高柳重信関係 蕗子エッセー

月光旅館・三つのラッキー

月光旅館

群馬県の法光寺にある重信句碑に寄せて書いた文章(2004年9月)

これが掲載される、句碑のしおり「月光」は、2005年7月発行。


あけても

月光旅館 ドアがある

あけても

月光の中、旅人を導くように次々と現れるドア

このように、果てがないという予感に導かれて

扉を開き続けることがある

重信は、数知れぬ未完の努力も含めて、

遥かなものを求めてやまぬ人々の営みを敬愛した

(※法光寺重信句碑の碑文。上の写真にある面の裏面に刻まれている。)

ここ法光寺は、先代のご住職が俳句仲間であったことから、しばしば句会が開かれたらしい。冒頭の句は、そのような折に父が書き残した短冊の句である。(続く数行は、私が書いた碑文)

このたび、法光寺様のご好意により、それがすてきな句碑になった。訪れる人たちのすぐ目に入る場所であることがうれしい。ひらがなを覚え始めた子供たちが「あけてもあけても」と読み上げることもあるかもしれない。

この句は、句集「蕗子」のなかでは、次のように表記されている。

「月光」旅館

開けても開けてもドアがある

句碑になった短冊の表記は、おそらく、短冊の細長い形に合わせて配置を考えたものだろう。筆をとるその情景が思い浮かぶようだ。

もっとも、それは私が生まれるずっとずっと前のことで、父はまだ若者であった。父の古い写真を見ると、いま二〇代前半である私の息子(重信の孫)が少し似ていて、こんな感じの青年であったろうかと想像するのである。

おそらくその句会では熱心に俳句の論議が行われ、若かった父は、次々に俳句の探究の扉が開いてゆくような、わくわくする時間を過ごしたのだろう。子どもが夢の世界で探検するようなこの句を見ると、単にお気に入りの句を短冊に書いただけではなかろうと思われてくる。その夜の句会の雰囲気にマッチしていたからこそ、この句を書いたと思うのだ。

若い父は、短冊を書くという行為にたぶんあまり慣れていなくて、ちょっとこそばゆさを感じつつ、若者がそうしたことに取り組むときの特別なまじめさで、この句がお寺という場所で句会をした記念となるにふさわしいかということも、心の中で検証したのではないだろうか。

では、以上のことを少し意識しながら、句の言葉にあたってみよう。

【句の解釈】

「月光旅館」と「法光寺」は「光」の一字で結ばれてもいるし、「月光」はお寺にふさわしいものだ。「月」は昔から釈教の歌によく使われ、仏教と親和性の高い語だからだ。

冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

和泉式部

このように、月が夜道を照らすものであることになぞらえ、「月光」が人の精神面を清く導びくというイメージがある。あるいは、法然の作といわれるこんな歌もある。

月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ

なるほど、法然が言うように、月光はあまねく地上に降るけれど、月を見上げて眺める人は、その心にまで澄んだ月光が届くのだ。

次に、「旅館」という言葉を考えてみると、そういえば、

岩鼻やここにもひとり月の客 去来

という句がある。月を見ることを「月の客」と言うことがあるのだ。俳句に高い志を抱いて集った客人たちにとってその夜の法光寺は、たぶん実際に月が美しかったのだろうし、精神的にも月の客となるがごとき「月光旅館」であったのだろう。

続く「開けても開けてもドアがある」は、子供が不思議な旅館を探検しているような情景だ。目的物がわかっている探検とは違う。こちらへどうぞと案内するかのように出現するドアに、どこまでも導かれてゆく感じ……。

まさにそんなふうに文学的探究心をそそられる楽しい句会だったはずだ。その記念として、俳句仲間でもあったご住職への感謝の気持ちもこめて、お寺という場所にもマッチするこの句を、父は選んだと思われる。

【探究心を敬愛する】

探究心といえば、後年、父はこういう句を作った。

魏は

はるかにて

持衰を殺す

旅いくつ

古代の人々は、当時の文明国である「魏」の国をめざした。それは半分ぐらいの船が沈んでしまう危険な海の旅だった。学究のためであれ、物欲のためであれ、まだ見ぬもの、新しいものを求めて、はるかな国へと命がけの旅をし、その行き帰りに、志たかく勇敢な命が波間に消えたのである。

「持衰」は、海が荒れたときお祈りをする祈祷師で、祈っても海が静まらないときは殺されてしまったという。嵐で命を落とした人々もあわれだが、皆のための真剣な祈りが神に届かず、そのために仲間の手で殺された「持衰」たちはいっそうあわれだ。

何事であれ、成果には、その何倍もの失敗や挫折が積み重なっている。志が理解されずに仲間に抹殺されてしまった祈祷師のような例さえある。人々が志たかく勇敢に未知のものを求める。そんなすべての歴史的努力を敬愛して、父は、俳句の世界において、そうした探求者の一人であろうとしたのだと思う。

探求の旅に多くの苦難があることは、若い父にもわかっていた。それでもあえて、わくわくする探求のはじまりを描いた。それが「月光旅館」の句だと思う。

付録 「月光」編集後記

★法光寺様から、句碑のお話を聞いたのは昨年二月だった。早速うかがってみたら、以前、親戚の葬儀で訪れたことのあるお寺だった。祖母の実家である福寿院も近い。お父様が「薔薇」同人であったというご住職の松本さんにお会いし、すぐにその気さくな人柄に惹かれた。鎌倉時代がご専門の文学博士でもある。あっというまに意気投合。句碑とともにこの冊子の話が進んだ。

前橋在住の俳人で重信にゆかりがあり、土屋文明記念文学館の企画展に学芸員として携わった林桂さん、父がしばらく逗留させてもらったお宅の中島幸雄さん、従兄弟である福寿院住職の大澤英明さんと齋藤茂さんにご寄稿をお願いし、すてきな句碑とともに冊子も仕上がった。法光寺様はじめ、関係者のみなさまがたに心から感謝を申し上げる。

(高柳蕗子)

★高柳重信句碑建立は永いあいだの私の夢であった。句に因んで黄色の石を探したところ、六方石が木の肌のように黄色い岩肌だと石材店に聞き、これに従った。当寺に群馬県最初の高柳句碑が建てられることを喜ぶとともに、高柳家の皆様のご好意を忘れることはできない。高柳重信という才能の出現に献身し、今も賢兄を敬愛する弟年雄氏、美知子女史には暖かいものを感じた。

重信二十三回忌を卜して当寺の句碑除幕式を行う。これはその記念の小冊子である。思い出を御執筆くださった諸氏と、とりわけその編集に配慮され、記念誌として御恵贈いただいた重信長女蕗子女史に、心より感謝したい。句碑の周りには、菩提寺福寿院に因んで福寿草、『蕗子』に因んで蕗を植えた。一寒寺である法光寺の名所として、この句碑が世に知られてゆくことを願ってやまない。

聞説、福寿院にも、「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」の重信句碑が建つとのことで、これも亦、欣快にたえない。

(松本寧至)


左は法光寺の句碑(境下武士)、右は福寿院の句碑(境小此木)。

建立のときは真言宗の不思議な儀式を行いました。

法光寺は先代のご住職が重信の若いころの俳句仲間で、句会を開かれていたそうです。

福寿院は菩提寺で重信の母の実家です。

現地は場所がわかりにくく、周辺にお店などはありません。

また、この地図では近そうに見えますが、歩くには遠すぎる距離なので、気軽に見て回ることはできないと思います。


三つのラッキー

高柳蕗子

「月光」2号(法光寺句碑のしおり兼法光寺文芸誌)掲載 2006年7月発行。

群馬県の法光寺にある重信句碑に寄せて書いた文章。

幸運な出会い

このたびの句碑建立には三つのラッキーがあった。一つは、法光寺ご住職との出会いである。

世界じゅうの人は友達の輪でつながっている。アメリカの社会学者の実験で、いわゆる「友達の輪」を利用して全く縁のない人と連絡を取ろうとした場合に、何人仲介者が必要か、というのがあった。数百例の実験で、平均して六人ぐらいだったそうだ。えっ、たったの六人?

確かに世間は狭い。父の句の縁で知り合った法光寺のご住職が、中世文学の権威である松本寧至先生その人であったとは・・・。そして、そんな大先生とも知らずオトモダチになってしまえたとは・・・。古典和歌の逸話をコレクションした本で世の中にデビューした私にとって、それは、特にすばらしい出来事だったのである。

二つの句碑の句はこうして選ばれた

二つ目は、句碑に刻まれた二つの句にも、驚くべき偶然が働いたことだ。

法光寺の句碑に続いて父の菩提寺である福寿院にも句碑ができた。この二つの句碑の句は、意図的に選んだものではない。

法光寺の句碑は、この寺での句会の記念に書き残した短冊を、そのまま碑に刻んだものだ。先代のご住職と父とは俳句仲間であった。だから、法光寺に父の句碑を建てるなら、この句「月光旅館あけてもあけてもドアがある」以上にふさわしいものはない。前号に記したけれども、この句は、父が法光寺における句会の記念にふさわしいと判断して、「挨拶」の気持ちを込めて書き残したと思われるからだ。

一方、福寿院の句碑の句はどのように決めたかというと、菩提寺だから代表句が良いということになった。のこっている色紙や短冊から(色紙や短冊がなければ、直筆を刻んだ句碑は作れない)、代表句のなかでも教科書に取り上げられたことのある「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」を選んだのである。(この句の色紙はいくつかあり、本庄市在住の俳人、岩方仁次さん所蔵のものをお借りした。)

というわけで、二つの句碑の二つの句は、まったく別々の理由によって決まった。一見、似たところのない句である。だから、私がこの二つの句に共通点があり、奇しくも対になっていることに気づいたのは、除幕式の日になってからだったのだ。

無邪気な探究心を描く法光寺の句

二つの句の共通点は、どちらも、行く手がわからないということだ。

月光旅館の句(前号に詳細な読解)は、子供が見知らぬ屋敷を探検をするように、月光ふりそそぐ旅館を探究心に導かれて、不思議なドアを開き続けるような感じの句である。父がこの句を短冊に書いたのは、「月光」と「法光寺」の「光」という字の重なりに加えて、法光寺のその夜の句会において、新しい俳句の可能性を開くようなわくわくする論議で盛り上がった記念という気持ちがあっただろう。つまり、無邪気な「探究心」を描いていると言えるのだ。

悲壮な探究心を描く福寿院の句

では「船長の句」はどうか。(この句についての私の読解は、福寿院の句碑のしおりにも入っている。※当HP父の俳句

船長といえば船と運命を共にするといわれるのに、この船長は、自ら船を焼いて、泳ぎ始める。陸という安全な場所から大洋に乗り出した船乗りが、それでも飽き足らず、船という拠り所さえ(まるで臆して戻ることのないように)焼き捨て、自力で海を泳ぎ、海水に身ひとつで立ち向かう。船では行けない場所、そのようにしなければ得られないものを目指すがゆえの、これは最後の手段ではないだろうか。

要するに、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」みたいに、捨て身で現状を打開しようとする覚悟のようにも見える。頼れるものをすっかり捨てて裸で立ち向かうような感じ。既存の価値観などに頼らず、言葉の世界を生身で感受しなおしたいという気持ちもあったかもしれない。いずれにせよ、「探究心」の厳しい面、悲壮な覚悟を描いていると言えるだろう。

明暗の対になっている二つの句

この二つの句は、どちらも『蕗子』(第一句集)に収録されている若い頃の作だ。その頃の父の最大関心事は「俳句」だった。雑誌や句集を印刷するために印刷機を買って印刷屋をはじめたぐらいである。だから、この二つの句ににじむ「探究心」は、父にとっては、俳句への探究心であっただろう。

一方は、わくわくしながら次々ドアを開き続ける、子供のように無邪気な探究心。もう一方は、あらゆる拠り所を捨て、後戻りできぬようにそれを焼き捨てさえして先へ進む、悲壮な探究心。どちらの句でも、行く手に何があるのかわからない。行き着くところがあるのかどうかもわからない。

句の鑑賞はもちろん自由であり、宝石が見る角度によってさまざまな光を放つように、その光のどれが正解ということはない。ただ、こういう角度から読めば二つの句は対になって、「探究心」の明るさと厳しさを示していると私には思える。

共通のテーマで対になる要素を含んだこの二つの句が、偶然にもすぐ近くのお寺に、時を同じくして句碑になったという縁の不思議さを、句碑を訪ねてくださる方々に、ぜひお伝えしたいと思う。

場所の雰囲気も対照的でピッタリ

ラッキーはこれだけではない。三つ目のラッキーは、句碑の周囲の雰囲気だ。

法光寺句碑は、保育園のすぐそばで、子供たちが読み上げて通りそうな明るい場所に立ち、一方、福寿院の句碑は、庭の奥のひっそりとした木陰で、ひとりで考えにふけるにはもってこいの場所にある。

対になっている二つの句の明暗に合わせて句碑を配置したかのようだが、これも、そのように意図したわけでなかった。単なる偶然なのだ。除幕式の日に二つを見比べて、逆じゃなくて良かったと思った。こんなふうにいくつもの偶然が味方して、二つの句碑が二つのお寺の地霊となった(「地霊になる」という言葉は前号の斎藤茂さんの文章より拝借)のは、本当にめでたいことだ。

句碑とは何か

父はかつて、「石の句碑はいらない、紙の句碑を建てるべきだ」という意味のことを書いている。実は、今まで句碑を建てる話が持ち上がるたびに、それがひっかかってきた。

拠り所となる船を焼き捨て、生身で言葉の海に出ようという覚悟だった父は、新しい俳句を目指して名もないまま海に沈むことも、俳句の歴史に参加する行為だと考えていたことだろう。そういう心境は、石に刻んで末永く後世に残すという発想からはかけ離れたものだ。そして、「石の句碑」が往々にして、建立者の世俗的な欲望を満足させるものであることも、父には許しがたい愚行に見えたことだろう。

しかし、本来、石の句碑は、末永く風雨に耐えて未来の往来者に言葉を提示し続けることを期待して作るものである。色紙、短冊、書物のたぐいは、読書家や愛好者の書斎に置かれて、読者との偶然の出会いが少ない。石碑ならば、俳句を知らない人、読書の習慣のない人でもふっと目に留め、純粋に句と出会って、何事かを考えるだろう。子供が読むこともある。それが有名な俳人の句かどうかという世俗的な価値観に汚されずに、人と句が一対一で出会う機会が増えるのだ。

船長が頼りの船を焼き捨てるように、句も作者という拠り所を脱ぐ。それには永い時が必要であり、石碑とは、その永い時にそなえる耐久性を与える方法の一つではないのか。

二つの句碑の除幕式は、実に感動的だった。「偉い人」を呼んでハクをつけたりしなかったし、空疎な挨拶は一つもなかった。二つの真言宗のお寺は協力して、光明真言や般若心経を唱えあって、二つの句碑を清めた。福寿院では周辺の木々の緑に、法光寺では青空に、子供たちまでが唱和した真言が吸い込まれていった。

句に頑丈なボディを与えて、永い時に向けて送り出す。その門出に幸運が重なっためでたさと真言のきよらかさ。父もこれなら嫌だとは言うまい。

(たかやなぎ ふきこ・昭和二八年生まれ。重信長女、歌人)

参考・第2号 編集後記

松本寧至

◆高柳重信句碑を建てたことで、法光寺と福寿院は名所になった。欲を言えば、国領(伊勢崎市内)墓所にも句碑を建てたいと願っている。句碑に適当な句がある。

ふるさとの墓地に蝉鳴く此の日はや

『前略十年』のなかの一句で、「八月十五日」の前書がある。八月十五日は終戦の日である。長い苦しい大東亜戦争の終わった日の、重信の故郷への回帰であり、「国破れて山河あり」の感慨であったろう。

◆句碑が建ったので、その場所を吟行することが行われ、欣快にたえない。お出でいただいた方々は芳名簿にのこして記憶するようにしているが、小林敏朗宗匠が会員を連れての吟行は、その会の句を載せてもらった。

◆その中で、茶の花に埋もれるように句碑のあることを詠んだのが二、三句あった。これについて役得というべき注釈をつけておく。これは法光寺前住王土の句で、私が遺稿の中から直筆を拡大して採用したのである。

生れ生れ生れ生れて法の露 王土

は、真言宗の開祖弘法大師空海の主著『秘蔵宝(ほう)鑰(やく)』の序に、

生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く

死に死に死に死んで死の終りに冥し

によっている。王土の上の句は、『宝鑰』の上の句を引いている。

◆ついでにもうひと句碑について書く。歴代住職の墓と檀家の墓地が本堂の西から奥山に続いている。その霊の供養のつもりで、やはり王土作の小詩を建てた。

蜻蛉よ

黄泉路(よみじ)行く

霊(たましい)の

先を飛べ

というもので、これは手帳に生前きれいに清書してあったのを、没後原稿にしてある。多行形式は重信のモットーとした形式だが、内容的にはもっと古い成立だろうと思う。私は「蜻蛉よ」を『梁塵秘抄』のように「とうぼうよ」と読んでいたが、蕗子さんが見てくれて、「セイレイよ」とよんだ方がよいとのことだった。墓地にたてたものだから、セイレイ「精霊」とかけてよむのがよいか、なるほどと思った。平成十三年の建立である。

◆さて「王土」という俳号だが、もと「渋柿」に属していた頃には「古峯」と称したが、戦後「王土」と称した。フランス語「ode」には抒情小詩の意があるから、このような小詩にはふさわしいだろう。

◆この「月光」第二号には、ご多忙の折にもかかわらず多くの方々にご寄稿頂いた。心より感謝申し上げる。また、高柳蕗子女史の刊行の労にも衷心より御礼申し上げる。この「月光」が、第三号、第四号と刊を重ねるにつれ、より多くの人々に知られるとともに、出発点とも言うべき、高柳重信氏の愛したであろう人間の「探究心」が、人々の心に芽生えることを願う。

* * *

高柳蕗子

◆句碑のしおりと「月光」(前号)を作るときから、これを法光寺文芸誌の「創刊号」にしようという思いがあった。一度きりでなく、折々句碑を訪れる方もあるかもしれず、「月光」の続巻があれば、そんな方にも毎回喜んでいただけるだろう。思いだけでなかなか実現しなかったが、お忙しいなか、句碑の除幕式にご参列いただいた俳人の方々、近隣の俳人の方々、ご住職のご友人、さらに大学の研究者の方々にもご寄稿いただき、第二号をまとめることができた。ことに寺山修二の研究者である児玉さんには、長文をご執筆いただいた。また、下浅さんには執筆のほかワープロ入力でもご協力いただいた。みなさまに心から感謝申し上げる。

◆右の「セイレイ」の話、私はそもそも「とうぼう」という読み方があることなど知らなかったのだ。ふと「逃亡」に重なりそうになる「とうぼう」ならば、誰にとっても行くてのわからぬ黄泉路というものの心細さが、より切実に感じられ、そこにささやかな先導あれかしと願うやさしさが胸に迫るではないか。これからは絶対に「とうぼう」と読むことにする。

◆しかも、たった今気づいたが、「蜻蛉よ」の句は、行く手のわからぬ状況を書いている点で、「月光」「船長」の句と共通しているではないか。句碑は人をせかさない。見る人のそのときどきの解釈を黙って受け止め、そんな時間を過ごしに訪れる人々をじっと待っているのだ。