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● 新しく発見した色紙
● 俳句の写生派 ーービルに遮られる富士に思う 高柳重信
毎日新聞1981年2月27日 掲載のエッセー +富士を詠む重信句
● 新しい歌枕 高柳重信
読売新聞 1974年6月7日 掲載 『日本海軍』に関する文章
ちょっと雰囲気を味わいたい方のために
療養所より蕗子宛の手紙
俳句形式の可能性、ありや、なきや。
「なし」と答えて、敢えてその非可能性に挑戦し、希有なる光芒を放った高柳重信。
その戦後俳句の珠玉の全句集を読み給え!(帯文)
●詳しい年譜や著作一覧はもちろん、雑詠欄の穴埋めに別名で書いたような句までしっかりカバーしています。
(しかも、ご覧の通りのかっこいい装丁! 寺田澄史さんがやりました!)
●編集委員は、重信本人よりも重信を知っている岩片仁次・寺田澄史・高橋龍の三氏と、
パパのことはよく知らない高柳蕗子です。
全句集、評論随筆抄 年譜、人と作品について多くの方が文章を寄せています。
篤子はかつて重信の妻でだったことがあり、蕗子の母です。
離婚後は渡米し、あちらで55年ほど、
広岡マリ Mari Hirooka という名で画家をしていました。
2019年5月12日 ニューヨークで永眠。
同5月28日に遺灰が蕗子のもとに届きましたが、サプライズ!
同日、全く思いがけなく、作品集が送られてきました。
(この本の企画は私は全く存じませんでした。)
なんという偶然!
この作品集は、俳人で父の旧友である岩片仁次さんがまとめてくださったもので、母が父と出会って結婚した時期に書いた俳句や詩などを収録したもの。娘である私(蕗子)の知らないことがたくさん書いてあります。
私は母と一緒に暮らした期間がとても短くて、すごく変人だったという記憶はありましたが、読んでびっくり。
1981年頃 孫といっしょに
群馬県群馬県伊勢崎市境というところにある二つのお寺に重信の句碑があります。
福寿院は菩提寺で重信の母の実家。 法光寺は先代のご住職が重信の若いころの俳句仲間で、 句会を開かれていたそうです。
下の写真は、建立の儀式のとき撮影。左が法光寺の句碑(境下武士)、右が福寿院の句碑(境小此木)です。真言宗の不思議な儀式を行いました。
なお、お近くにお住まいの方を除き、散策・吟行などはおすすめできません。
現地は場所がわかりにくく、周辺にお店等はありません。この地図では近そうに見えますが、歩くには遠すぎる距離なので、気軽に見て回ることはできないと思います。
左:法光寺の句碑(境下武士) 月光旅館あけてもあけてもドアがある(短冊に書かれたもので、縦長に書いたためか、句集の表記とは異なる。)
右:福寿院の句碑(境小此木) 船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな