雑エッセー

電車でエッセー

大昔に「かばん」に書いた電車でエッセーの一部

「かばん」誌に大昔に連載した古いエッセイを一部発掘した。

電車でエッセーは、当時、子どもが小さくて家では執筆できず、通勤電車で書いていたもの。

OCRを使ったのでまちがいがあり得る。

85・7こころじゃ? 86・2短歌全集 87・7リフレッシュ

87・7失礼 87・10辞書にない言葉 88・02行かなくっちゃ

88・5本能 88・6私に道を聞かないで 88・10運命にどう手を貸すか

90・10 530 90・11アビヤボーン 90・6けろり

90・12電車で読む『シンジケート』 91・2へねんでもへたて

91・3すかんなはきくま 95・3ハー レム

こころじゃ? 三十一文字集会で考えたこと

「かばん」85年7月掲載


私は短歌形式に手をそめてからこっち、他の歌人の短歌とのかかわり方について、あまり考えたことがなかった。どのみち読者に届くのは結果だけであると思うからだ。そのうえ、雑誌や歌集も、いいものはむこうから読まれに来る、とばかり、めったに買わなかったので、この集会がほとんどはじめての歌人との邂逅と言っていいだろう。

時間の都合で、聞けたのは、午前中の「ことばじゃことばじゃ―ジャンルを超えた同世代の女性たちの、ことばとうたのスクランブル」、午後の「言・言・言」 うたをめぐるシャープな発言集」「講演"ことばの出エジプト"」の半分だけだった。

また、壇上の人々、特に歌人について全く基礎知識をもっていなかった。この二つの事情から、短時間に聞きかじった言葉尻をつかまえて、よく知りもしない人のことをとやかく言うのは得策でないことはわかりきっているが、これも性分なのか、異議ありと思ったとたんにものを投げつけるような慌て者なのだ。


討論や発言のなかには、なるほどと思う事柄も含まれていたが、それよりも私を驚かせたのは、出てきた歌人の大部分が「短歌は自己の表現、心の表現」などと、安易に言い放ってしまえる人種であることだった。午前中の「ことばじゃことばじゃ」の掛け声が、午後になったら「こころじゃ」になってしまったのである。

作品には「自己、われ、こころ」といったものの裏づけが(兌換紙幣みたいな具合に)あるべきだろうか。作品は心のスナップ写真高柳蕗子であるのが一般的なのか。たかが人間一匹の自己を映し出す鏡でよいのか。

「これはかくかくしかじかをよんだものです」と、作者とはいつでも胸をはって説明する権利をもった「作品の主人」か。言葉とはバクとして自己の中に存在するものを明るみに引きずり出す道具である、とする発想は、言霊様に対して失礼ではないだろうか。


そんなことを思いめぐらすうちに「シャープな」発言は終り、中沢新一氏(この人も知らないが※ 顔は合格)の講演となった。油断すると眠ってしまいそうな話しぶりだったが、「世界はすべて言葉だ」「抒情はある瞬間のうつろいやすい実在を、サッと言葉に定着する作業だ」「論理的に何かを言い表わす言葉は、言葉の中のごく一部で、しかも去勢された状態にある」等々、夢想の種にはこと欠かぬものだった。

※注:すみません。これを書いたのは、歌集を出し「かばん」に参加したばかりの、本はSF小説しか読まないといきまいていた頃で、要するにただの不勉強者でありました。


言葉のどろりとした海に、潜っては浮上する作業を思いうかべてみよう。この作業は中沢氏の言う抒情にかぎらず、詩的創造全般に共通すると思う。海水も言葉、魚も藻類も、底に沈む宝も骨も、みんな言葉だ。「自己」を拾いに潜っても、何をひっつかんでくるかわかったものではない。海流に押し流されてゆくうちに、思わぬものに出くわして、片足喰われるかもわからない。こうした出合いの体験があれば、「私の心の表現」などと、ちゃっかり自分の心の手柄にするようなずうずうしいことは言えないはずだ。(出合わない人は、出合う資格がないのだという説がある。)


作者の意図という既成のものを嘲うかのように、真に新しい作品が文字となって誕生したとき、作者とは第一の読者だと、おもわずつぶやきたくならないか。このテの作品の作者を名乗れる名誉は、自己表現の喜びに劣るものではない、と私は思う。

さて、ナマイキに吠えたあとは、たいていギャフンと鳴く羽目に陥るのだが、それも覚悟の上でもうひとつ。発言者の一人が、「短歌は毒にも薬にもならないが、それでも大勢の人がやり続けることはすばらしい。私は短歌に憑いて、静かにもの狂いしてゆきたい」というようなことを言ったときは、行儀良くするのに苦労した。

毒にも薬にもならぬものがこの世に存在すると考えるのは甘すぎないか。いかに個人が無力な時代とはいえ、毒にもならぬとは虫が良すぎる。ではもし毒になるとしたら、いや、さらに面倒なことに、薬になるときは、書き続ける勇気があるのだろうか。

「静かなもの狂い」という言葉の美しさに、つい謙遜も加わって言っただけだろうけれども、昔は「力も入れずして天地を動かし」たほどの言霊の力を、けっしてみくびってはならないと思う。

最後に誤解のないようにつけ加えておくと、私は自己を表現するなと言っているわけではない。絵画の世界をみてもわかるが、自己も立派な表現対象の一つである。ただ、自画像だから、自己の心象風景だからといって、値うちが上がるわけではない。直接的に自分を記述しない作風なら良いと考える人もきっといるだろうと思うが、かくれても化けても、いやらしいシッポがちょろりと見える。私は、言葉が言葉を産む瞬間に冷静な助産婦でありたいと願うばかりだ。

短歌全集 ―アシモフ風に

「かばん」86年2月掲載

昨年マンションを買い、約千五百万の借金を背負いこんだ。おかげで、一千万という数を、おぼろげながらも実感することができた。だがそれ以上の桁となると、遠い恒星も近い恒星も「お星様」としか見えないように、あいかわらず「大きな数」である。

わが親愛なる夫がパソコン(元祖X1)を買って三年余、彼の努力にもかかわらず、私が覚えたのはスイッチだけだ。


それでも、コンピュータで短歌を作ることは一応考えた。単語等をたくさん入力して組み合わせる方法もあるが、手間がかかりすぎる。それよりも、入力するのは五十音のカナだけにして、三十一文字でできるカナの組み合わせを網羅してしまえば(字余りは考えないものとして)、短歌のすべてを書き切ってしまうことができる、と思い至った。文字通り「短歌全集」である。それがわが家でできるのだ。


さてこの歴史に残る計画を、「ユモレスク」の出版を祝う会(みなさまありがとう) で披露したところ、小森さんが「五十音に濁音や『ぴょ』のようなものを含めると、カナは約百種あり、三十一文字それぞれが百通りだから、100の31乗首になる」と計算してくれた。今野さんが「大変な数ですヨォ」と言うのをモノともせず、「コンピュータだもの、せいぜい親子三代で取り組めば、短歌全集のできあがりヨ」と、大きく出てしまった。わが家のX1かわいさのゆえであった。


そしてそれきり、実際にうちのプリンタが100の31乗首印字するのに何年かかるのか、計算することなく何ヵ月も過ぎてしまった。誰の言葉か忘れたが、真理とは概して無愛想なものであり、こちらから話しかけなければ知らんぷりを決めこんでいるというから、早速計算してみよう。


一年は31,536,000秒。一首印字する時間を4秒と決め、100の31乗は10の62乗におきかえる。式は省略。答えは約12,700,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000年となる。(もしかして少し違ってたらごめんね) 12.7×10の55乗年と書いた方が良いだろう。

この宇宙が誕生してから現在に至るまでに流れ去った歳月ですら、わずか10の11乗年かその倍ぐらいなのだから… … すごい。


では本にしてみよう。「あ」が31個の第一首ではじまり、「ん」が31個で終るこの全集は、一巻千頁、一頁百首とすると、10の57乗巻の大全集となる(注1)。一巻が1キログラムだったら10の57乗キログラムの紙が要る。どうか爪を噛まないで読んでいただきたいが、これに対して地球の重さ(?) は、ほんの5.983×10の24乗キログラムにすぎない(注2)。


これで私の全集計画はぺしゃんこになってしまったが、無限に等しい数とはいえ、短歌が有限であるという事実は動かせない。短歌は、いわば短歌の女神の巨大な卵巣の中にすべて用意され、順番を待っているのだ。この比喩を続けると、私の場合、著しく「かばん」の品を落とすかもしれないので、残念だがこのへんで話を変えよう。


次に思いついてしまったのが「短歌登録制度」である。

長い長い年月の間には、それと知らずに同じ歌を詠んでしまうケースがあるはずだ。文化的遺産として語り継がれる少数の作品以外は、作品も作者も忘れ去られて、おろかにも再び作りなおされてゆくのではなかろうか。そんな無駄を防ぎ、作者の権利を守るため、短歌をコンピュータに登録しようという提案があっても不思議ではない。

しかし、断っておくが、私はそんな必要も熱意も感じてはいない。それは、同じ作品が生まれる確率の低さ等のケチな、いや数学的な理由ではない。ある種の作品は一度生まれれば、多くの人の精神に効率良く働きかけながら生きながらえるが、忘れられるタイプの作品は、その短い一生で、ほんの数人をなぐさめるだけだ。だから何べんでもチャンスは与えられるべきだと思う。

宇宙的な時の流れの中では、それも自然な現象に見えるが、いかがなものだろう。おや、こんどは足の爪ですか?


原注1 ちなみに俳句は、総句数はたったの10の34乗句、10の29乗巻の全集ですむ。また、こういう全集が完成したあかつきには、カナの列から意味を読みとる作業が、歌人や俳人の仕事となる。

原注2 アシモフのエッセイにそう書いてあったが、その算出方法は、何回読んでもすぐわからなくなる。

●短歌全集 ―アシモフ風に UPに際してのコメント

※これをHPにUPしたのは2005年8月。

人は変われば変わるもの。

冒頭に出てくる借金はぜんぶ返し終わり、離婚し、パソコンはいまや大得意である。そして人は変わらないもの。この文体は、何度生まれ変わっても、自分が書いたとわかると思う。

※イラストは、どういういきさつか忘れたが、なぜか「かばん」誌のこの文章の末尾に添えられていたもの。 この文章を書いた当事、まだ5歳ぐらいだった長男が書いたものだ。

リフレッシュ

高柳蕗子 87年7月「かばん」掲載 もともとは超短文でしたが、ここにUPするため大幅に加筆


心身ともにリフレッシュするのはどんなときかしら?

職場に保健婦のTさんという人がいて、いっしょに健康増進ポスターの企画をしていた。


はて、と言葉につまった、ちょうどそのときだ。グラグラと地震が来た。

震度は3か4か、長いな… … 。そしてひらめいたのである。「地震・雷・火事・オヤジ」と。


ちょっとした地震のあと、低血圧の自律神経失調症状がウソのように消え、頭スッキリ食欲モリモリの生まれたてみたいな新鮮な気分になるのは私だけだろうか。

雷のあの音や稲妻、ザアザア降りが音楽鑑賞より好きという人はいないか。


少くとも火事については、私よりもっと熱烈なファンがいる。

すわ消防車が通るぞ、というときは、双眼鏡を手にベランダに立つ私の下を、大勢の弥次馬が走ってゆく。サイレンを追って着のみ着のまま自転車で乗りつける老若男女。

災害の不安や他人様の不幸でリフレッシュと言ってしまったら不謹慎なんだけれども、大きな炎を見たり、グラリときたり、ゴロピカドンを聞いたりすると、このあたりまえの 安全な日常を一瞬にして失うかもしれないという小さな予感と恐怖に見舞われる。

そこに含まれるかすかな緊張感と解放感みたいなものがクスリになって、ひごろ萎れている脳のどこかがシャンとなる。きっと医学的に説明のつく現象にちがいない。


さて問題はオヤジだ。オヤジでどうリフレッシュするかというと、ひどい言い方かもしれないが、それは死なれたときである。


かって子宮を脱いだように、親が死んだときも何かを脱がねばならないのだ。父が死んだとき考えたことだが、人食い人種は、故人の勇気や知恵を身に納める意味で死者を食べるという。私は父を食べなかったから、知恵も勇気も受け継げなかった。それでも、この世からどんな人物が失われたか 、ということをひしひしと感じる。それを自分が(こんなに力不足な自分でも)補う番なんだ、という柄にもない殊勝な気分になる。


そしてまるでロケットが下半分を切り離して宇宙に出てゆくように、気がついてみるとあら不思議、無用の心中の葛藤にカタがつき、新しい局面がさあどうぞと開けている。悲しみはこの過程のBGMにすぎない。蓋が外れたんだ。いまなら何でもできる。もう「遣族」でもない。


そういえば寺山修二の短歌に、


すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を越えて来し郵便夫


というのがある。

冬田は父をここに閉じ込めていていたが、それを引き継いだ自分をも閉じ込めてしまいそうだ。そこに外界から届いた葉書は、父が待ちわびていたであろう外界とのツテ、切符のような感じがする。

この人は、父に来たその葉書、外界への切符、未来を手に入れたような気分がちょっとしているんではないだろうか。息子は、父の遺産や仕事を引き継ぐだけでなくて、手に入れられなかったものも引き継ぐ。予測不能な未来が拓けるかもしれない予感。


そういえば、「長靴を履いた猫」は、父親が死んで、ぱっとしなかった息子に予想しえなかったほどのすばらしい未来が拓ける話だった。こいいう民話がいくつかある。 もちろん、現実世界では、べつに父が死ななくたってそれができる人がいっぱいいる。つまり、親の死を待つ必要はなくて、遠慮なく未来は拓いてかまわない。それでも、親の死を転機に、という話をときおり耳にするところをみると、親の死には、なんらかの強力な作用、いやおうなくリフレッシュ する効果があるんだと思える。そうやって、生まれ変わり死に変わりして引き継いでゆく健全なリフレッシュ効果が、個人の悲しみとは別次元にあるという気がする。


人は死後忘れられ、墓もいつかは田になるとか、現世の利得も死ねばパアだとか、兼好法師は言っている。だが、それで世を捨てたんじゃ工夫が足りない。人類の背中をここまで押してきた無常エネルギーを無駄にしちゃいけない。なーんて、私、「健康法師」だわア… … 。ふっふっふ。


とまあ、頭の中ではいろんなことをどんどこ考えていたが、気がつけば、私の返事を待ちかねたT保健婦さんは、スイミングでリフレッシュする話をはじめていた。(苦笑)


保健婦であるTさんは理解してくれないかもしれない。だからこの先は言わなかった。

「地震、雷、火事、オヤジでリフレッシュ」は、人生をリフレッシュするもので、健康増進ポスターにはならないだろう。

そもそも、なんで私たちは、心身のリフレッシュに限定して、「健康増進ポスター」なんぞ作るんだったっけ。そのように限定した中の「健康」って何?

人生は命よりだいじじゃん? 命よりだいじな人生があるから命がだいじなんじゃない?

いまだいじでなくても、いつかだいじなものと感じられる瞬間があるかもしれない、一瞬でもそれを味わいたい、という希望があるから、命がだいじなんじゃない?

これはポスターで喚起するようなことではないんだろうなあ。

いつかあなたの猫が長靴を履く。そのチャンスを逃すなよ、なんていうことは。

健康増進ポスターでは、「健康がだいじ」ということを自明の、「疑う余地なき前提」として、健康の維持増進に役立つことをスローガンにする。

でも、「疑う余地」はある。疑うというよりも、命が、健康が、どうしてだいじか、誰に、どのようにだいじか。この世に突然生まれて、なんとなく見よう見まねで人生半分ぐらい生きて、ずーっとそこがあいまいなんじゃないか。 そこに自分なりに答えを見出そうとすることがだいじではないのか。

本来あいまいなのに、「自明の前提」として扱う言説はうざったい。真実にとりくむ労を惜しんで、いいかげんないいなだめをする言説はうざったい。 まちがっても、この重大なあいまいさへのいらだちをスイミングなんかでリフレッシュしちゃいけない。リフレッシュすべきは、そういううざったい言説どもなんだ、本当は。

※2005年8月現在、いまだに同じ仕事をしています。

毎年、同じ疑問をなだめなだめ、健康増進ポスターを作ってきました。

それを見て健康になっちゃった人も少しはいるかもしれない。

言葉の軽犯罪。タメイキ。

失礼

87年7月 「かばん」 高柳蕗子


「糖尿病の治療勧告をずっと無視している人がいるの。

もうずいぶん悪化して、いつ失明して倒れてもおかしくない状態だわ。

ちゃんと治療すれば何てことない病気なのに、

これじゃ… … これじゃ、糖尿病に失礼だわ! 」


と、職場の同僚の保健婦さんが言った。※


私はいささか耳が痛かった。大きい声では言えないが、私はそのとき、かゆい背中の発疹に悩まされていた。

掻けば広がるとわかっていても、掻きむしらずにいられない。仕事の帰りに寄れる皮膚科医は、駅前のパチンコ屋の隣でサラ金の真上。どうも薄気味悪くて行く気になれないでいた。

それに、なんだか治すのが惜しいという変な心理もある。これがけっこう大きい。私の95%は痒みから解放されたいと切に願っているけれど、5%ぐらいが、なぜか痒みというものを好んでいて、「いいじゃん、もう少しこの痒みを味わおう、治したらもったいない」といって引き止めるのだ。(笑)


しかし、これでは「発疹に失礼」だぞと、ついにその皮膚科にかかることにした。

はたして、駅前の雑居ピルの皮膚科だからと敬遠したのは全くの偏見であり、親切で気さくな医師が、あの頑固なカイカイをたつた三日で治してくれたのである。


このことで心を入れかえた私は、次の日曜日、長いこと飼っていた三匹の金魚、お祭り君、釣り堀君、手品君を公園の池に放しにいった。

この池には大きな鯉がたくさんいる。世間しらずの三匹など、たちまちいじめ殺されると思い、狭くなった水槽で喧嘩しているのを気にしつつも、これまで放すのを思いとどまってきた。が、それももはや限界。


バケツを公園の池に傾けて静かに流し込む。三匹はしばらくぼんやりそこにいた。

はじめに意を決して泳ぎはじめたのは釣り堀君だった。肥満気味の彼は健気に鯉のいる方をめざした。

するとどうだろう、どこからか同じくらいの金魚が出迎えるようにいっぱい現れたのだ。よくみればこの池には鯉だけでなく金魚もたくさんいて、群れたり離れたり、仲良く暮らしているらしい。

お祭り君も手品君も、いつのまにかみんなに交じり、まばたきを二三度したら、見分けがつかなくなった。


あの三匹を世間知らずと決めつけ、「飼ってやって」いる自分を親切だとうぬぼれ、公園の鯉のことを意地悪と誤解していたのは、本当に失礼なことであった。

そういう訳でみなさん、かゆい発疹は亀戸皮膚科へ、金魚を放すなら戸田市文化会館前の後谷公園へ、そして糖尿病はまじめに治療しましょう。

※保健婦さんと同僚だが、私は医療職ではない。

※その後事務所が移転したため、亀戸に行っていない。まだ、「亀戸皮膚科」があるかどうかわからない。

後谷公園は金魚を放してはいけないことになったそうだ、どこからともなく聞いた。真偽不明。

糖尿病はまじめに治療したほうがいい。知人の美容師さんも糖尿病で失明に近い状態になってしまった。

再起には長い時間がかかるらしい。

辞書にない言葉

87年10月 「かばん」 高柳蕗子


私が使っている三省堂の国語辞典にはあの「ちんちん」が載っていない。お湯が沸くチンチン、犬の芸のチンチン、それになんと「ちんちんかもかも」まで載っているのに、肝腎のやつが無いのである。

もちろん彼がないなら彼女も、というわけで、両方とも無視されている。


味噌汁が嫌いな私は「日本人じゃない」とよく言われるが、ちんちんもまんこも無い辞書を作った人は「生き物じゃない」のだ。


さて、私がこんなことを考えて、いつも以上に獰猛になっているとも知らず、例の保健婦をやっている友人が言った。

「最近の若い人の言葉って厭だわ。ちゃんと辞書に載って"る言葉で言えばいいのに、わざわざ、ダサイ、みたいな変な言葉を作るのよ。どうせくだらない流行語で、のちのち残りゃあしないでしょうよ。」


思わず出たのは「ウー」だった。

【以下、私がまくしたてたことの要約】

「ウー」くらいしか言えなかった人類が、いろんな言葉を発明し、使いながら工夫してきた過程で、さぞやたくさんの言葉が生まれては消えたことだろうが、残らなかったからといって、それらの言葉がくだらないと言えるだろうか。

どんな言葉も使われている時点では、その言葉でしか表せない何かが存在するのだ。

だいいち、あなたの言いかたから推察すれば、自分の知らない書葉を使う若い人に一種の疎外感を抱いているようだが、そういうときは、理屈抜きで「フーンだ」と言うだけでたくさんだ。それを辞書うんぬんとは素直じゃない。

辞書とは、神様がこの言葉で話しなさいと下さったわけじゃなく、所詮人問のこしらえた不完全なものにすぎない。

いいかい、例えばだよ、ちんち…


…相手はさすがに保健婦。びくともせずにさえぎった。

「あなたって、機嫌のいいのは月に一度の排卵日だけね」

フーンだ、お互い様ですよ。

行かなくっちゃ

88年2月 「かばん」 高柳蕗子


例の保健婦の友入が私の職場に来て聞もない頃のことだ。ふとこう言った。

「美容院に… …行かなくっちゃ」

彼女は北海道弁のせいか、話し方がのろい。そのうえ途中で意味もなく五秒ぐらい間をおく癖がある。同じことを言うのに私の倍はかかるのである。

「結婚式にでも呼ばれたの」

「べつに… …。さっばりして女をあげたいだけ」

「じゃあ『行きたい』んでしょ」

「そうよ… …. そう言ったっしョ」と、何を絡まれているのかわからない面持ちだ。

「『行かなくっちゃ』と『行きたい』じゃ、ぜんぜん違うじゃないの」

「… …?」

「『行かなくっちゃ』は、『行かなくてはならない』、でしょう」

【以下、ものすごい早口で私が言ったことの要約】

自分は美容院にまだ行きたくないが奇麗にしないと失礼に当たる場に出るからとか、美容院に行きたくないけれど髪の毛がうっとおしいから仕方なく行くとか、何かしら自分の意思の外側に行動の理由があるかのような言い方だ。

だのに世間一般に、「なになにしたい」を「なになにしなくちゃ」と言う傾向がある。それは言葉の混同にとどまらず、自分の行動の意味を曖昧にしていると言えまいか。

やりたいことでも嫌なことでも、自分自身の同意がなければ行動はおこせない。「何々しなくっちゃ」は、本当は、自分がしぶしぶ同意したという経緯をあらわす言い回しだ。自らやりたいと思ったことにまで「しなくっちゃ」と言うのは、なんだかずるい。

そもそも、自分がどの程度どういう気持ちで同意したのかをはっきりさせるのを渋るのはずるい。

この辺りを曖昧にしておけば、うまくいかなかった場合、「だからあたしは嫌だったのよ」などと思ったり言ったりできる。

そして、そのひねくれのろくでなしどもときたら顔かたち貧しく、「みんなだれだれのせいだ」とわめき散らし、とんでもない昔話を持ち出して話を混乱させガオガオガオガオ… …

彼女はやっとのことで私の饒舌を遮った。

「あのね(五秒)… …あなたの言いたいこと、わかった. それでね(五秒)……、

行動の理由に自分の気持ちを持ち込まない人もいるっしヨ。すべて『ねばならない』って。

例えぱ夏の(五秒)… …海水浴は冬になって風邪をひかないように体を鍛えるためのものだとか。

胃潰瘍になりやすくて、それをまた『なおさねば』なんて(五秒)……

思っちゃう人、いるっしョ。」

(くわー、なんつーじれったいしゃべりだーくっそぉー!!!!)

私たちは、こうしてテンポの違う会話を続けた。

話は牛若丸みたいにあちこち飛んだが、昼休みの終わる頃、なんとなくもとに戻った。

彼女の言葉を切りつめるとこうなる。

「厄介な病気にかかると、運が悪くて人生が台なしになったように感じるけれど、人や自分や運のせいにしても解決しないっしヨ。

病気も人生の一部としてとらえられれぱ、健康者にはわからない波乱に富んだ一面があって、生きごたえのある瞬問にも出会えるかもしれないっしョ。

病気も美容院も自分自身とのかかわりが曖昧では、味わいも手ごたえも薄くなる。

あなたがはじめに言いたかったのはこのようなことでないかい。」

超スローだが、理解したという証拠に自分の言葉で語りなおしてくれた。この人、テンポは合わないが、似たところがある。

ナイチンゲールっぼくないヘンな保健婦さん! 気が合うかもね。

そしてこのあとの心理の道筋が自分でもうまく説明できないのだが、なんとなく私も美容院に「行っちゃえ」ということになった。

二人ともぐっと女があがったことだし、「行っちゃえ」について深く考えるのは、当分やめたほうがいいんでないかい。

本能

88年5月 「かばん」 高柳蕗子


息子のファーブル毘虫記を電車で読んだ。

子供の頃読んだこの本の中には、まるで幼児の食べたトウモロコシみたいに、おいしいところがまだ残っている。

ある蜂のところに、本能のことが書いてあった。

この蜂は、大変な手間暇をかけて幼虫のために巣を作り餌を運ぶ。

同じような巣がたくさんあるのに、母蜂はどうやってわが子のもとに戻れるのか。ファーブルが、母蜂の留守に巣穴を塞いだり、変な匂いを付けたり、外観をすっかり変えるようなことをしても、母蜂はへこたれずに巣穴を見つけだし、邪魔物をかき分けて餌を運び込む。入り口の場所は絶対のものらしい。

そこでしつこいファーブルおじさんは、巣穴を掘っくりかえして幼虫を剥き出しにしてしまった。

はたして母蜂は、入り口を求めてむなしく歩き回り、幼虫を我が子と見分けることなく踏みつけにする。幼虫のほうも怒って母に噛みつきさえする。

ファーブルいわく、

『知力に導かれる母親は籔れた家の木くずを通リ抜けて、まっすぐ息子のところに行き着く。ところが本能に導かれる母親はもとの戸口であったところに、いつまでもいつまでも立ちつくす。』

これが本能の限界だ。コインロッカーに赤んが捨てられる事件等があると、すぐに『このごろの女性は母性本能が希薄なのではないか』なんて書く人がある。しかし本能はそう簡単に希薄になんかなりゃしないし、そもそも人類は、いろんな環境の変化に適応して繁栄した種族である。人類の母親はとっくの大昔から、融通のきかないおろかな本能のお世話にならず、もっぱら知力で子供を育てていると思う。

どうも男は、バカな女房が知力で子青てしていると考えるより、本能という絶対のものの監督下で子育てしていると思いたがっているように見える。どんなにいばりくさった男でも、母性にだけは敬意を払う。いい加減にそんなおかしな信仰は捨てちゃえぱいいのに。

さらにいえぱ「このごろの」というのが引っ掛かる。例えば「このごろの子供は本を読まない」などと、なにかにつけて書う風潮があるようだ。

けれども昔は、貧しさのためとはいえ、間引きをしたり娘を売ったりしたではないか。本能の監督下ではあり得ないことだ。また、いつの時代の子供が今よりたくさん読書をし得たというのか、はっきり言ってほしいものだ。だいいち、私が幼い頃、祖父が何かにつけて「近頃の若いものは本を読まない」と言っていたが、祖父にそう言われていた世代が大人になって、平気で次の世代が本を読まないと嘆いているんだから笑える。その祖父も、読書家ではあったけれど、あとから祖父の言ったことを思い返すと、「おじいちゃんたら、ちゃんと最後まで読まなかったでしょう」と思うことがけっこうあった。(笑)

ところでファーブルは、昆虫が生活の都合で保獲色を持っているという考え方に、そうでない実例をたくさんあげて反発し、こう言っている。

「われわれは、爪先くらいのことに説明がつくと、

もう宇宙全体の説明の鍵を手にした気になって、法則だ法則だとわめくのだ。

ところがこの法則の門口ではそれと反対の数えきれないほどの事実の群れが、

自分の居場所が見つからずに、俺達はどうしてくれるのだとわめきたてている」

(この引用文の『宇宙』を『短歌』に、『法則』を『掟』に、『事実』を『作品』に、それぞれ読み変えてみるのも一興だ。)

要するに私の言いたいのは、事実にあたらずに「本能」のような人知を越えたものを信頼したがったり、やたら法則を作って説明したり、「このごろの」などとわかったような口ぶりで気分的な論評をしたり、法則にこだわって作品を作ったリ批評したりするのは、ただ真実の姿をゆがめ、現代に、この宇宙に生きる楽しみを損なうだけだ、ということなのだ。

よし、これで今月のエッセイができたと本から顔を上げると、あんぼんたん! 二駅も乗り越してるじゃないか。降りる駅くらい本能でわかれよ。

私に道を聞かないで

88年6月 「かばん」 高柳蕗子

職場にかかってくる電話で一番恐ろしいのは、今からそちらに伺いたいから道順を教えてくれというものだ。

そのあたりの飼い猫の模様まで知り尽くした道だというのに、どうもうまく説明できない。だからといって、新入社員じゃあるまいし、他の人に代わってもらうわけにもゆかない。

右と左を言い間違えたり、曲がり角のひとつを言ったつもりで言わなかったり、一時的に記憶から消えている通りがあったりするのだから、迷わないほうがおかしい。私が電話に出たぱっかりに、相手はとんでもないところをさまよい歩かされる羽目になる。

たいてい道を教えてから20分ぐらいたつと電話が鳴る。

rrrrrr rrrrrr rrrrrr

「あのー、だいぶ来たんですが、川に出ちゃって」

「はあー、川、ですかあ」

道順説明用のメモでも作っておけぱよいのだが、そう滅多にあるわけでもなく、忘れたころに「あのー、今からそちらに……」とくるから、毎回、初めてのことを話すような感じになってしまうのだ。

(もっとも、たった一人だけだが、迷わずに来られた人がいた。後々聞いた噂によると、この人は方向音痴で有名なのだそうだ。世の中何が幸いするかわからない。)

そういえば例の保健婦さんにも、同じような苦手がある。

「な、なんなのこれ!ワープロがいけないのよ」

何かと思えば、午前中に自分で作った成人病の指導文書に、書いたつもりじゃないことが書いてあるというのだ。

ワープロの故障でも、誰かのいたずらでもない。午前中はこの表現でちゃんと言いたいことが言えていると思ったのに、昼休みを挟んで冷静になった目で読むと、ぜんぜん違う意味にとれるところやら、まわりくどすぎて頭とお尻がちぐはぐなところやら、いやもう何が何だかさっぱりわからないところやらが、そこここに見えてきてしまったのである。

保健婦のくせに成人病のことも満足に書けないのか、と笑うことは、十年通った道さえを教えられない私にはできない。それどころか、彼女がこんなにも悪戦苦闘する理由もよくわかる。

その指導文書を読むのは、すでに成人病についてさんざん指摘を受けてきて、なかなか実行できず、指導にはもううんざりという人たちだ。彼女はそういう人たちひとりひとりに対して、通り一ぺんでない説得力のある説明を、いわば独創している。

成人病の指導は、つまるところ、食事に注意し運動を心がけ等々でしかない。でも、そういうことが生活に反映できないなんらかの目に見えない本人にもわからない障害がある。

成人病が命にかかわると承知していてなお克服できないその障害は、成人病より難物で、命より人生に関わるものだろう。彼女はそこに立ち入ることはしないけれども、その人たちにとって成人病の治療が、成人病以上の難物に取り組まねばならないことだと承知している。そんな相手に合わせてひとりひとり言い方を変えているからこそ、すらすらというわけにはいかないのだ。

そうでなくとも普段から、何かを書くたび話すたびに、頭の底から考えをまとめなおすタイプなのである。

まるで初めて考えることのようにたどたどしく、認識を深めながら、懸命に言葉になおす人だからこそ、思ったことが思ったそのまま表現できていないことがもどかしいのだ。

人間は言葉で考えるという.それはその通りなのだが、考える言葉というのは、他人にその考えを伝える話し言葉や書き言葉とは、別の引き出しに入っているようだ。

彼女の場合、「考え言葉」を操る能力にはめぐまれているが、話し言葉、書き言葉がそれに追いついてきてくれない。

「頭の中では何もかも、あんぱいよく出来上がっているのに、まだるっこしいったらありゃしない。

Aと言えぱ、言いたくもないBまで言ったと同じことになり、Cとは辻褄が合わなくなる… …。

んもう!ったくワーブロときたら」

と、いまいましげに舌打ちし、「ワープロのせいじゃないでしょうが」と言わないでいる私に、「言わなくても聞こえたわよ」という一瞥をくれて、彼女は保健室に消えた。

運命にどう手を貸すか

88年10月 「かばん」 高柳蕗子


『鶴の恩返し』はつくづく嫌な話だ。

鶴といい男といい、協力して問題を解決する努力をしないからだ。

特に鶴は許しがたい。身を細らせて織物を作るだけで、根本的に解決をはかろうとしない。

結婚生活は共有のものだから、その幸福に迫る危機について、男は知る権利がある。鶴は、協力して問題を解決するために、自分が鶴であることや、機織りが鶴の身を削っての行為だということを男に告げる義務がある。

だのに鶴は、ひとりよがりで愚かな自己犠牲と秘密主義で、結果的に男を追い詰めた。嫌な奴じゃないか、え!

さて、そんなことを思っていたころの会社の昼休み。いつものように同僚と無駄話。

「家の近所の、ハワイに新婚旅行に行ってきた人のことですが、旅行先で問違いでもあったのか、

ハネムーンベビーが肌の黒い子供だったんです。あけてびっくり、すぐ離婚されちゃいました。

そんなことになったらやっぱリ離婚するっきゃないですよね。一生頭があがんないですもん。

このごろの若い人ってわかんないですねえ」

と、自分だってけっこう若いNさんが言った。

「そうねー、そんなんじゃ、もうお互い幸福になれっこないわ。離婚よ離婚」

とは離婚の経験を持つYさん。

この場の意見は、「こんな大それたことが発覚し、忘れがたい証拠まで残るゆえに、この二人にとって離婚以外の道は無い」というところに落ち着きそうであった。もちろん私がいなけれぱ。

「だけど原因はたぶん事故でしょう。まあ、たとえ不倫の結果だとしても、この奥さんはこの夫を選んだのよね。

だとしたら問題は『愚かさ』でしかない。

生まれてくる子が夫の子供でない可能性があり、しかも外見上もそれとわかる子供かもしれないのに、夫に打ち明けるとか中絶するとか、自分なりにこの状況を少しでも善くする努力をしないで、十ヶ月間も爆弾をかかえてぼんやりしていた事。

でもさ、人の愚かさはお互い様なんだから、許しがたいときこそ許し合う工夫や機転が欲しいなあ、この話」

「でもオ、事情をあらかじめ打ち明けたにしても、やっぱりまずいですよこれば」とNさん。

「そうよ、騙したのは悪意じゃないとしても、夫がおこるのは当たり前よオ、頭くるわよオ』とYさん。

(くそ、劣勢は望むところだぃ。)

「だけど、ここぞとばかリ離婚しなくてもいいんじゃない。こんなことでいちいち。

怒りは当然だけど、当然のように怒って離婚したんじゃ、せっかくの珍しい体験がもったいないじゃない。

どんなときもハッピーエンドの可能性を捨てちゃいけないな。『お、いい役がきたゾ』って頑張らなきゃ。」と私。

「現実は映画じゃないんですよォ」とNさん。

「だからこそ頑張るのよ。この夫はこれじゃあ愚かさの点で妻と五十歩百歩だわ。

悪いのは妻、被害者は何も知らなかった夫の自分、哀れな罪のない赤ん坊、このつまらない筋書きはなにさ、アンポンタン。

こっちが手を貸さないのに運命がニコニコするわけないじゃないさー。」と私。

「私に怒らないで下さいよ。じゃあ、どんなふうに手を貸すんですか」とNさん。

「そ、そうだなあ、ううーん」と困ったところへ、おなじみの、へんてこりんな保健婦さんがぶらりと顔を出した。

よっしゃー、この人なら分かってくれそうだ。

「ちょっとちょっと、聞いて。ハワイに新婚旅行に行った人に肌の黒いベビイができて離婚したんだって、ね、ね、どう思う?」

と聞いてみた。はたして・・・・。

「ぎゃっはははは、ハワイで胎児まで日に焼けたんじゃないの、ぎゃっははは、うっそー」

うわっ、おぬし、やっぱりただものでないな。

※人のことは言えない。私はこれを書いたずっとあとに離婚した。

何が問題なのかさっぱりわからないままに壊れた。どうしようもなく変な残骸を見た。

電車でエッセイ 530

90年10月 「かばん」


生後6カ月の子供を保育園に預けながら、通勤に1時間以上かかる職場に勤めている。

とにかく時間が無い。一日じゅう眠い。労基法に定められた育児時問を取れるので、通勤電車がいくらかすいていることだけが救いだ。

じゃまされずに集中して何かを考えられるのは電車の中だけである。ちょうどいいので、エッセイを練る時問にした。


私は語呂あわせが好きだ。キャッシュカードを作った頃、ひどく自分を悪人と思いたがっていたために、「殺し屋」(5648) という暗証番号にしてしまったを使った時期がある。もしもこれで夫のカードが「お人好し」(0144)、子どものカードが「みなしご」(3745 )だったりすれば、暗証番号だけでなにやらドラマっぽくて面白いなとか、そんなことを考えるだけでも通勤時間は楽しく過ごせる。


だが、語呂合わせは、往々にしてやりすぎてしまう。試験勉強に語呂合わせはある程度有効だが、語呂あわせが好きだと、暗記するという目的を忘れて、どうでもいいことまで語呂合わせにしたり、必ずしも覚えやすくない不出来な語呂合わせを作って満足したりする。

世の中には、語呂合わせにやぼったいイメージを持つ人もけっこういる。おそらくは、そういう無駄な語呂あわせを見て、くだらないと思ってしまったのだろう。だから語呂合わせ好きは、知的なシャレになるように心がけなければいけない。


さて、戸田市には市民が道路のお掃除をする「530の日」が年4回ある。これは「ゴミゼロの日」と読むのだ。戸田公園の駅のゴミ入れにも「530」と書いてあって、「530」という数字が、掃除や美化の合言葉のようになっているらしい。


語呂合わせが好きな私でも、これは納得できない。五月三〇日に掃除するのならわかるが、そうではないのだ。それじゃあ「530」と数字でシャレる意味が無いではないか。ゴミ入れに「530」と書くのも変だ。これが「5310」ならゴミイレと読めるけれど、どのみち意味のあるシャレになっていない。こんな中途半端はやめてくれ。毎日「530」を目にしてそう考えるのが日課になっている。


そういえば「虫歯予防デー」の6月4日も変だ。どう考えてもあれは「虫の日」ではないか。

いろいろな日がもっと無理なく語呂合わせできるのであって、例えば今日はハムの日(8月6日) だし、カレンダーをにらんでちょっと考えただけでも、異父の日、意味の日、医師の日、囲碁の日、と、いろいろ出てくる。だから、無理な語呂合わせなんかしなくても、もっと自然楽しめるのだ。たとえば、鮒の日はあるがどじょうの日は無いとか、俳句の日はあっても短歌の日はないとか。


なお、無理な語呂合わせをするなら、うんと徹底的にやるという方法もある。


33732131+8037454(さざなみに膝ひたすわれはみなしごよ)

67514+80210454(ろくな恋しかやれじと酔いし)


※ 「夢幻航海」3号付録、歌仙戯「身をそらす虹の」より。左の句は、右の句を算術的処理して作ってある。かなりのものだ。



※付けたし1

土木の日は11月18日だそうだ。これは一ひねりあっていい。

10月10日が目の日であるのも○。

手袋の日は10月26日だそうだけれど、地域によるかもしれないが、うちのほう(埼玉)では、まだ手袋をするほど寒くない。


※付けたし2

●●の日というのが気に入ったので、「闇鍋」カレンダーというコーナーを作った。※

たとえば、1月4日は「医師の日」だから「医師」が出てくる短歌を集めて読もう、というような趣向のカレンダー。

※追記 闇鍋カレンダーは、一年分ぐらい作ったが、 その後も闇鍋データがどんどん増えて、いずれ作り直つもりで閉鎖。それきり。

電車でエッセイ アビヤボーン

90年11月 「かばん」 高柳蕗子


ゴロゴロドカーンとわめきながら雷が大勢やってくる。戸田公園駅についたころ追いつかれてしまいそうだ。

いつか中国の女子バレーボールの選手が、アタックの時に「ホイヤー」と叫ぶのを聞いた。オリャーだのドッコイショだの、かけ声もいろいろ集めたら面白そうだ。


魔法を使うときのかけ声、つまり呪文はどうだろう。たいてい長くてもっともらしく、何度も唱えたくなるような魅力的な言葉が多い。

アダブラカダブラ、ビビディバビディブー。

チチンブイブイはおならの擬音だそうだ。

魔法使いサリーはマハリクマハリタヤンバラヤン、悪魔くんはエロイムエッサイム、秘密のアッコちゃんはラミパスラミパスルルルルル。ナムカラタンノートラヤーヤーはお経か。カイグリカイグリトットノメは、はてな、赤ちゃんをあやす言葉だったか。


ふと思いだしたが、小さいころ母が「アビヤボーン」と言っては面白い顔をし、ただただ笑いころげたことがあった。あれは何だったのだろう。あっぶっふの変種だろうか。

あの頃はテケレッツのオッバッパだとか、ジンジロゲがスイスイとか、デタラメ言葉の歌がはやっていたようだ。メリーポピンズにも早口言葉のような歌があったっけ。民謡の囃子言葉にも、アリャリャンコリャリャンだのアラエッサッサーだのがある。


列挙すればきりがない。あと一駅だからなんとか結びにかかろう。

呪文やデタラメ言葉は、広い言葉の領域の片隅で一定の役割を担っているのである。ちゃんと需要があり、古いのがすたれると新しいのが作られ、と言った具合いに。

だとすれば、… … むふふふ。

到着だ。案の定、ザアザア降りのゴロビカドンだ。だから、こんなことを眩いたとしても誰にも聞こえないだろう。

ずぬばびょんぬるにらむゆんろびりばるぺもげめぎれッチョほげれみんみん

こういうのを十ばかり作って、「短歌だぞ」といぱって「かばん」に出してみようかしら。

ただし、短歌の依頼は今すべてお断りしてます。断わりそびれたら「ほげれみんみん」しちゃいますからね。



※これをアップする2005年9月、「のまのま」という歌がはやっている。

こちらに民謡の囃子言葉を集めました。

けろり

● 特集● 『回文兄弟』作者の言葉 90年6月 「かばん」 高柳蕗子


歌集を出してしまうと、なんだか気が済んでしまって、もう何も書くことが残っていないのではないか、などと思ったりする。しかし私は、どんなにそのとき固く決心したことでも、「けろり」と気が変わってしまうので、自分のことは信じないことにしている。


それに私は「けろり」の瞬問が好きで、無意識にその機会を逃さぬようにしているようでもある。


子供を産んで三カ月育てたあたりでネをあげ、「まいった、もう二度とこんな似合わないことはしないぞ」と心に誓ったのは九年前のことだ。この誓いだけはどうやら守れそうだったが、やっぱり私は私、例の「けろり」の瞬間が訪れた。

それは西遊記を子どもに読んでやっていたときだった。三蔵法師と八戒が、変な川の水を呑んで妊娠してしまう。孫悟空は胎児をおろす薬を手に入れるために大活躍し、二人を苦しみから救う。メデタシメデタシ。

… …?

このとき九才の息子が言った「どうして産まないのかな。仲間が増えるじゃない」

この言葉が、なぜ、そしてどんなふうに作用したかを説明するのは難しい。このあとわが家には仲間が増えたのだ。

ファミコンゲーム風に言えば、この仲間はまだレベル1で、武器は泣き声、魔法は笑顔といったところだが、楽しい道連れだ。


さて、今度の歌集も前の歌集も、出版するからには、まあ面白い作品を含んでいる、という自信はあった。しかし、私自身と読んだ人とを「けろり」とさせるほどのものがあったかどうか。

にやり、すっきり、うっとり、しんみり、がっかり、げんなり、といろいろあるなかで、「けろり」は珍しい部類に入るのではないか。忘れた頃に読みなおしてみようと思う。


ところで、相撲の決まり手はたくさんあるらしいが、たいてい「寄り切り」とか「うっちゃり」とか、よく知られた十数種類の決まり手のどれかで決着する。出産間近の頃、衛星放送で昼問から毎日見ていたら、「はりま投げ」というのが一度だけあった。小柄な幕下の力士だった。この人をひいきにしようとそのとき思ったのに、産後のごたごたにまぎれて誰だかころりと忘れてしまった。

「ころり」は役にたたない。

電車で読む『シンジケート』

● 特集● 『シンジケート』に寄せて 90年12月 「かばん」 高柳蕗子


電車で面白い本を読むと唇が荒れる。なぜなら、ついつい漏れる笑いを、かみ殺したり嘗め消したりするからだ。

笑いの封じ方にもいろいろある。だいぶ前の「かばん」の歌会の時の事だ。何かが視野の隅で小刻みに揺れている。そろっと盗み見たら、それは穂村弘が、顔面をまったく動かさず背中だけを震わせるというコオロギめいたやりかたで、こっそり笑っているのであった。

今日私の唇をだいなしにしたのは(と言えるほどの唇ではないが)、この穂村弘の歌集『シンジケート』である。

比喩が並じゃない。空の色ひとつとっても、糊、葡萄の肉、一円硬貨、杏仁豆腐と、微妙に色彩感覚を刺激してくれる。朝や星も多く出てくるが、仕上げについ使う癖になっているかのような安易な書き方ではない。それに、あの手この手とせまり方も多様で、その意味でも読んでいて飽きない歌集である。これだけでこの本は、広範囲な読者に受け入れられることだろう。


しかし私を喜ばせたのはそのためばかりではない。


百億のメタルのバニーいっせいに微笑む夜をひとりの遷都

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい


たったひとりで遷都するような心細い王様でも、王様の短歌は安心して読める。これが、何十億分の一の権利と責任と愛を、日々多い少ないと計りにかけて暮らす平民の感覚で「だるいせつないこわいさみしい」と言われたのだっだら、助けてあげられない無力感の処理に困って今ごろは、私だって疲れてるんですからと、居眠りしていたことだろう。

王様と平民という対比はまずかったかもしれないが、不特定多数の人がお金を出して読む本の著者には、読者の数だけ権利と責任と愛を期待するという意味で、彼は王様だと思う。

さて、下手な批評は作品をつまらなくする。私が何をにやにやしたか、それを書いてこの文章は終わりにしよう。

まず、王様というより、「星の王子さま」が少し大人になったような感じの主人公(以後王子)が魅力的。だがそれ以上に、あのわがままな花がついに人間の姿を獲得したかのような少女の、人間の言葉の効果を試すみたいな話しっぷりが面白くて、にやり。

二人は概ねうまくいっているけれども、彼女は五時間も泣いてみせたり、「芸をしない熊にもあげる」と角砂糖で王子をからかったりすることもある。「こんなに途方に暮れてよいものだろうか」と当惑し、「傷つくことも愚かさのうち」などと思ったりする王子に、にやにやにや。

この他、野良犬を乗せた観覧車、「あなたがたの心はとても邪悪です」と言う牧師、眠れぬ夜に洗うオレンジのブルドーザー等々で、うふふふ。

しかもこれらのものは、穂村王子が、そこにあれと念じたときにだけ出現する感じだ。王子は、歯を磨きながら死にたいほどすてきに孤独である。

「嘘つきはどらえもんのはじまり」か。なるほど、どらえもんの超便利道具のなかには、有名な「どこでもドア」をはじめ、手軽に別世界に出入りするためのものが多い。にたにたにた。


埼京線の電車は荒川を越えた。家が近づいたせいだろうか。私は意地悪く考える。王子は彼女に、「子供よりシンジケートをつくろう」と提案し、ホールドアッブの練習はしたものの、以後シンジケートはそれらしい活動をしていない。これでは早晩、「やっばりシンジケートより子供を作りたいわ」と言い出すに決まっている。彼は震度三ぐらいで笑ってその事態を受け入れるのか、それともうまいセリフで危機をかわすのか。

にたらにたらにたらくすくす… …、おっとっと。口を拭って、ポケットの定期とついでに保育料の袋を確認し、開いたドアから私はもとの世界に還る。いつか便利な「象のうんこ」を借りにまた来よう。では。

電車でエッセイ へねんでもへたて

91年2月 「かばん」


へねんでもへたてへられるし、へてもへたてへられるし、へたして、へてへたてへられるほがい。


今日、青森出身の人にこれを教わった。青森には「する」と「言う」のどちらにも使える、「へる」という言葉があって、極端な場合、右記のようなことになる。

訳すと、「しなくてもしたと言われるし、してもしたと言われるし、だったら、してしたと言われた方がいい」となるのだという。


よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見

行きかかる来かかる足に水かかる足軽いかるおかるこわかる

月々に月みる月は多けれど月みる月はこの月の月

のようなものだ。


誰でも、このような、同じ音を繰リ返し使うややこしい言い回しの面白さを、家族や友達と分かち合たことがあるはずだ。例えば早口言葉である。


・スモモも桃ももう熟れた。ママの見舞にうまい桃の実もう三つ

・坊主が屏風に上手に坊主の絵をかいた

・隣の竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けたのだ


また、早口言葉でも何でもないが『そーだ村の村長さんがソーダ飲んで死んだそうだ。葬式饅頭小さいそうだ』というのも、多くの人の言葉のがらくた箱に、今なお転がっているのではないだろうか。


さて、「電車でエッセイ』はこれで三回目となる。

意図した訳ではないが、過去二回で、『人は言葉遊びが好きで、その面白さは言葉の数ある機能のうちの一つなのだ』という方向に話が進み、これも意図した訳ではないが、それぞれの言葉遊びを使った「作品」を例示してしまった。

次もそうしますと約束はできないが、今回も、この領域(同じ音を繰り返し使うややこしい言い回し)に私のフラッグを立てておこう、というわけで試作品が出来た。


ヘベれけで蛇使いがゆき蛇がゆきへぼ詩人の屁で暮れるヘブライ


ううむ、しかし、これはぜんぜんややこしくないし、高柳印のフラッグとしては内容が平凡。第一、ヘブライに蛇使いなんかがいたのだろうか。そこでルールから「ややこしい」を削除。「なるべく同じ音を使う」ぐらいに緩めてもう一つ。


穴一つあけて阿呆があの世へとあらんかぎりの悪態をつく


むむ、これはけっこう気に入っちゃった。十分で出来ちゃったのも新記録。電車で考えるにはもってこいの遊びだ。


※このエッセーから「あいうえおごっこ」が始まった。

電車でエッセイ すかんなはきくま

91年3月 「かばん」 高柳蕗子

言葉遊びの本はいっぱい出ていて、目にすると買って集めていた。でも、必ずしも全部読んでいるわけではなく、「電車でエッセイ」を書きはじめてから、押入れの段ボール箱を整理して、関係書物を引っぱりだした。(いや、出てくるわ出てくるわ)


ざっと目を通して見て惑じたのは、人から和歌などもらったら、かけ言葉だの折句だの物の名だの、よくよく注意して見落とさぬようにしなければならなかった時代がかなり長くあったということだ。

例えば吉田兼好は、「米たまえ、銭もほし」と読める沓冠※をやっている。その歌をもらった頓阿も、沓冠で「米はなし、銭すこし」と読める歌で返事をしている。

※沓冠(くつこうぶり)は和歌の言葉遊びで、各句の上下をつなげて読むと何か意味のある言葉になるもの。上だけのものは「折句」。


もし頓阿が不注意で、沓冠でなくただの折句だと思って米のことだけしか気付かずにいたら、「銭すこし」というやさしい申し出はしなかっただろう。と思いたくなるが、おそらく、そんな心配などは無用のことで、この時代の言葉の使い手は、そういうものを見落とさぬようチェックすることがごく当たり前だったにちがいない。


その後も、回文だの物の名だのにいどんだ歌人や俳譜師がたくさんいる。いつでも何かもじって面白いことが言えるように、日頃から準備していた人が多かったみたいだ。

いろは歌などは、その何かの時のために、さかさ読みに至るまで研究され尽くしていたようだ。

例えば、革草履を履いていて足のケガで出血したときは「革緒に塗る血」とすかさず言って大うけしたという話がある。これは「ちりぬるをわか」のさかさをもじっているのだそうだ。


さて今日私は、昔の俳譜師なら放っておかないだろうと思うものを見つけた。

「すかんな、はきくま」だ。

ああアレね、と、わかる人が結構いるはずだがどうだろう。

コンビュータやワーブロのキーボードの中ほどに配列された、なんとなく目に入るカナである、私だけかと思ったら、職場でワーブロを一本指で打っている中高年組が「すかんな、はきくま」と眩いているのを小耳にはさんだ。


ぬふあうえおやゆよわほへ

たていすかんなにらせ

ちとしはきくまのりれけむ

つさそひこみもねるめろ


これがキーボードのカナ配列だ。そのつもりで読むと、二行目三行目が何か意味あるようなないようなで面白い。

「立て、椅子カンナ、韮」とも「立てい、好かんな、韮」ともつかぬ二行目。

破棄、吐き、覇気、履き、掃き、熊、隈、海苔、糊、乗リ、が曖昧に混ざり合い、「くまのり」が名前みたいな感じでユーモラスな三行目。

斜めの「ぬたちつふてとし、あいしそ、うすはひ、えかきこ、おんくみ… …」も、即興で呪文でも言わねばならなくなったら(滅多になかろうが) 役に立ちそうだ。


この配列はJ I S 規格だからやたらに変更されないだろうし、デスクワークの職種の人のほとんどが、ワープロくらいは嫌でもさわる時代だ。例えば「コンピュータのキーボードに乗って壊したのは、象、カバ、熊のうち誰でしょう」「はい、答は熊です。くまのりだから」みたいなナゾナゾがこれから出てくるのではないだろうか。


パソコンに親しみをもてない人も、言葉遊びに限って言えばこの程度の知識でもう大丈夫。あれだなニヤリとできる。

さて、言葉遊びをみつけて自作歌を、というかたちで書き続けてきたこのエッセイ、期待して読んでいる人がいたら申し訳ないが、私は俳諧師には向いていないようだ。「はきくますかんな」を使った高柳調短歌はとうとうできなかった。 折句の方も気にかけてはいるが、まだ発表できる段階ではない。


キーボードはあらゆる年代が目にする。つい昨日、うちの四年生の子のいたずら書きのなかに「スカンナ号」という船を発見した。なんという偶然。タイミングの良さ。 船酔いの熊が吐いているかもしれない。

ハーレム

※95年3月「かばん」に発表したものをUPにあたって手直ししました。

<回想1> 何かのまちがい

「手伝いはいらないよ」、

祖母は、白内障で足元が危なっかしいのに、お風呂には一人で入ると言い張った。頑としたその様は、まるで「おつう」である。

「だってガキみたいなんだよ」

「ガキ? 」

「餓鬼道に落ちると言ってね、悪いことをすると死後にとてもあさましい姿のものになるんだよ。今のあたしは、昔見た餓鬼の絵にそっくりだ」

「だって何も悪いことはしなかったんでしょう」

すると祖母は吹き出して言った。

「これは何かのまちがいじゃないかねえ」

祖母は隠れたつもりでも、私はいつのまにか見てしまっていた。背骨は老人性ナントカ病で曲がっているし、手足はがりがりに痩せてお腹だけが膨らんで、たしかに 餓鬼のように醜かった。


●はかどらない本の処分

こんど家のリフォームをする関係で、本を半分ぐらい捨てねばならなくなった。だが、そのより分けはさっばりはかどらない。つい本をめくってしまうからだ。

……パラパラパラ、あら、これは餓鬼じゃないの。餓鬼といえばーで、右のエピソ!ドをワープロに打ち込む、という調子だからである。

…… パラパラパラ、なになに、雄略天皇は赤猪子という娘に、「妻にするから嫁すな」と言ったきり、老婆になった赤猪子が名乗り出るまで忘れていただって! そうだ。あのときおばあちゃんは、それまでの人生全部を「何かの間違い」と言いたかったにちがいないのだ。なぜなら… … 。


<回想2> まちがった現実

「わあ、これが女学校のときの写真? で、どっちがおばあちゃんなの?」

昔の束ね髪に袴姿の二人の娘。一人はすらっとして目元すずしい美人、もう一人はむすっとして目をすがめた娘である。かわいそうに、私のおばあちゃんはそのむすっとした方であった。

「あのころからひどい近眼だし、写真を撮るんで緊張してたんだよ」

祖母の語る人生は、すべてがそんな調子だった。近眼でなかったら目をすがめたりしなかっただろう。おじいちゃんなんかと結婚しなかったら、もっと幸せだったろう。つまり祖母は、赤猪子ばりの「まちがった現実」を生きてしまったと思いたがっていたのだ。


●手に入れた以上なるべく愛し続けねば

気にくわない現実なんかより、失われた「可能性」の方を大切にしたい気持ちはわかる。私だって長い間、「自分はいつかもっとキレイになる」と心のどこかで信じ続けて来た。「もうそんなことは起こらない」とわかったのは最近であり、それまではいつも「まだキレイでない」理由があったのだ。まだ子供だからだ、制服がださいからだ、にきびがあるからだ、美容師さんが下手だからだ。子供に手がかかるからだ、寝不足だからだ、なんだかんだと。今はこれを「もう年だから」という嘘にすりかえつつある。


かつては、あらゆる可能性が自分のものだった。もしかしたら手に入れるかもしれないものを全部、自分のものだと思いこんでいた。ところが、いつのまにか可能性は狭まってくる。本当に手に入るのはわずかで、それもパッとしないものだけだったりする。

だが、そんなものだって、手に入れた以上は大切にする義務がある。この現実を馬鹿にせずに受けいれ、ちゃんと管理し、手入れを怠らず、なるべく愛し続けなければいけないのだ。でなければ、手に入れたものに対して失礼であり、自分がかわいそうであり、それすら持たない人に申し訳ないじゃないか、おばあちゃん。


●愛し忘れたもののハーレム

しかし、今の私が直面しているのはその問題ではない。多くの可能性が失せて手に残る「成果」の方はわずかだが、見回してみれば、ただなんとなく「手に入れ」ちゃったものの多いこと。本を買うのは簡単だが、読むには根気と理解力が要る。手に入れたはいいが、そのあとがいけない。買った、貰った、拾った、ねだった、せしめた、ねこばばした、ぶんどった、盗んだ、誘惑した、結婚した、生まれた、増えた、たまった、積もった、忘れた、黄ばんだ、徴びた…… 。

私が何かを手に入れたとき、それらは他の可能性を捨てて私のものになったのだ。だのに、これはまるで、雄略天皇に負けず劣らずのハーレムではないか。


●いのり

この数日、私のために「まちがった現実」に囚われた気の毒なものたちを、身勝手にも「処分」し続けている。愛し忘れたもの、愛しそこねたもの、愛し終わったものたちを。

「神様。これからは、手に入れたものを大切にし、なるべく愛し続けます。ですから、無責任のバチは、事前に、こまめに、その場その場で当てるようご協力下さい。つまり、手に負えないものを手にした瞬間に、腹痛とか頭痛とか。すぐに手を引っ込めますから。」