高原耕司『虚神』

出版記念スピーチ

鎮魂の反対 「虚神」出版記念会 スピーチ用メモ

2000年11月

『虚神』は高原耕治句集。出版記念会でスピーチをすることになったので用意したメモ。

このとおりにしゃべったわけではなく、その場の思いつきで変更追加したこともあったと思うが忘れた。

当事はスピーチに慣れず、要点だけのメモではだめだった。

しどろもどろになって、要点と要点をつなぐ接続詞が出てこなかったり、

各モチーフの軽重のニュアンスが伝えにくかったり、

つまり、木の説明はできても森を語れない、というふうになる恐れがあった。

それで、読み上げてもだいじょうぶなように、話し言葉でエッセイを書きあげて持っていったというわけだ。

今は、要点だけのメモでも話ができるようになった。ずいぶん成長した(笑)。


■1果てのなさというゆきどまり


ちょうどそのとき、世界にはゆきどまりがあるなあ、なんて考えてたんです。

世界には外側はないですよね。あるんならそこも世界のはずだから。


これはパラドックスです。

でも、こういうパラドックスの果てがないのは、外側に根拠が求められなくなるせいなんだから、

矛盾によって世界は閉じているといえるわけで、

こういう果てのなさこそが世界の果てであると、逆に、言えるかもしれないなあと思ったんです。


(笑)わけわかんないことを言いましたが、


この旅

恐ろし

うみは うみ噛み

そらは そら噛み


という句を読んだのが、ちょうどそういうことを考えていた時だったんです。


どんぴしゃり。

この光景は、果て無き自己矛盾のパラドックス、という世界の果てみたいだ。それを具現していると思いました。


この本には他にも、果てのなさを含む句がいくつかありました。


ぼくを指差す

亡霊

指差しかへす

ぼくのぼくの亡霊


粉ミルクの缶に描かれた女の子がそのミルクの缶を持っているのを思い出します。

パラドックスではないけれど、果てがないという意味で、さっき言ったようなある種の行き止まりと似ています。


三面鏡をちょうどいい角度にすると果てのない鏡の道が一瞬にしてできあがります。

こういう世界の果てのようなものは、囲いみたいなものではない。

いつも決まったところにあるわけでもなくて、何かの拍子に一瞬にしてそこここに構築される、神出鬼没なものだな、と思ったら、

はいそうです、といわんばかりにこんな句もありました。


一瞬にして 無は

組まれけり

山彦内部


いよいよ、私の読み方は正しいと確信が深まりました。


■2挑発と鎮魂


ただし、ここまでは頭の体操で済むことなんです。

でも、この本にはもう一つの特徴がある。

高原さんは、こういう哲学っぽいことを書きながら、その対象が感情を持っているものとして描いているのです。


それは奇妙なことではないですか?


例えば「ゼロの軍勢がのぼる」

というんだけど、

ゼロというものは、戦う意志なんか持つだろうか。

「軍勢」という語が人間臭いでしょう。


憤怒り

憤怒る


全身舌ののっぺらぼう


という句もそうです。

「のっぺらぼう」というのは、ふつう、得体の知れない、とりつくしまのない、無表情なものです。

なぜそれに、感情を付与したり姿を与えたりする必要があるのか。


のっぺらぼうというのは、論文の方にも出てくる言葉です。論文には、「空白意識」とか「非在」とかの言葉もありました。

こういうものに感情があると感じる人はあんまりいないのではないでしょうか。

この疑問を解いたのは、この句集の随所に見られる、挑発的ユーモアのセンスでした。


感情のないものに感情を与えるということは、一種の挑発なんです。

「憤怒り 憤怒る 全身舌ののっぺらぼう」というのは、

「そら怒ってる怒ってる、オバQ野郎」

といういうふうに挑発する気持ち。それ自体を書こうとしたわけではないだろうけど、

そういう気持ちがあるのを反映しているのじゃないか思うんです。


のっぺらぼうみたいなものは、本来はこういう人間くさい挑発に乗らないもののはずです。

だから、挑発しても効果はないはずだけれども、こういうふうに挑発する書き方には、

何か妙な効果があるって、一蹴できない気がしました。


蒼穹は

遠心分離機

股間の

単三アルカリ乾電池


俗っぽい喩えをしちゃえば、全く自分を理解してくれない,興味も持ってくれない親に対するような感じがある。

とっくにあきらめているけれども、何かリアクションがほしい。

挑発的な言葉を投げかけても、それが蒼穹の遠心分離機にただただ吸い込まれてしまうがごとき「手応えのなさ」。

こういう行き止まり感を、せめてもの婉曲なリアクションとして受け止めている。そういう感じがするのです。


股間の乾電池というんですから、自分の命をぜんぶ使いきるまでの言葉や行為のすべてが、

見上げた蒼穹の遠心分離機に手応えなく吸い込まれる、という感じでしょう。

高原さんは空白とか非在みたいなものに、命を向き合わせているんですね。

この句集のユーモアは、鎮魂の反対なんだと思います。鎮めるんじゃなくて挑発するんです。


沼のびあがり

沼のびあがる


赤子の<密室>


という句。


沼といえばどろどろした形のない、世界のはじまる前みたいなもので、それがなにやらしきりと期待まじりに様子をうかがっている。

これは、まだ赤子である<密室>の空白の様子をうかがっている。

赤子という喩えには、人並みはずれた愛情がある。

同時に、おまえの赤子時代を俺は思い浮かべられる、という、かすかな優位による挑発もある気がする。考えすぎでしょうか。


並外れた愛情、と、手応えのなさというリアクションしか期待できない挑発、この二つが無理に釣り合おうとする。

これはまさに、「海が海を噛む」ような書き方でしょう。そして、これは一つの世界の果てでしょう。


無効な挑発による無効な反鎮魂にすぎないけれど、徹底してパラドックスに至っているわけで、

この句集に限っては、その無効であることががかろうじて意味を持つと思います。

(「かろうじて意味を持つ」のも大事な点です。やすやすと成立する「意味」のゴミが世に満ちているなかで。)


この句集は、論文とは全く違ったステージで、真剣に、のっぺらぼうに対処したものだと思います。

真剣な抒情はすごく弱点をさらすものです。

命そのものの切望がなければそんな勇気は出てきません。


俳人は歌人に比べたら抒情に抵抗があると思いますし、

しかも、「空白」とか「非在」みたいなものに、感情を付与して挑発しようという戦術が変わっていて、すごく面白かったです。