高柳重信

その他の随筆

随筆はたくさんあります。

ここにアップするのは、特に選んだのではなく、たまたまテキストが手に入ったものです。

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句集『蕗子』の頃 高柳重信

「鷹」昭和四八年八月:『高柳重信散文集成第十三冊』所収

その頃「大東亜戦争」と呼ばれていた長い戦争が終ったとき、僕は満年齢で二十三歳だった。病弱のため、召集令状を受けとることはなかったが、徴用令状によって軍需工場に狩り出され、敗戦の日の昭和二十年八月十五日には、疎開先の前橋市の理研重工業という高射砲を鍛造する工場にいた。ただし、前橋の市内は、それより十日ばかり前の空襲で徹底的に爆撃され、すでに一面の焼野原となっていた。

敗戦直後の俳句作品は、句集『前略十年』の後半に収録されているが、その幾つかを書き抜いてみよう。


蝶舞へる遠き茜は涙ぐましも

ふるさとの墓地に蝉鳴く此の日はや

日本の夜霧の中の懐手

遅き月のぽりてくるや山河あり

涙ぐみ立てばふるさと夕霙


ちなみに、はじめの二句は、八月十五日の作である。


戦争の影響が次第に深刻になってくるにつれて、しばらく中断されていた俳句への情熱が、この敗戦を迎えて、異様なほどの激しさで、ふたたぴ燃えはじめたのである。それまで、何となく俳句形式とかかわりを持ってきたにすぎないものが、やがて、はっきりと自覚して俳句形式を自分の手で選びとるという方向へ第一歩を踏み出そうとする、その最初の心の動きが、たぶん、ここに兆していたのであろう。そのため、いくつかの俳壇年表には、この年の秋の終りに、高柳恵幻子という名の僕が、群馬県において俳誌「群」を復刊したことを載せている。そして、これは、敗戦の年に早くも復刊された数少ない俳誌の中の一つでもある。


大正十二年一月生まれの僕にとって、戦争というものは、格別に忘れ難い何かである。小学校に入学したのは昭和四年だが、昭和六年になると、もう満洲事変が始まっている。それから十数年、ずっと戦争が続き、その間に、僕は少年期を通り過ぎ、ほとんど同時に青年の日々と病人の日々を迎えていた。したがって、歳月の経過に対する一応の目安のようなものとして、僕の場合、いつも戦争があった。それは、戦争を挟んで、ほぽ等量の歳月の戦前と戦後があるという、まさに平凡なものであったが、しばらく前までは、僕の幼少年期と青年期、そして壮年期と、かなり鮮明で具体的なイメージによって、正確に区切られていた。


しかし、僕の予定より生き過ぎて、三十年近い歳月が戦後を流れた現在となると、しごく曖昧な遠い過去の中へ何もかもが埋没してしまった感じで、たとえば、あの敗戦直後の不思議な数年間を思い浮かべることにも、いまは相当な努力が必要となっている。しかも、その遠い記憶の奥ふかく、僕の俳句の揺籃も、しずかに揺れているのである。


おそらく、いつの時代でもそれが遠く振り返られるときには、いくぶんかは不思議な要素が纏いついてくるものであろうが、思えば思うほど、あの敗戦直後の数年間は、いまや簡単には説明のしようのないくらい、文字どおり不思議な日々の連続だった。


敗戦という異常な体験がもたらした虚脱感の蔓延は当然のことながら、なぜか、その一方で、たとえ漠然としてではあっても、何ものかへの期待感と情熱が、しきりに掻き立てられていた。もちろん、過去と名付けられるものはすべて灰燼に帰し、今日という日は、精神的にも肉体的にも饑餓(きが)に満ちていた。だからそんなときに思うことの出来る慰めは、まさに明日ばかりであったろう。特に、暗黒の戦場から解放されてはきたが、とりあえず灰色の闇市を歩くほかはない青年たちにとって、明日こそは、頼むに足る唯一の時間であった。


俳壇においても、ほんの束の間ながら、未熟の青年たちの活気に満ちた一時期があった。そのとき、昨日までの既成の権威は、ひたすら沈黙していた。既成の大結社と、そこに所属する主力作家たちは、新興俳句弾圧をはじめとする戦争中の俳壇保守化に便乗的に加担したことを否定できず、そのうしろめたさから、まったく自信を喪失していた。当然、これらの俳人たちには、俳壇の明日について語る資格のあろうはずはなかった。すでに、他のジャンルでは、戦争中の便乗行為が個人名をあげて論じられ、きびしい糾弾がはじまっていた。そして、明日だけが価値あるものと思われるとき、その明日を、もっとも豊かに持っているのは、言うまでもなく青年たちであった。また、すべての過去が一様にいかがわしいと思われるとき、その過去といちばん無縁であるものは、やはり青年たちであった。青年たちの共通な弱点であるはずの未熟さということも、むしろ、いかがわしい過去についての純潔さの証しであった。したがって、この時期は、全国的に簇生(そうせい)した同人雑誌の全盛期であった。


それは、権力的で頑迷固陋な俳壇風景より、はるかに美しい光景を現出することがあったとしても、また、激しい混乱をまぬがれるわけにはいかない状況であった。こうして、昨日も今日も評価の対象とはならず、ただ明日の可能性に対する言挙げだけが競い合っているような場合、それは、かならず楽天的なめでたさのみによって祝福されることになる。事実、みるみるうちに、明日の俳句形式は、ほとんど万能の表現形式となっていった。そのとき、どのような可能性が俳句形式に対して予言されたのか、その一つ一つを具体的に書きとめる余裕はないが、ともかく、それらの青年たちの手で勇敢に書かれたことの数々が、ほんの少しでも、しんじつ実現されていたならば、今日の俳句は、まことに恐るべきものとなっていたはずである。しかし、このときの状況の後遺症のように、しばらく実践されることとなった社会性俳句や前衛俳句の実態を、いま改めて点検すれば、その正体が、どれほど楽天的な思考から発していたか、たちまち理解できるにちがいない。


ただし、その青年たちが、敗戦直後の日常生活の中で、昨日でも今日でもなく、もっぼら明日の生き甲斐の一つとして俳句形式の可能性についても思いを馳せようとしたことは、まさに当然であった。その頃、ロスト・ゼネレーションという言葉が頻(しき)りに投げかわされていたように、ほとんど生きながら死んでいたも同然の戦場の生活から帰還した青年たちにとって、不測の事故のないかぎり、その後の数十年を生きながらえるらしいことだけが、かなり確かな実感であり、そして、それが、平和というものの、いちばん確かな手応えでもあった。たぶん、彼等は、何ものかを急速に回復しっつあったのだろう。


にもかかわらず、因果なことに、僕ひとりだけは、非常に異なった状況の中にいた。多くの同年輩の青年たちが、敗戦によって戦場の死の幻影から解放されたとき、僕ひとりは、依然として死の病床にあった。もちろん、戦場にも、ときに意外な閑暇があったように、僕の闘病生活にも、ときに小康状態があり、数少ない若い男子として、焼夷弾の無差別爆撃におびえる隣人の婦女子たちの僅かな頼み甲斐となったり、軍需工場に勤務したこともある。だが、ささやかな生き甲斐というより、前線のみならず銃後もまた敵の攻撃にさらされているということによって、ほんの形ばかり与えられていた一種の死に甲斐のようなものを考えるべきであったろう。


そして、その無理に仕立てたような死に甲斐すらも、敗戦によって失われてしまったのである。いまは、誰もが、失なわれた昨日と、あまり確かには存在しない今日の代りに、しきりと明日を思っているとき、僕には、思うべき明日の存在も、きわめてぼやけたものに過ぎなかった。したがって、そのときの僕は、他の青年たちのように俳句形式の明日について言挙げすることも出来ず、また、無きに等しい昨日の僕の俳句に触れることもならず、曲りなりにも生きている証拠として現に病んでいる今日という日を、かけがえのないものとして大切に思うほかはなかった。


だから、その頃の僕の俳句は、たぶん明日は不在となるだろう僕から、いっそう明日は生々と存在しているにちがいない人たちへの、それとない惜別の合図であった。今日、僕は、さよならと書き、また、次の日の今日もやはり、さよならと書いた。そして、いつまで経っても、僕の念頭には、何ごとかを約束するに足るような、確かな明日という観念が浮かんでくることはなかった。


僕の同世代の俳人たちの多くは、その敗戦直後の日々から現在に至るまで、依然として、いつも何かを俳句形式で書きあげることを主張し、かつ、その実現を約束しているが、遂に、僕は、一度もそういう主張や約束を行なったことはない。もちろん、現在の僕は、俳句形式というものが、それによって何かを書くために存在するものではないことを、かなり強く自覚しており、その自覚を持たぬ俳人たちの楽天性を批判的に眺めているが、いま思えば、はじめから、そうした自覚に目覚めていたわけではない。おそらく、その何かを俳句で実現することを約束できない状況の中で、やむなく、僕は、俳句形式が真に俳句作品として存在することの困難さを痛感しつつ、辛うじて保たれている僕の今日という一日を、じつと見つめていたのではないかと思う。それは、ただ俳句形式の存在の証しのためにのみ、具体的な一句としての俳句作品を思い念じることであり、それのみが、また、簡単には証明のしにくい僕自身の存在の証しをたてることにつながるという考え方を、いつの間にか育てつつあった。


ところで、昭和二十五年に刊行された僕の処女句集『蕗子』や、それに先立って断片的に発表された多行表記の作品によって、僕は戦後俳壇における最初の異端と見なされ、いち早く前衛俳人という特別な、どちらかといえば排斥的な扱いを受けたことから、その後十年ほど経て抬頭(たいとう)した「前衛俳句」派の人たちと、とかく一括されやすいけれど、僕自身は、むしろ、いちばん遠いところに立ちつづけていたと思っている。戦後まもなく「偽前衛派」という文章を僕が書いたことも、あるいは前衛俳句派の人たちと混同される一因になったかもtれないが、その文章の中で繰り返し述べているのは、いわゆる「前衛俳句」の主張とは裏腹な、たとえば、俳句形式の新しい可能性の否定ということであった。


その「偽前衛派」という文章によれば、僕は、日常のあらゆるものに遅刻してきた末に、遂に俳句形式に対しても遅刻したのであった。僕が俳句形式に接触しようと意図したときには、すでに俳句形式は、形式自体としての確かな存在を終了していた。もし、そこに何らかの存在の痕跡があるとすれぽ、なぜか戸迷って死に遅れでもしたかのようなかたちで、僅かな俳句作品が、束の間の姿を個別的に見せるにとどまる。したがって、僕がそれに出会うためには、稀有な偶然の関与が必要であり、それは、もっぱら「嘘から出た真」のような当てずっぽうに頼るほかはない。まことしやかな可能性の探求などという姿勢は、まったく無益である。だから、僕の寿命に許されるほんの短かい期間、僕は、その当てずっぽうの賭け手らしく、いまや典型的な偽前衛の一人として、過去の偽前衛たちの最後尾についてみようというのが、そのときの僕の見解であったと思う。


思えば、その「偽前衛派」という文章が書かれてから、早くも二十六年の歳月が流れ、現在の僕は、たまたま死に遅れた俳句形式の迷い子に出会うというよりも、僕自身に対して、まさに死に遅れた感じで、迷いに迷っていると言うべきであろう。

戸田町の正月 高柳重信

「笛」昭和三四年一月:『高柳重信散文集成第五冊』所収


現在、僕が住んでいる戸田町は、荒川の河畔の寒々とした小区劃(くかく)である。昔は仲仙道筋の戸田の渡しとして、いくらかの旅宿と農家が点在した寒村にすぎなかったので、格別に正月の風習というようなものも残ってはいないようだ。昭和二十年に、東京の家を焼かれてから此処に住みついて、もうかれこれ十年以上の歳月が過ぎたわけであるが、戸田の正月についての僕の印象は、ただ寒々とした睡たさだけである。


秩父颪と呼ぶ北風が、日がな一日吹きつのり、空気が澄みきってくる夕暮れどき、夕焼に染(にじ)んだ西の地平線にくっきりとした富士が雪を被て、うす桃色に遠望できるのが、わずかに正月らしい風景なのであろうか。しかし、その遠望の富士につづく枯色の荒川の堤防や、更にそのこちら側の畑には、元旦早々から麦踏みの人影が見え、思えば、富士の遠望に心を奪われているのは酔眼の僕ただひとりのようである。つかの間に日が落ちると、たちまちあたりは夜の静けさにひそまりかえり、歌留多を読む声もない。秩父颪に吹きたわんだ電線が暗闇の中で寒々として唸り声をあげるだけである。そしてこの秩父颪も、戸田橋のあたりで荒川を越え、東京に入った瞬間、もう何の風情ももたぬ唯の北風になってしまうのである。


僕の父母の郷里は群馬県伊勢崎市の在である。いまは町村合併でその名前も変ったが、昔は、佐波郡剛志村といい、父方の字は下武士、母方の字は小此木と呼んだ。僕は、今でも、このどことなく鄙びて、しかも武張った名前が好きである。一面の桑畑で、その畑の砂塵を思いきり吹きあげながら、あの赤城颪が吹きつのる、これまた寒々とした正月の風景である。僕の幼い頃、何度か、この寒々としたすさまじい正月を体験したが、僕の幼い好奇心は、その土地の正月の風習に興味をもつよりも、もっぱら木枯の夜を、三度笠をかたむけ、合羽の裾をひるがえして、大前田英五郎や国定忠治という英雄たちが馳けぬけてゆくまぽろしに傾斜していた。そういえば、戸田の渡しも、里見八犬伝の発端のあたり、犬塚信乃などの英雄が不思議な少年の夢を、僕にかわってくりひろげてくれた舞台でもあった。


僕の家の正月の風習について強いて書くならば、正月中は、いっさい餅を食べないということであった。したがって雑煮も食べない。そのかわり、ずっと赤飯を炊くのである。その理由は忘れたが、正月中に酢を食べると不吉なことがおこるというのが言い伝えであった。これは、僕の少年時代の正月の思い出を、いささか肩身のせまい淋しいものにしたようである。友人たちと違うということ、彼等の知っていることを僕が知らないでいるということ、彼等のしていることを僕はすることが出来ないという一種の差別感が、僕の心を心細くし不安にもした。


しかし、頑固な祖父が死んでから、その風習も、いつとはなしに滅んでしまった。何時からそうなったのか、確かな記憶はないが、いまでは赤飯も炊くが、同時に餅も食べる。もちろん、今の僕は、その両方ともにあまり関心を示さず、もっぱら酒を飲む。ということになった。果して不吉なことがおこったかどうか、それについても確かな心当りはない。僕のような男が生れ、妻子をほうり出して家業もかえり見ず、俳句にばかり熱中している、ということは明らかなわが家の厄災であるから、不吉なことは、既におこっているのかもしれないが--。