解剖鋏と泥鰌

解剖鋏とどじょう

高柳 蕗子 c

解剖セットをゲットした

小学生のとき、雑誌の付録で「解剖セット」を手にした。ケースに入ったいくつかの小さな器具類のうち、今でもはっきり思い出せるのは、魚や蛙の腹を開くための小さな解剖鋏だけだ。

おたまじゃくしや小さなダボハゼなら近所の池で簡単に手に入れられたが、ああいう生き物はその場所のいわば備品であって、遊び終わったら生きたまま元の場所へ返さねばならないと思っていた。それにちょうど学校で先生が魚を解剖して見せ、心臓やら浮き袋やら、魚の体の仕組みを習ったばかりだった。あれを自分でやってみたいなんて思わなかった。だから、「解剖セット」は、私の日常に関わりないものだった。小さな解剖鋏を指にかけて、たまに学者みたいな気分を味わうだけで満足だった。

私のがらくた箱には、誰かにもらったネックレスとか外国のコインとか、今の自分は絶対使わないであろうものがたくさんあった。それらは、自分の日常には関係無いが、世の中にはこういうものを使う場面もあるのだと、世界は思いのほか広いのだと、ときおり想像するための、遠い世界のカケラだった。「解剖セット」もその中のひとつになった。

どじょうをゲットした

それから一年ぐらい後だったと思う。はじめて会う親戚の家に行き、遠縁のおてんばな姉妹と、川で半日どじょうを捕って遊んだ。姉妹は、捕ったどじょうのうち数匹を放してやらず、私が帰るとき、「おみやげ」にとくれた。

家に戻ってバケツに放したどじょうをつつきながら、二、三日なんとなく困っていた。このどじょうは元いた場所から離れて戻れなくなったんだ。よその池に放したら、そこのザリガニにいじめられるのではないだろうか。生き物でなければがらくた箱に入れるのだが。

実況生中継

ふと、解剖セットが目に浮かんだ。何かが作動した。意識がすみずみまで行き渡らなくなる感じがした。

人に見られない物陰に行った。「人に見られないように」という判断は、まともな日常感覚のなごりだった。このとき、

「ふーちゃんはまるで悪いことでもするみたいに物陰をさがしています。自転車置き場の裏に行くようです」

と、私を実況中継するアナウンサーのような言葉が内にあらわれた。よその家のラジオを聞いているみたいだった。

「右手の鋏はかなり苦労して腹を開きました。ところが、左手の小さいどじょうは、何事もないように暴れています。中身がごちゃごちゃ全部出て、心臓も取れちゃったもようです。

『こんなのは解剖じゃない』

と、解剖鋏の右手ががっかりして止まりました。一方左手の、空っぽになったどじょうは、何も気づかず、元気にのたくり続けています。

この光景は見たことがあるぞ、そういえば物陰にしゃがんだときすでに、このつまんない結末を予測したじゃないかと、ふーちゃんは思い当たりました。

おっと立ちあがりました。捨てに行くようです。歩きながら考えています。

『ふるさとじゃない場所では、心臓をなくしても平気なんだな・・・・・・』」

エロ本の川へ

近くに汚いどぶ川があった。いつかどっさり雑誌が捨ててあって、それを拾い上げた人が、「なんだこりゃ、ぜんぶエロ本だよ」と叫んでいた。そんな川だ。どじょうの行き場はもうそこしかないと思った。内臓なしで平気で生きているどじょうと、その内臓と、残りの無傷のどじょうの入ったバケツを、丸木の橋から空けた。

解剖セットの方は、草の高い野原に持っていって埋めた。隅でもまんなかでもないような場所にした。少し歩いてふりかえると、もうどこだかわからなくなった。

あれからだんだん大人になって、許容力もずいぶん増したはずだが、それでも、ひょっとサバイバルナイフなんかを手にしたら、そしてたまたまそのとき、対処しにくいどじょうがいたら・・・・・・、抗えず何かしでかしてしまわないとも限らない。

亡霊をゲットした

さて、その後、解剖鋏とどじょうは浮かばれずに、がらくた箱の亡霊になって、仲良く住みついた。右手にはやる解剖鋏を持ち、左手にぬめるどじょうを握りしめていて、「ふーちゃんはまた憑依したもようです」とアナウンサーに逐一実況される、あの状況を、私は容易に再開できる。

彼らは、異世界から舞い込んだものと、異世界に出て来ちゃったものだ。私たちの日常世界は、不完全な仮想された世界だ。真のナマの世界には果ても底もなく、終わりも始まりもない。真の世界の事象はすべて、何の関連もなくただただ在るだけだが、私たち人間は、これを認識によって関連付けて捉える。そうやって造った、網目は粗いがわかりやすい、仮想日常世界にみんなで住んでいる。この文では、それを「ふるさと」とも呼ぶ。

認識の網目にかからぬ世界は、感知されない異世界である。誰かが感知しても、その認識が共有されない段階では、まだ異世界の事象だ。網目がどこか詳しくなって、その異世界にも人々の認識の血流が行き来するとき、やっと仮想日常世界は拡充される。異世界はつねに傍らにあり、私たちを刺激する。

危険って?

「俺にまかせろ。見知らぬ世界は危険な毒嚢など持ってるかもしれない。とにかく腹の中をよく見ないことには得体が知れない」

「待ってよ解剖鋏。確かに危険かもしれないけど、君の言うような危険ではない。認識される前の異世界には善も悪もないの。君が否応なく私に憑依して、そのとき私が日常感覚を失った、ああいう現象が危険なのよ」

「キケンって、あたちのおなかを切っちゃったようなことなんでちょ」

「いいえどじょう、それは別の話。残酷な行動を誘発しかねないのも危険の一面にすぎない。もしも万能包帯がのりうつって、心臓のないどじょうをくるんで生かしたとしても同じこと。善悪や固体の利害はちょっと置いといてね」

「わかんなーい」

「ふるさとを離れたあんたが心臓をなくしても平気でいるみたいに、日常から遊離した事象が、関係性を失って無感覚状態になるとしたら、大規模で広範囲な無感覚は、仮想日常世界の危機と言い得るわね」

「ふわあ、カンケーない。カンケーないからあたちは不死身。あたちみたいな不死身が増えるのが世界のキキだとしても、カンケーない」

異世界はレトリックにひそむ

いらない付録の解剖鋏。ふるさとから連れ出されたどじょう。二つの別経路で来た二つの異世界が、私の日常に繋がりを持てぬまま、偶然出くわして関わったのは、事故であった。しかし、事故でなく、必要性が熟して招き入れられる異世界もある。

短歌にもそれがときどきある。招き入れられた異世界は、魅力的な刺激と危険を孕んでいる。明確に叙述され得た部分は問題ない。刺激が潜むとすれば不明確な要素にある。

語の関わりにおいてほんの少しの異質な要素、例えば、この日常世界が短歌という限られた長さの中に持ちこまれたときに想定されるバランスの期待値とくい違っている、といった、微妙な過剰や不足のような要素。私の日常仮想世界にまだ取り込まれていない認識を前提にしないと成り立たないちょっとした言い回しや、なんだか理解の体系や組成の違う別世界に準拠している奇妙な感じ。

見知らぬ異質な背景世界の存在感が、ちょっとだけこちらの世界を無効にして、私の背景をすりかえるという形で私を刺激する。こういうレトリックは、叙述された内容よりも正確に、認識の形を反映していよう。

短歌という様式にそれが呼びこまれたのは、おそらくひとつの安全策だ。が、そういった説明しにくい異世界の気配を含む歌なら、念のため、そのレトリックの中の異世界性を明確にする言説が、<防災上>必要ではないだのろうか。歌の異世界要素から受けた刺激だけを鑑賞するのは、がらくた箱のコインや解剖セットで空想にひたるのと同じだ。

「そういうものに潜在する危険性はさっき言ったとおりよ」

「短歌がどじょうに似たもので、その言説とやらが解剖に似ているなら、俺も手伝えるなあ」

「少なくとも短歌の形はどじょうに似てる。解剖に似た言説が有効だと思う」

ふるさとの実況者には私しか見えない

この仮想日常世界というふるさとの外では、何をしても何をされても、心臓を取ろうが失くそうがへっちゃらなほど、事象はしかるべく結びついていない。

ふるさとの力は、私がそんな異世界に遊離しても、私を見放さず、私を追尾し観察して実況し続けてくれる。でも、ふるさとからは、異世界の事象は見えない。ふるさとのアナウンサーは私の様子しか描写できない。私がもし異世界でおののけば、そのおののきは語れるが、おののいた対象を直接には語れない。

私がその異世界に対して考察を加えたとき、アナウンサーは私の考察を描写することで、間接的にそれを語れる。これが共有できる言説になるならば、その異世界にふるさとの網目が及ぶ。それでやっと、その異世界は安全化される。

「じゃあその短歌は刺激的などじょうではなくなるんだね。つまんないな」

「あんたが解剖する魚だって、解剖が終わればつまんない死骸になるでしょ。それでも魚の体の仕組みを知る必要があるから解剖するんでしょ」

「おーこわい、ザンコクう」

祝辞に解剖は無礼だし

ところで、ときに見かける異世界モノの歌、例えば日常の事物にメルヘンっぽい空想を誘うものを感知して詠んだ類はおおむね、ここまで書いたこととは無縁だ。それらで扱われる異世界は、はなから既知の世界の内で単なる空想を楽しむためのものであり、その危険性はレジャー用のビニール鮫を越えない。ゆえに、「防災上」の配慮は必要はない。

異世界モノに限らず、多くの歌は、「現状の仮想日常世界をより深く共有し、共感し合うことで良しとするため」に書かれている。(たとえ内容がこの世界における鬱屈を訴えるものだとしてもだ。)、その観点に立つならば、結局、根本はめでたしめでたしな歌、「終わりなき世のめでたさ」への祝辞なのだから、これを解剖したら無礼だろう。そうした歌のめでたさを確認しあうための言説は、日常仮想世界のそのまた孫のおままごとな批評なのである。

ネバーエンド

「ねえ、どじょう。あんたもふるさとの川から何か聞こえるんじゃないの」

「え、あたちのふるさとから? さあ、考えてみなかったけど」

「よおく耳を澄まして」

「そういえば、なんかネバーエンド、ネバーエンドって感じがしてくる。川底のにおいが寄せてくる。ねばーねばーねばーえんどに流れて流れて。きゃー、痛たたた。おなか痛い。ぜんぶ痛い。助けて、鋏たん、あたち死にそー」

「聞くな、感じちゃだめだ。理由はわかるだろ。わあー、どうしよう」

解剖鋏は寄せてくるネバーエンドを切り刻もうとするかのように、チョキチョキと耳障りな音をたてた。

「チョキチョキチョキのグーチョキパ。あら、治ったみたい。あたち、もうふるさとなんかいだない。鋏たんとずーっとここにいる」

というわけで、解剖鋏とどじょうはケッコンし、いつまでも、がらくた箱で幸せに暮らすことになりましたとさ。めでたしめでたし。