却して、新しい俳句形式の新天地を目指した子規の理想の高邁さとは、かなり違うものであった。おそらく、このときの虚子は、子規以前の宗匠俳句(発句)の低次元な観念世界や、あまりにも末梢的な言葉の技巧などの弊害から、どうすれは最小限の努力で遠ざかることが出来るかを、多くの凡庸な俳人たちに繰り返し指導したにすぎないであろう。それは、決して新たな何ものかを目指すものではなかった。


この虚子の姿勢は、昭和に入ると更に歴然たるものとなり、やがて俳句の根本精神として花鳥諷詠を強く説くようになるが、それでも第一次世界大戦後の社会状況を反映して、いわゆるモダニズム的な風潮の影響を受けた水原秋桜子や山口警子の新鮮で明かるい作風が、遂に華やかに登場してくる。それは、古びて錆びついていた俳句的ビジョンの更新であり、虚子の強い制縛的な指導によって閉鎖的に固定化されていた季題趣味からの感性の解放の第一歩であった。それは言葉を変えて言えは、虚子の指導する俳句を過去の発句と同じ趣味のものと考え、そこからの脱却を懸命に試みることであった。そして、この秋桜子や誓子の新しい作風に刺戟を受けた多くの青年たちが、続々と俳句の世界に身を投じはじめたのである。


それは、ある意味で新しい時代の到来であった。事実、昭和に入って間もなく、中国大陸では日中両国の紛争が次第に戦火のかたちで燃えはじめ、それに呼応するように国内の社会状況も、軍国主義的な風潮を少しずつ濃くしてゆくのであった。またしても、さまざまに書くべきことが多くなるような、いわは息苦しき時代が到来していたのである。そんなとき、秋桜子や誓子が開拓した俳句の新しい領域は、多くの青年俳人にとって貴重な曙光の一つであった。しかし、そのときの虚子は、なぜか秋桜子の作風を否定するような方向へ、その指南車を向けようとしていたのである。ここで起こるべくして起こって釆たのが、激しいアソチ虚子の運動であった。すなわち新興俳句運動である。そして、また、これは、未知なる俳句に出会うための新しい放浪の旅のはじまりであった。


もし、この新興俳句運動の発端を、秋桜子が虚子からの独立を宣言した昭和六年十月とすれは、その終焉は、昭和十五年から十六年にかけて行なわれた思想警察による数次の弾圧であろう。そして、これは、昭和六年九月に勃発した満州事変や、それが遂に日中両国の全面戦争へ拡大され、昭和十六年十二月にはあの大戦に突入するというような、まさに尋常ならざる当時の社会状況と、まったく軌を一にしていたのである。


したがって、この新興俳句運動には、その時代の状況が色濃く反映しており、時の権力によって次第に逼塞させられてゆく当時の市民たちの鬱積した心情が、俳壇の大権威である虚子に対し懸命に抵抗するという、たぶんに代替的な転位行動を通して、ようやく慰撫されているような、何ともいじらしい願望を見ることが出来る。むしろ、その心情的な激しい渇きと、それに対するささやかな言いなだめの願望のみが、この運動の実体であった。その意味で、これは大筋として小市民的な一種の集団運動であったが、この段階にとどまるかぎりでは、はたして本当に前衛的か否かについて即断することは難かしいようである。


もちろん、アンチ虚子に向けた代替的転位行動を、そのまま一時的な心意気にとどめず、おのずから俳句形式の中で自己の文体を発見する方向へ練りに練っていったのは、高屋窓秋・篠原鳳作・渡辺自泉・西東三鬼・富沢赤黄男らの少数の俳人たちであり、このほか、たとえ新しい独自な様式の練成にまでは至らなかったとしても、より率直に当時の理不尽な社会状況に対する批判的な心情を吐露したため、遂に特高警察の弾圧を蒙った俳人たちも、決して少なくはない。そして、新興俳句運動は、この弾圧によって、一挙に滅ぼされたのである。同じ国家権力の手によって弾圧された自由律俳人の夢道の作品に〈大戦起るこの日のために獄をたまはる〉とあるように、これは大戦へ突入してゆくための準備の一環であった。


考えてみると、このような異常きわまる事態は、俳諧の時代はもちろん、俳句形式の歴史の中でも、ついぞ例のなかったことである。したがって、その悲劇的な運命の上からも、まさしく前衛的な精神の発露を、これらの俳人たちに見ておくべきであろう。そして、更に、その潔い最後も、まさに俳句形式の精神を正統に継承してきたものの証しとして考えておきたい。


このあとの戦中戦後を繁栄しながら巧みに生きのびてきたものは、いわゆる人間探求派の俳句である。そして、はじめ横暴きわまる国家権力からの緊急避難として考えられた人間探求派の後退した姿勢は、敗戦後、露骨な思想弾圧が終ったあとも、ほとんど変わらなかった。また、あの戦時中、新興俳句運動に加えられた不当な非難の論理も、依然として改められた形跡はない。戦後の俳壇では、いわゆる社会性俳句とか、あるいは前衛俳句などという旗印を掲げた一連の動きが、その人間探求派の後継者たちを中心に惹起されたことはあったが、いずれも一時の気まぐれな思いつきのようなものに過ぎず、嘗つての新傾向俳句・自由律俳句・新興俳句に見られた壮烈きわまる軌跡は、ほとんど残らなかった。そこに見られたものは、いわは仕組まれた俳壇的興行にすぎないのである。


そして、現在の俳壇は、一斉に発句への回帰を行なっているようである。もはや誰も、まだ見ぬ俳句などにあこがれる者はいないのである。いまや、誰も彼もが、はじめから発句を目指していたかのように、しきりに発句について語りつづけている。彼等は、発句こそが俳句であったと主張し、発句ではない俳句を目指した人たちを愚かな慮外者として非難し、遂には乱心者として俳壇から隔離しようとするに至った。したがって、少なくとも現在の俳壇で多数を占める人たちの見解に従えは、立句としての発句を目指す者こそ俳句の正統に属し、子規の志を次々に増幅しながら積極的に俳句との出会いの旅に出た者は、すなわち俳人の名にも価しないような甚だしき異端となるのである。たしかに子規の予言によれは、新しい俳句形式の運命は明治を過ぎること幾許もなく尽きるであろうとされていたが、いまや俳句は、その長からぬ寿命が尽きかかっているのかもしれない。


だが、そうだとすれは、この作品の存在に先んじて命名されたに等しい俳句形式は、いったい俳句そのものに本当にめぐりあったことがあるのであろうか。もしかすると、遂に一句の俳句作品に出会うこともなく、その終りを迎えてしまったのではないかと、なぜか、ふと思われてくるのである。その場合、俳句形式の運命は、まず発句もどきに始まり、多くの俳句もどきを残しながら終ったことになるであろう。それは如何にも空しい軌跡のように思われるが、もともと俳句形式は、そういう絶望的な不毛さを運命づけられていたと考えるならは、むしろ当然の帰結であったろう。もちろん、子規自身は、明治人特有の積極的な楽天性をたぶんに持っていたと考えられるが、しかし、この俳句形式は、それを真剣に思いつめてゆけはゆくほど、なかなかの難物であることが明らかとなってきた。したがって、少なくとも新興俳句運動の渦中にいた数人の俳人たちは、その絶望的な不毛さに気づいた上で、敢えて俳句形式のために殉じようとしたふしが見られる。


それにしても、連句にかかわる一切を断念するということは、新しい俳句形式に賭ける当然の決意であろうが、また一度、常に自在でありたい一個の詩人の立場からすれは、みずから手を縛ってしまうに等しい行為でもあった。だから、断念は断念として、やはり昔日の俳人たちに許されていたように、七七の短句や、発句ではない自由な五七五などを書いてみたいという潜在的な意欲が、そう簡単に眠ってしまうことはなかった。たとえば、自由律の俳人たちが盛んに試みた短律や、新興俳句運動の渦中での連作俳句や無季俳句の実践などは、おそらく、そういう潜在的な意欲が、おのずから噴出して来たものと思うことも出来よう。そして、また、それらの試行すらが、彼等にとっては新しく俳句に出会うための健気さの現われであったと言うべきであろう。


ところで、俳句の弔鐘を撞くと言ったのは、たしか石田波郷であったと思うが、もしも厳密な観点に立つならは、遂に一句も誕生しなかったに等しい幻の俳句のために、誰であろうと弔鐘を撞くことなど出来ないのである。おそらく、これが、俳句形式における前衛にして正統の大略であろう。