仮想世界のカケラ

仮想世界のカケラ

「短歌朝日」 2000年9・10月号

高柳 蕗子


「うん、うん、えっ。うーん。わかった。カネはもうバーチャルな世界で動き回ってんだから、よろしくな」

と喫茶店の隣のテーブルの五十ぐらいの男性が携帯電話を切った。そして、別の話に戻って新聞を取り上げ、連れの人に、

「最近の子は現実と空想の区別がつかないのかね」と言った。

カネがバーチャル世界で動き回るという表現が日常場面で使われるほど、仮想現実という概念は広く浸透した。そんな時代に、現実と空想だなんて区分は、世相を論評する有効な切り口にはなるまいが、一人の人の中に類似の概念が未整理に併存しているようだ。

バーチャル・ナントカと言う場合は、仮想現実たちの活気に力点がある。「現実を見ろ」と言うときは、現実(実社会など)は絵空事じゃ済まないのだという気分だ。そのように便利に場面場面で語を使い分けている。個人の認識世界の中でそれらの類語を整理したり、他人とそれを調整するのは大変だから、相手や話題によって使い分けるだけにしているのかもしれない。

〈現実×空想〉という対比は〈真×偽〉に横すべりしやすく、現実を絶対の拠りどころとする。だが、カネのみならず人間も多重な仮想現実に属している。幼児期に感知する「オトナのウソの世界」を手はじめに、いろんな共有仮想現実への属し方を覚えて大人になるのだし、私たち一人一人が見聞をもとに構築して住んでいる個々の自前の認識世界という仮想現実が、人の数だけあるわけだ。一般にみんながロにする「現実」も、仮想現実のひとつである。そして、たったひとつ存在するであろう本当のナマの現実は、誰も全貌を思い描けない。ゆえにその中での自分の位置も属し方も、実はまるっきり定かでない。

短歌の評は評価をすることだと思っている人がたくさんいる。「いい歌」を作って褒めてもらいたいと、つまり、仮想現実に裏付けを求める人がいっぱいいるためだ。そうであるならば、その需要に応じる読解力が、歌の創造性に応じて評価の根拠を説明をする創造性が、切実に必要であるはずだ。なぜなら「いい歌」はおうおうにして、私たちの仮想現実のなまくらなあたりを刺激するからだ。ここは、不確かな本物の「現実」に対応すべく私たちが共有するだいじな仮想現実であり、それがなまくらでは困りますよとでもいうように。

ところで、ある歌に対して、Tが「今年読んだ歌のなかで一番いい」と言い、Sも「うん、ぞくぞくするほどいいなあ」と言ったとする。このとき、TとSははたして同じことを「良い」と言っているのだろうか。「良い」という評価結果だけ共有し、「良さ」は共有していない。(共有しなくていいなら評はいらない。読者はそれぞれに歌を味わい、評価を多数決で決めればよい。)

短歌から受けた印象はとても語りにくい。読解可能要素を抽出すると、「歌意」として整理されたものになる。多くの評は、歌意とその表現技術の手腕に対してなされてしまうが、歌意を見極めた時点で、まだ読んだ直後の印象を意識化しきれず、その残りの部分にこそ真価を感じることがある。これは必ずしも最近書かれた歌とは限らない。

父とわれ稀になごみて頒ち読む新聞のすみの海底地震 塚本邦雄

歌意は、「ひごろ緊張関係にある父とめずらしく緊張をゆるめて新聞を分けあって読んだら、その新聞に、心のこそばゆい痙攣を見透かすように、また、対立の源が水底深く活動しているというように、海底地震の記事があった」などと整理できる。

気になるのはこの歌意が、一般的な葛藤と喜怒哀楽の範囲内の概念であっさり甘受できてしまって、その点ではやけにコンパクトで「世間話ふう」なのだが、このとき想定される歌を囲む「世間」は、一般に「現実」と呼ばれる人間社会ではない感じがすることだ。

右記の歌意を表すにしては過剰な要素が歌の中にある。日常的行為とはいえ、新聞を頒けるとは世界を半分コするみたいだし、海底地震も個人の喜怒哀楽の喩としては大きい。この手のこんだ面白がり方は、その背景に、苦々しいいらだちに満ちる一つの孤立した認識世界の存在を感じさせずにはおかない。同等の世界たちが歌を囲んで、「父子(身近で時間差のある対等者)という複雑な出会い方をした二つの固有世界のホームドラマ」を面白がる、そんな歌の外側を想定しなければ、この歌のブラックユーモアは行き場がない。これは、歌の向こうに誰かの認識世界が、「私」と相いれる可能性なく存在している、という苦い確信を前提にして成立する世間、孤立した認識世界たちが構成員である、仮想世間なのである。

この歌においては、歌を仮想世間が取り囲むかと思わせる「過剰」があったが、ある微妙な不自然要素があって、いわゆる「現実」に準拠するという保証をそっとはずしつつ、「不完全だがほんの少し確かな仮想世界」から言葉が裏付けられている、という感じによって成立しようとする歌があることに、このごろ気づいた。

そのアプローチは、必ずしも共感を求めず、また、私たちが読み慣れて比較的見破りやすい類似性に拠る隠喩でなく、しばしば「カケラから全体を想起せずにいられぬ習性」をむずむずさせる、という説明しにくい方法でなされる。この方法は換喩か提喩にあるいは分類できるかもしれないが、少なくとも、換喩や提喩の説明でよく例示される、「(A)鳥居という部分で(B)神社という全体を示す」といった置き換えの喩ではない。(B)を示すことが目的でなく、(B)は背景世界として表現を保証しようとする。

人間は一を聞いて十を知るのでなく、否応なく十を知りそうになるのだ。歌によって引き起こされたその否応なさの体験に感じるリアリティ、その先の作者固有の仮想世界のおぼろげな気配というわずかな確かさが、全貌というもののない本物の現実に、瞬間的にまさってしまう。そういう手法なのである。

これは一例にすぎない。同じ現実に属すということがリアリティを保証しない中では、もはや「共感」は有効でない。へたな共感は、情操に悪いかもしれぬほど浅い感動をもたらす。多くの作者が無意識にも意識的にも、別種の表現方法を模索しているが、その模索の価値が不明確なまま鑑賞され、評に反映しない。カネがバーチャル世界を動き回るという多重的な仮想現実の情況を認識しつつ、唯一絶対の現実をみんなで共有できるとも信じていられる。そんな未整理をこそ「現実と空想の区別がない」状態と呼ばねばなるまい。

みるみる字数が尽きた。このようなこと、この他のことをもっともっと語りあうところから、新しい歌論は生まれると思う。