書評

岩片仁次 砂塵亭殘闕

サンタ保険・特約エンドレス

( 岩片仁次句集 『砂塵亭殘闕』に寄せた文章 1999年頃)

パパのおかげで、いろんな興味深い人と出会った。しかしそれは間接的な出会いだ。だから句集をいただくたびに少し緊張する。その人にとっての高柳重信がたまたま私のパパだったから句集を贈ってくださるのだ。だからみだりに、私の感想なんかを述べてはいけない。句集をくださる理由はただひとつ、私が冥界に「パパ、○○さんに句集もらったよ」と報告するのを期待しているのだ。子供はよその人に金品を戴いたら必ず親に報告しなくちゃいけない。

だが、困ったことに句集を読むのは私の目だし、私はもう四十五歳で、親にこまごまと報告するほど子供じゃない。だいいち、私の冥界ネット通信によれば、パパはあるとき女性蔑視的発言をして大学生のふーちゃんを泣かしちゃったという微罪により、ダイオウイカのメスに転生したのである。今は何百万の卵の世話でタコの手を借りるほど忙しいから、そっちのことはそっちでやってくれとのことだった。だからこそ私はパパを意識しないで文章や短歌を書くことができる。かくのごとく、冥界の人は、こちらの心の都合でイカようにもなる。イカはイカ、私は私だ。

「あのね、サンタクロースって本当はいないんだよ」

「へえ、そうなの」(ほほえみ)

肯定とも否定ともつかぬ奇妙なほほえみ。岩片さんの句集『砂塵亭殘闕』には、この奇妙なほほえみを感じさせるものがある。

人はいろんな税金や保険料を払う。なかでもサンタ保険は任意加入の特殊な保険だ。金銭でなく、ある種の実践によって保険料を納付する。普通は子供にサンタの存在をほのめかすという行為が保険料になるが、場合によっては、サンタがいようがいまいがその結論を先送りするということによっても保険料を払うことができる。「へえ、そうなの」(ほほえみ)は後者の実践である。保険料は掛け捨て方式で、お賽銭と思った方がいい。

大方の人は単に、クリスマスがあったほうがいいからサンタがいることにしているのだ。しかし、そういう嘘や方便を維持するためではなくて、空想の存続の方に意味を見いだす人もある。これは「特約エンドレス」という特殊契約である。サンタに限らず、結論をより深遠なものに委ね続け、現時点では決着させないという方式の安全策がある。以後この文中で使用する「特約エンドレス」という語は、そういう意味だと思ってほしい。保険だから何かのときに給付がおりるはずだが、いつどんな給付があるのかは定かでない。お楽しみプレゼントである。

岩片さんの句は内容の深刻さの割に安全だ。特約エンドレスをかけているな。そんな印象が全体にある。一般的に、言葉にならぬナマの世界の不確かな危険性に対して、言葉で意識化できたものはかなり安全化されている、と言えると思うが、岩片さんの句を読んでいて感じる安全性は、そういう次元のものではない。目につく意識化されている部分には一見怖い語を配してあっても、それは少なくともこの句によって意識化されて安全になったものではなさそうだ。すでに毒性が薄れワクチンに使えるかというぐらいの語を目立たせながら、こっそり特約エンドレスに持ち込むというワザをかけている気がするのである。

百物語

「各々 ソノ

志ヲ果スコトヲ得ズ」

と 百

百には百パーセントの百もあるけれども、この句は意外にも、一人残らず挫折した、とはついに言っていない。百という語は切りが良く、めでたく響いて深刻さを薄めるばかりか、わざわざ百と断るあたり、これはある百、あるグループだと解釈する抜け道を作るのだ。しかもこの百は、百人を一グループとして百グループあるとも見え、末広がりに階層化する気配もある。いずれ誰かが志を果たす、と言うほど楽観的ではない。志を果たそうとする者が後を断たないことで、志は果たされようとし続け、ゆえに絶望的だけれど絶望に行き着かない。そういう安全性である。志をみんな果たせなかったという事の深刻さは取るに足らぬものだ。実はその傍らで絶望を、果てしなく絶望的だがエンドレスな情況に書き替えようする、すごく慎重な希求に比べたら。

身投げびと

あと一人待つ

湖の晩年

この句もよく似ている。定数のはずのところにプラス一の余地というのは、未決定の余地を残す思考である。ここに「プラス一人は身投げしないかもしれない」などという希望は感じ取れない。希望で対抗する種類の絶望はここにはない。安全策によって喚起されるのは、回避されるべき危険な事態である。それは、身投げする人がいっぱいいることではなく、百人が身投げしたところで湖が死んで閉鎖されてしまうことである。「あと一人待つ」は、百を越えてあと一人だけのような口振りでありながら、実は定数を越えてルールにない延長戦に持ち込む言葉のトリックだ。その「あと一人」が来なければ決着はつかない。そ知らぬ顔で当面の情況をエンドレスな未決定状態にすりかえるという、微弱だがしぶとい抵抗なのである。

よわいかみさま

よわい

梯子を

ささえておくれ

神様がなんだかお手伝いの子供みたいだが、ささやかな仕事でも、それを司る神様がいるのなら、神の業に属すことになる。「よわいかみさま」とは、例えば言葉のトリックに宿る言霊のようなものかもしれない。「つよいかみさま」でなくあえて「よわいかみさま」を呼ぶのは、「よわい梯子」にふさわしいからだ。車にロケット燃料は使わないというか、過ぎたるは及ばざるがごとしというか、特約エンドレスの手法は力技ではなく、過不足なく微調整する技である。

いちまいを

掴みし

片手踊りかな

「片手踊り」という語には「よわいかみさま」が付いている。風を掴むというしぐさは、掴むという能動性もある反面、風にぶら下がるのだから不安定で、空中の片手の動きには微妙な制約がある。「片手踊り」とは、いかにもその片手の所作の印象を捉えましたという語である。そして、注目されないもう片方の手の様子もわかる。おそらく決して踊らないのだ。さも意志の通わぬ手のように、不必要な動きを(実は意志的に)止めて垂らされている、そういう踊りであるはずだ。つまり、両手に不自由感のある踊りでありながら、両手とも風を掴んだり垂らしたりするこちらの意志によって制御されてもいる。これは、不自由とも自由とも決着しない、特約エンドレス感覚の体感的主張を思わせる踊りなのである。

断年と書き

晩念と書く

少年隊の習字

断年と晩念、そして習字には修辞が掛かる。「いわかたじんじ」という名前からして、「医は仁術」という言葉に「言わない」とか「語らじ」が交ざったような感じである。「あおによし/くろによしとは/手風琴」「死火山が/呼ぶは/末期の/詩火山山脈」「虹と/蛇/空の誤植を/遺書とせん」などの同音意義語や語呂合わせ。岩片さんは、こういう言葉遊び的修辞によって、相棒の「よわいかみさま」と志を分かち合い、より一心同体となるのだ。

ところで、序に「老いつつ少年」とある「少年」へのこだわりが、私はいまひとつ腑に落ちない。少なくとも、言葉遊びへの執着=子供っぽい=少年というふうに結びつけるのは間違いだ。「かみさま」に年齢はない。言葉遊びは、子供がやれば子供っぽく、老人がやれば老人っぽくなる。

では、エンドレス志向が少年なのだろうか。あるいはそうかもしれない。私の知っている多くの老人は、エンドレスどころではないようだ。愚痴たらたらだったり、しきりに達観して見せたり、なかにはたちが悪くて、すけべじじいになっちゃう人もいる。(まだ老人ではない私にそう見えるだけで、誤解もあるかもしれないが、これから老人になる者として、私は決してすけべじじいの類いにだけはなるまいと思う。)そこへいくと少年は(少女も)苦もなく未決定でいられる。愚痴とも達観ともすけべとも縁がない。そういう状態を維持していますということを、「老いつつ少年」と言っているのだろうか。

普通の人ならそれでいい。だが岩片さんのことだ。「老いつつ少年」というのも言葉のあやで、本当は老人とも少年ともつかないものでありたいという大志を抱いているのかもしれない。

「特約エンドレス保険をかけたら死んでも死なないって本当?」

「へえ、そうなの」(ほほえみ)

(終)