2024年4月14日 大斎節第3主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 第24章36b~48節)
先週に続き、復活の主イエスが弟子たちに現れる場面が読まれました。先主日、復活の主イエスは恐れの中にある弟子たちに現れました。家の鍵をかけて震えている弟子たちの真中に現れたのです。今日の箇所ではそうではありませんでした。今日の箇所の直前では、弟子たちはそれぞれが復活の主イエスにであった時のことを報告しあっていました。エマオへ帰る道中、復活の主イエスが聖書について話されたこと、宿屋での夕食の際に主イエスがパンを裂いてくださった際、自分たち二人の目が開け目の前にいる人物が復活された主イエスであると分かったこと。復活の主イエスが共におられたとき自分たちの心は燃えていたこと。そしてペトロに復活の主イエスが現れたこと。そのような報告がなされている場に、復活の主イエスが現れたのでした。「あなたがたに平和がるように」との言葉と共に。
弟子たちは最初、復活の主イエスを亡霊だと感じたようです。しかし、主イエスは怖がる弟子たちに対して、自分は亡霊ではなく主イエスであることを示します。根気強く丁寧に、言葉でもってそしてご自身の体を弟子たちに見せることで。恐怖が拭い去られ、喜びに満たされた弟子たちと共に、主イエスは食事を共にされ、そして弟子たちの心の目を開き聖書を悟らせます。
復活の主イエスはたったこのことのためだけに弟子たちを訪れたようです。実際には「たったこれだけのこと」とは言えない重要なことですが、しかし、主イエスがどれほど弟子たちを想っておられるかが伺えます。まるで、親が小さい自分の子どもに対して接するような、愛に溢れた一場面です。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年4月7日 大斎節第2主日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 第20章19~31節)
本日の福音書箇所の直前、マグダラのマリアは復活された主イエスに出会ったことと、主イエスからの伝言を弟子たちに報告していました。しかし弟子たちはその報告を耳にして喜ぶどころか、「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」いました。その理由を福音書は「ユダヤ人を恐れて」と説明しています。
これは一つの可能性ですが、弟子たちは他のユダヤ人たちから自分たちが師である主イエスを裏切り見捨てたことを咎められる、そのことを恐れていたのではないでしょうか。一番弟子のペトロにいたっては、主イエスが裁判を受けている最中、主イエスとの関係を三度も否定しました。聖書において「罪」とは神との的外れな関係性を言いますが、弟子たちはまさに主イエスとの関係性を的外れなものにしてしまいました。主イエスに対して罪を犯していたのでした。
そのような弟子たちの真中に復活の主イエスはお立ちになります。「あなたがたに平和があるように」、主イエスは弟子たちに声をかけます。その主イエスの言葉からはご自分に対して罪を犯した弟子たちへの咎めの姿勢は微塵も感じられません。そしてそのことを証明するかのように、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と弟子たちに息を吹きかけられました。この一言は、誰かが自分に対して罪を犯したその罪をあなたが掴みつづけるか、その手を離して罪を去らせるかの選択ができる、との意味です。そして実際、主イエスは弟子たちの罪を掴み続けることなく手を放しておられたのでした。それは弟子たちが罪から解放されたことを意味します。主イエスの赦しによって、主イエスが弟子たちの罪を手放してくださったことで、弟子たちは新たな一歩を踏み出すことができました。それは聖霊に導かれる歩みでもありました。
(司祭ヨハネ古澤)