♥イチオシ
●蛇口の歌を集めてみたが、この歌に似た歌は他にない。
つげ義春に「腕に蛇口を取り付け」た絵があるのかどうか知らない。
私としては、現実には無いものをありそうに言ってのけ、目に浮かべさせることの価値が高い。
自らの内にしか無いものを拠り所として読者を納得させ得る強気の表現。 言葉にポパイみたいな力瘤がある。
♥もういっこ
●北海道のあのカタチが蛇口かい!
蛇口の形に注目した歌は他にもあったが、北海道の形に結びつけたのは独自だし、秀逸だと思う。
短歌の作り方として最も一般的スタイルは「事実+心情や考え」である。(少なくとも初心者はそう教わることが多いようだ。)
だからだろう、以下の1,2に該当する歌が多数派である。
●蛇口をひねるとせき止められていた水が流れ出す。それが、何か〝深いこと〟を考え始めるきっかけになる。
実際にそうかどうかはわからないが、短歌の表現上、蛇口はそうしたシチュエーションに用いやすい歌材なのかもしれない。
しおみまき
岸原さや『声、あるいは音のような』2013
藤原龍一郎『19××』
神﨑ハルミ
小野みのり「早稲田短歌」44
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
フラワーしげる『ビットとデシベル』2015
森岡貞香『敷妙』
中島裕介 朝日新聞夕刊2012/9/25
荻原鹿声『一粒の今』
●蛇口から出る水は、遠い場所からつながる水道管でここまで流れてきたものだ。
大井学『サンクチュアリ』2016
大滝和子『人類のヴァイオリン』
寺松滋文『爾余は沈黙』2003
●我妻の歌では、蛇口を詰まらせて相手の世界を遮断しているかのようだ。
高野公彦『天平の水煙』
斉藤斎藤『渡辺のわたし』2004
●蛇口の追憶系の歌の中で最も遠い記憶を詠んだのはこの井辻の歌だ。
●ここまで見てくると、蛇口を歌に詠み込む際に、「蛇口をひねって水を見ると何か少し深いことを考える」という暗黙の抒情的了解があるかのような感じがしてしかたがない。
それはおそらく、蛇口という語のイメージに、そのように作者を促す要素が含まれていて、多くの人がそのような歌を詠み、その結果、現在は、暗黙のうちに抒情的了解がうすうす共有されてつつある段階(無意識のステレオタイプ段階)であると思われる。
この種の〝うすうすステレオタイプ〟に敏感な人もいるはずだ。
次の歌のようにひどく非抒情的な詠みぶりは(少ないけれど)、そういう〝うすうすステレオタイプ〟をみんなで仲良く共有する甘さに対する拒否ではないかとも思えてくる。
が、それはあくまで私の考えだ。考えすぎかも知れない。
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』
ひとつの絵のなかに蛇口を花をおさめたくなる? 考え過ぎ?
大衡美智子『光の穂先』
何か小さいもの(バックミラーだの、割れた鏡だの)に空が映っているのを見つけて詠む歌が、この10年ぐらいでどっさり詠まれた。
個々の作者は無意識だろうけど流行である。そのなかで、蛇口はなかなかの発見だ。
大西久美子『イーハトーブの数式』
笹井宏之『ひとさらい』
佐藤りえ『フラジャイル』
蛇口のカタチなどに着目した例。
松木秀『RERA』(2)
陣崎草子「かばん」新人特集2010.12
香川ヒサ『三十一文字のパレット』より
木下龍也
●神様がその蛇口をひねるまで( )内のことが前者か後者か決まらない。つまり シュレーディンガーの猫っぽい。
山階基「早稲田短歌」42号
葛原妙子『葡萄木立』1963
2019.2.19 高柳蕗子