栞文

入谷いずみ『海の人形』


論理的感性が倒すドミノ

2003・7 入谷いずみ歌集『海の人形』栞文

高柳蕗子

六月の薔薇園にきてスリッパを並べなおせること無限回

入谷いずみの歌はわかりやすくて深い。

たとえば右の歌、作者が教師であることは章の詞書で知らされており、生徒を引率して来た薔薇園で、奔放な生徒たちが脱ぎ散らかすスリッパを並べなおす、裏方のような苦労が歌われている、ということは、 見当がつく。

おもしろいのはそのあとだ。頭の中でドミノが倒れ続けるように、論理的感性によって歌が展開してゆく。スリッパを無限回並べなおすとは、まるで賽の河原ではないか。生徒と教師は、生者と死者のような強いコントラストで描かれている。が、歌はそこで止まらない。スリッパは生徒の命のエネルギーを具現しつつ、どこか花びらに似ている。薔薇を見る生徒と、その生徒の生命の飛沫のようなスリッパを見る教師という階層性があって、歌を対立的図式で終わらせないのだ。

ところで、この歌集には、二つの文章が柱のように挿入されている。ひとつは「蛇苺」の章の、父から「女の子は鏡を見るんでのうて、本を見て、きれいになるんぞ」と言われた何気ないエピソード。もうひとつは、「サクリファイス」の章の、女子大の校訓についての文で、「『己より高き目的』のために『自己の個性をも犠牲に』する。そんな『目的』を生涯のうちに見つけることができるだろうか」とある。この二つのことは、歌集のテーマを支える重要な要素であると思う。

女の子が「美しくなりたい」と願うのは、人の賞賛を望む以前に、純粋な自己愛からだ。しかし、大好きな父からこう言われたら、この父のためにも本を読んできれいになろうと、目的が微妙にシフトしただろう。さらに、勉強の成果を生かせる教職に就いたときは、自分を慈しんでくれた人々の愛を引き継ぎ、世の中に還元する番が来た、と考えただろう。

だが、受けた愛と報いる愛という連鎖の図式には少々問題がある。

まずは、いつくしみあふれる家族に囲まれていたことをうかがわせる一群の歌がある。弟とともに「わたしたち寝てもさめてもカブトムシみたいに西瓜食べていた夏」という幸せな子ども時代、その家を「これだけのカラダとアタマこれだけのココロで出来ることを探しに」巣立つ。あとがきには、そのあともう一つの愛を得たことも語られている。

これに対して、入谷いずみは、「犠牲」を愛の還元と位置づけているのだろうか。「無花果」の一連には、「ひらかれし母の子宮に弟と私のいた痕が残れり」など、命の継承が母体を傷つけるという思いが見られるが、それが関与しているのか、「犠牲」は「自己の個性をも犠牲に」する程度でなく、「死」のイメージさえ伴う。歌集のタイトルにも関わるこの歌を見てみよう。

人形のくちびる少し切れている数えきれないくちづけを受け

救命訓練の歌である。あまたのくちづけによって切れた人形のくちびる。この人形の対極にあるものは、王子のくちづけで蘇生する白雪姫だろう。これは恣意的な解釈ではない。くちづけと救命訓練の組み合わせから、ドミノはみるみる倒れて白雪姫に行き着く。二者の酷似に驚く間にも、ドミノは人形へと倒れ戻って、そのあわれさの本質が検証される。人の命を救おうという愛の最も近くにいながら、人形はその愛の対象外だ。入谷いずみが見据えているのは、「愛の埒外に置かれて傷つきながら奉仕する」という過酷な犠牲なのだ。

しかし、この歌集には、救命人形の対極として、白雪姫とは別のものも登場する。

溶けだした目を押さえつつまた一人岡部眼科にくる雪だるま

雪だるまは、人間のいっときのきまぐれで作られる。誰も、雪だるまが、溶けずに生きる努力をすることなど期待していない。ところが、この雪だるまは、雪 玉に目をつける程度の行為に込められた微量の愛から命を得て、当然のことのように溶けだした目を治療しにゆく。これは、救命人形が対象外であった愛をわがものとして蘇生し、くちびるを治療しに行くことだ。

ここには、絶望的だが自己愛がある。自己愛は生きる意思そのものに根ざし、「美女になりたい」などと単純に自らの幸せを願うものだ。岡部眼科は雪だるまを救えないが、いずれ死すべき人間の生きる努力とは、そもそも絶望的な努力である。この、当事者が自らの「生」を愛すという無心の根源性は、恩返し的な連鎖の図式を超越し得るだろう。

入谷いずみの歌は愛の探求だ。「パイプ机は少女らの殻にょっきりとはみ出す脚がかたつむりめく」など、少女のナマのエネルギーへの畏怖を含んだ多くの歌は、根源的な「生」の無心のさまをスケッチしている。このようなまなざしを持つことは、「これだけのカラダとアタマこれだけのココロで出来ること」をするという入谷自身の自己愛に基づくものと思われる。溶け出した目を治療するように、見聞したことを思考と感性で処理してゆく。この客観性による孤独は、「犠牲」ではないが、救命人形の孤独に近いかもしれない。

お面屋にウルトラ兄弟揃いいて瞳の穴を通う秋風


地球を怪獣から守り、人類に尽くしたウルトラ兄弟。親しまれているからお面になったのだろうが、「瞳の穴」が少しだけ髑髏を連想させ、ほんの少し殉教者のさらし首のような感じもしないではない。風が瞳の穴を通ることはその鎮魂を表し、後頭部がないことが哀れをさそいつつ、全世界が形のない頭蓋の中であるかのような、空間がひるがえる錯覚もふと起こさせる。ああ、なんという底なしの歌だろう。

歌人としての入谷いずみは、この穴の目と秋風の言葉を備えている。既に述べた論理的感性の他に、古典の素養と、大和撫子の謙虚さを併せ持つこの人が倒すドミノは、穴の目をくぐり、愛の埒外を底なしの頭蓋へと組み入れるべく世界をめぐる秋風だったのだ。

最後に、面識のある者の責任として言い添えておきたい。先に引用した父上の予言はちゃんと果たされている。