行き止まりの信号

富澤赤黄男

生誕100周年特集に寄せて

行き止まりの信号

2003・9「未定」富澤赤黄男西端100周年特集

※画面で読みやすいように、適宜空白行を入れました。

高柳 蕗子

富澤赤黄男と聞いて、最近読んだ本の一節を思い出した。

「少年たちは巡洋艦の乗組員にめでたく救出された。さてしかし、誰がその乗組員を救出するのか」

これは、ウィリアム・ゴールディングの小説『蝿の王』(無人島に漂着した少年たちが『十五少年漂流記』のようにうまくゆかず殺し合いになってしまう)についての記述だ。(スティーブン・キングの『アトランティスのこころ』にあった『蝿の王』に関する記述。)

※(注)これがどう富澤赤黄男に繋がるのか、自分でもすぐにはわからない。頭は常にノンストップで何やら考え続けるものであり、私はそれを観察するだけだ。赤黄男について何か書こうと思ったのは私だが、それを受けて即座に右の記述を思い浮かべたのは、私ではなく頭である。

だが、頭も私も、富澤赤黄男についてろくに知らない。自慢できるのは、句との出会いが早かったことぐらいだろう。父は高柳重信という俳人で、事情があって別に住んでいた。小四のとき父を訪ねて行き、その家のいたるところにかかっている、遺影のような色紙が気に入った。それからは訪ねるごとに、家族全員に挨拶する感覚で、家中の色紙たちを見て回った。

《どういう意味だと思う?》

死者のように止まった時間に属す彼らは、決してせかさず、静かな強い存在感で、毎回私が解釈を形成するのを待っている。こういうとき私は、自分が珍しく頭といっしょに考えている気がした。コレガ、考エルトイウコトナンダ……。

その色紙たちの中に、赤黄男という、青のない信号みたいな名前のついた句があった。私はこの句と仲良くなった。

流木よ せめて南をむいて流れよ

その後はあまり縁がなかったが、今回はいい機会なので、大人になった頭といっしょに、再度考えてみようと思う。

●詠嘆の回避

赤黄男の句は、ものすごく明瞭である。それはときにわかりにくいほどの明瞭さだ。「わかりにくいほどの明瞭さ」とは何か? 私たちが「わかりやすい」と感じる要素、つまり叙述内容を理解するために無意識に参考にしている慣用的要素が取り除いてある、という意味だ。根源的なことだけ相手にしたい、という意志の表れが、言葉を荘厳にしてもいるようだ。その意志の表れを少し詳しく見てみよう。

次の句はとても明瞭である。だがわかりやすいだろうか。

ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる

「わかりやすさ」を助ける要素の一般的なもののひとつに、「世の中そういうもんよ」という諦めの詠嘆がある。この句においても、そういう解釈が成り立たないわけではない。

しかし、この句は詠嘆にしてはずいぶん明瞭だ。船は絶対に蟹を気にするはずがない。ただそこを通っただけでその蟹とは縁がないものだ。蟹がどういう気持ちで手をあげたにしろ、その意思表示はあまりにも「絶対的にかひのないこと」である。明示された「絶対」が句の眼目であろう。

そして、この「絶対さ」の度合いが、詠嘆との区別の決め手になるのだ。「世の中、何事につけてかひのないものよ」という日常次元の詠嘆は、こんなに絶対的ではない。日々の出来事のほとんどは解決の余地があり、解決する元気や能力が人に足りないのだ。また、個々には解決不能でも、歴史的な時間をかければ解決することもある。日常次元の「かひのなさ」は、決して「かひがない」と言い切れないことがむしろ辛くて、毎日貼り替えて痛みを和らげるシップのごとく、「かひのないものよ」という繰言が必要になるのである。

赤黄男が書いているのは、こういうものと一線を画すべき「絶対的なかひのなさ」だ。そのため、句をものすごく明瞭な構図にすることで、この構図こそがテーマであると主張しているのだ。ちっちゃい蟹と大きな船との絶対的隔絶。そのうえ、この背景には、広大な海が、彼らにまったく感知せずにある。さらにその海も、果てない天の下の孤立した水ではないか。言葉で語らなくても情景としては、蟹・船・海・空を目に浮かばせる。この「かひのない」隔絶が、それも階層になっている構図が、それ以外の要素抜きで提示されているために、私やあなたの日々の愚痴でなく、人知を超えた「絶対的にかひのない」、根源的なものへの言及だぞという荘厳さが加わっているのである。

これでやっと、この文章の冒頭に書いたことと繋がる。

「無人島に漂着し、絶望的状況に閉じ込められた少年たちは、幸運にも、通りかかった巡洋艦の乗組員に救出され、もとの広い世界に復帰した。めでたしめでたし。さてしかし、その乗組員たちは、つまり、この世界に漂着して閉じ込められている私たちは、誰かに救出され得るか。」

同じ手を振るにしても、救出されうるものと、決して救出されない、絶対的にかひのないSOSとがあるのだ。

そして、おもしろいことに、ひとたび「かひのなさ」が世界の摂理(しかも階層をなしている)だと受け止めた後ならば、先に切り捨てようとした詠嘆も許容できるようになる。人は体をはって生きるゆえの雑多な詠嘆にまみれているけれど、世界の摂理に体をはったこの句の観点に立つならば、どういう次元の「かひのなさ」も、世界の一部だと捉え直し得る。「冬天に牡丹のやうなひとの舌」を見ると、個々の人間が、雑多な「かひのなさ」を体現すべくこの世界にばらまかれたものであるかのような気さえしてくる。

●行き止まりの構図

もうひとつ、やはり構図が重要だと思われる句をあげる。

賑やかな骨牌の裏面のさみしい繪

この句でも、構図がとても明瞭だ。「賑やか」と「さみしい」という対比的要素が表裏一体となっていて、この把握が句の根幹をなしている。ここに言葉以上に、ひどく苦みのある皮肉があり、ここが行き止まりだと言っているような感じがかすかにあるのはなぜだろう。

なぜだろうと考えるのを阻むように、「この骨牌は、会社では明るくふるまっているけどホントはコドクなアタシのようだわ」などと、つまらぬ解釈が成立しかねない句である。人間には本音と建前が裏表に同居しているんだとか、幸不幸、善悪、悲喜のように相矛盾する両極のものは、しばしば馴れ合って同居しているものよだとか、この句から考える人がたくさんいるだろう。

こう心情的に解釈してしまうと、単なる思考放棄でしかない行き止まりの詠嘆だが、ここには真の行き止まりがだぶっている気がする。それはやはり、この構図の明瞭さのためである。雑事じゃないんだ、真の行き止まりなんだといわんばかりに、脱ぎ捨てて手を広げて見せているような言葉つきだからだ。

ものすごく話は飛ぶけれども、対立するものや異質なものの統合は、ときに新しく始まるめでたいエネルギーを孕むものだ。例えば、古来和歌の父と母とされてきた「なにわづ」と「あさかやま」という歌がある。(「難波津にさくやこの花冬ごもり今ははるべとさくやこの花」と「あさか山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは」)

前者は感じたまま見たまま素直に述べる歌、後者は序詞という和歌の技法で見たこともない光景を入れ、言葉の力で成立する歌だ。和歌はこういう一見矛盾する言葉の方法が父母となり、生きとし生けるものを歌人となして生殖しようとするものだ、と考えてみるのも一興だろう。極端に言えば、なべて原初的な異質なものが対峙するとき、それらを父母として何事かが生み出される創造的なめでたさというものがある。

例が長すぎたが、このような対峙の形を考えたとき、表裏一体は、二つの要素が対峙できない背中合わせの、絶対に相容れない究極の壁になっている状態だと思えてくる。読後ただちに感じたかすかな皮肉は、この絶対の壁だという感覚ではなかったか。

そうなんだと断言してしまうと、句の言葉からはみ出してしまう。が、先の蟹の句同様に、骨牌の表裏一体は、世界の摂理としての表裏一体という一種の行き止まりを提示し、その上で、行き止まりの壁を体現するすべてを包含する、というリアクションを可能にしている。これは世界を把握しなおす言説がしばしばやり忘れることである。

●異質な所属感

赤黄男の句の頻出語句のなかで、私が特に注目するもののひとつが「天」である。

俳句に限らず、「天」という語はしばしば、世界への所属感を背景にして使われる。天の下に暮らすものたちは、この自然環境に順応して進化してきた。天は下界を見守る父であり、母なる大地とともに恵みをもたらす。少々怖い両親だが、自分たちはその天という父の家に所属している、といった世界観を、多くの人が無意識に持つのは当然のことだ。

あわせて、天という語を使うと、天から見下ろす客観性も帯びるから、

いそがしや木の芽草の芽天が下 阿波野青畝

と言えば、その活気ある世界への所属感と客観性を同時に表せるし、悲惨な状況や絶望的な状況を詠もうとするときも、無意識に不変の天を詠み込みたくなる。たとえば、

子を殴ちしながき一瞬天の蝉 秋元不死男

という句の中で、「天」という語は、「これも天の下で起こる数々の出来事の一つだ」という所属感と客観性をひそかに呼び起こし、それが救いの要素になってはいないだろうか?

また、「天」という語は世の中すべて、あるいは全世界を表すこともある。だから、天を意識すると、自分一人と全世界が一体になったり対峙したりする感覚が呼び覚まされる。

芦刈の天を仰いで梳る 高野素十

秋天にわれがぐんぐんぐんぐんと 高浜虚子

倒れたる案山子の顔の上に天 西東三鬼

さて、赤黄男には、天を含む句がずいぶんあるが、右に書いたような天への一般的な所属感(旧来の摂理)にはのっとっていないようだ。登場するものたちは天に対して関心を持っていることが多いけれど、天の方はひどく無関心であるか、またはほとんど頼みにならないのだ。

天は紺 藁を掴んでわめくかな

(紺色の静かな天と人間の苛立ちをコントラストにしてある。炎天など過酷な天に対するいらだちとか、または逆に心を投影するような形をとっていない。)

炎天に蒼い氷河のある向日葵

(一般的には炎天と親子であるような向日葵が、親に理解されない思想かなにかのように「蒼い氷河」を抱いている。)

からたちの冬天蒼く亀裂せり

躓けば 枯木が天を叩きけり

寒雷や一匹の魚天を博ち

(下界のものが天に対して挑発的である。不変のものであるはずの天が亀裂してしまっているのは、「秋天や最も高き樹が愁ふ(木下夕爾)」のような句とはっきり違う。枯木が天を叩いたり、魚が天を博ったりと、下界のもの、ことに通常は空に届かぬ魚などが天を刺激する情景は、他の作者ではこれほど頻出しない。)

蒼天のキンキンと鳴る釘をうつ

(釘を打つと天にキンキンと響くことを、天に反応を起こさせている手ごたえのように書いている。)

つまり、ここには旧来の、「天地は父母で、自分たちはその父母にまあまあ愛され、こちらも父母を頼みにして所属している」というめでたき感覚とは違うものがある。赤黄男の描く天は、もしこれが父ならひどく無理解・無関心でありすぎる。この無理解・無関心と、先にあげた「絶対的なかひのなさ」「表裏一体という壁」といったものが、赤黄男にとって、世界そのものの手ごたえだったようだ。

●達観の回避

先に詠嘆の回避について書いたが、もうひとつ、「世の中そうしたものよ」という達観におわらない点も、赤黄男の大きな特徴である。再度脱線するが、剣術の極意をあらわすこんな道歌をご存知だろうか。

映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池 塚原卜伝

(月と水とはお互い映そうと思っているわけでなく、無心で向き合っている、という意味。無心無欲の心の技である剣の真髄を訓えた歌で、この無心の境地を「水月の位」という。)

これは、古来月と水の組み合わせで詠まれてきた歌(広沢の池に宿れる月影や昔をてらす鏡なるらむ 後鳥羽上皇など)をふまえ、卜伝が自分ならこう詠むぞとばかり、無心無欲の対峙のしかたを、月と池の明瞭な構図で示した歌だ。

方法としては赤黄男に似ている。しかし、道歌というものはどうしても、達観するような口調になる。同じく剣術の道歌「世は広し事は尽きせじさりとては我が知るばかりあると思ふな」は、「我が知るばかりでない」と言いながら、「わかっちゃったもんね」と言わんばかりに聞こえる。もっともこれは剣術だから、心の技といえども体得するものだとの了解があり、言葉は体験で補われることになっている。

達観とは、要するに大きな視点で客観することだ。個々の命の現場から離れる境地こそが魅力である。

誰彼もあらず一天自尊の秋 飯田蛇笏

富士秋天墓は小さく死は易し 中村草田男

しかし、赤黄男の俳句は、達観で終わるわけにはいかない。達観は世界の摂理の側に立っての傍観だ。赤黄男においては、詠嘆と達観は人間において表裏一体であり、真実はいつもその間にあるはずのものである。また、俳句は、剣術の道歌のように、読者があとから体得するというプロセスは期待できない。句の言葉の中で真実は実現されなければならない。

●青という果てなき時空

しかし私が一番気になるのは、「赤黄男」という名前だ。赤黄男の句には青が頻出するが、先に述べた天と繋がりがあり、しかも三原色のひとつである青が欠落しているなんて。

短歌も俳句も、古典の時代の「青」の用例は、主に植物の若さ元気さ瑞々しさ未熟さを表していた。青が空や海の色として普通に使われだしたのは現代になってからである。最近読んだ一文によると、古典詩歌の中では空は青いと認識されていなかったそうだ。一茶の「青空に指で字を書く秋の暮」は珍しい用例である。牧水の「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」という歌もその意味で当時は新鮮だったろう。(赤黄男の「鶴渡る大地の阿呆 日の阿呆」はこの歌とタメを張っているとしか思えない。)

青という語は、空や海の色となってから、果てしなさや永遠、生死を超越した時空といったイメージを帯びて使われるようになった。たとえば「青い時間」というフレーズをどこかで見たことがあると感じる程度に、時間は「青」のイメージ範囲に加わった。青山(人間いたるところ青山あり)という語があるので、「死」はもともと青と密接だったが、「なつかしや未生以前の青嵐(寺田寅彦)」など未生の時も青のイメージ範囲に定着している。

「青」が変貌して、超越的な時空のイメージを獲得してきた時期に、赤黄男は青抜きの名を名乗り、たくさんの青の句を書いたのである。それは、生物が命として継承するこまぎれな時空とは異質なものだった。

青蚊帳に錨のごとくわれはねむる

蛾の青さわたしは睡らねばならぬ

「青蚊帳」では、自分を青い海に沈む異物のように捉えている。「天の青 わたしがつくるひとつの汚点」も似ている句だ。「蛾」の句では、青いものに対して自分は眠るものだと対比的に書いてある。「このをとこ海の蒼さをみて痩せる」などなど、赤黄男の青は、眠らぬ永遠の色であって、寝ては起き生きては死ぬ生身の者にとっては、つきあいきれない色なのだ。「蒼海が蒼海がまはるではないか」と青に翻弄されつつ、自身が青いものであることはない。

しかし、青いものには「秋風のまんなかにある蒼い弾痕」「焚き火してあるとき蒼き海となる」のように、思いがけず遭遇することがある。「南国のこの早熟な青貝よ」「膝の上に真青な魚がおちてゐる」というふうに、手に取ることができる青もある。その上で、実に慎重にこう書いている。

炎天に蒼い氷河のある向日葵

「ある」は微妙な言い回しだ。親である炎天に理解されることはなかろうが、この向日葵はどうやったのか「蒼い氷河のある」状態を実現している。

恐る恐る言うのだが、赤黄男が理想とした俳句は、この名の欠落を補った「赤黄青」ではないだろうか?

●まとめ

赤黄男は、従来の世界観をはなれて、隔絶によるかひのなさ、事象の中にある表裏一体という壁、天の無関心、命を超越した青い時空の感覚を摂理として世界を捉えなおし、俳句においても新しい摂理の反映をはかった。たとえば、生身の人間において詠嘆と達観という二種類の現象が骨牌のごとく表裏一体であるように、表現でも表裏一体の姿を実現しようとした。これは、俳句の姿、言葉と人間の関係を、新しく、というより、より真実に近づけて実現することだったと思う。

こまぎれの命の時間と青く果てない世界の時空とは、人間などの事象のあらゆる場で、隔絶しつつ接している。その様相に驚きながらも、青い時空に対して、見ることができる、手にすることはできる、抱くことはできる、というふうにアプローチしてゆく希求のこの慎重さ。それこそが、私にとって赤黄男の魅力の中心なのである。